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言葉の抜け穴(”ことば”と”意味”をめぐる対話 第一回)

小伝馬町の本屋「ほんやのほ」の店主、伊川佐保子さんと、国分寺の「語学塾こもれび」の塾長、志村響さん。「本屋」と「塾」という異なる空間を拠点に活動する二人ですが、ことばを愛し、ことばに対して真摯に向き合う姿勢には共通するものを感じます。
そこでそんな二人に、往復書簡という形で”ことば”と”意味”をめぐる対話をしてもらうことになりました。それぞれのことば、それぞれのアプローチで語られるものからは、きっと何か素敵なものが見えてくることでしょう。
第一回は、伊川さんから志村さんに宛てたお手紙。
志村さんが語学塾こもれびのブログに投稿した文章「ぐらぐらの城」を読んだ伊川さんの応答から始まります。
(編集:ことばの本屋Commorébi(こもれび)秋本佑)

今更ながら弁解すると、以前お会いした際なんの気なしに言った「いつでも同じことが言えそうですよね」という一言は、もちろん「いつも同じことしか言えないように見える」ということではなかったのですが、少し雑すぎたかもしれないと反省しています。
でも、志村さんがその後書かれたあの誠実な文章が生まれた状況にいくらかの影響を与えたように思えますから、実はよかったのかもしれないとも思っています。

文章の中で志村さんは「同じことが言える」ことについて同意しつつ、「あまり褒められたものではないとも思っている」と書いていました。
「相手がいる対話は、自分との対話の結果発表会ではない」
そして自分との対話によって作られた言葉のことを「城」と表現されていました。

読んでいてまずはじめに思ったのは、そうは言っても「同じ言葉」なんてありえないということです。
私自身の言ったこととまるで矛盾しているのですが、同じセリフの演技ですら毎回違う生命を宿してしまうように、同じことを繰り返し言っているようでも、それは常に状況や語りとともに変化しているはずです。だから、自分では結果発表会のように思えていても、その発表会は一回性のもので毎回違っているものなのでしょう。

それでも、長く城で過ごしていると、膠着感を覚えることもあると思います。
日々矛盾したあれこれを行きあたりばったりに話している私もまた、自分の中に言葉の城を建築して長くなります。
城が強固であれば快適な住居になります。きっとそれ自体が悪いものではありません。
でもどうやら城の力に頼りすぎると、相手が見えなくなったり、自ら囚われてしまうことがあるようです。

例えば、こういうことがありました。
普段脳天気なためか、たまにとことん落ち込むような瞬間があります。
先日、私はそういう出来事に遭遇し、悩みきっていました。
私にはどうしようもない、到底力の及ばない内容を、まるで自分がどうにかしなければいけないような思いに浸ってしまい、頭の中を言葉が駆け巡っていました。
今思えば、相手不在のまま勝手に相手を想定した、合わせ鏡のような脳内の対話でしたが、なかなか抜け出すことができませんでした。

その時、私はいつもどおり店番をしていたのですが、店には自分しかいませんでした。
閉塞感で息が詰まってしまいそうでした。
どのくらいの時間だったかはわかりませんが、言葉が頭の中を埋め尽くしてしまいそうでした。

しかし、私は偶然、机から顔を上げました。
すると、視界の中に本棚が入りました。

サリンジャーの代表作に『ライ麦畑でつかまえて』という作品があります。
好きな物語です。
私にはその題名が意味ではなく、音として流れ込んできました。
「ライ麦畑、ライ麦畑」と口の中で唱えました。
そして、「ああ、大丈夫だ。かぶっていない」と思いました。

ら・い・む・き・は・た・け

この中には重複する文字がありません。
ということは、どういうことか。
この言葉を使っていろは歌が作れるということです。
いろは歌というのは、「いろはにほへと」からはじまるあの有名な歌、そして五十音を重複させず、一文字ずつ均等に使って意味のある歌を作る言葉遊びのことです。

私は「いろはにほへと…」とひらがなを並べ、それを一文字ずつ消していきました。
そしてひとつの歌を作りました。
いろは歌を作るのははじめてのことでしたが、二時間以上のあいだ、私は夢中で言葉を並べる仕事をしました。

ライ麦畑 居ぬ僕が
子供忘れ 世を転び
道落つる笛 嘘在りて
故に寝覚めし 部屋の何故

らいむきはたけゐぬほくかこともわすれよをまろひみちおつるふえうそありてゆゑにねさめしへやのなせ

でき上がった歌をメールに書き、店を出ました。
そのころには、驚くことに、私は焦燥感も憂鬱さもすべて忘れて、身体中を言葉が通り抜けたようにすっとした気持ちになっていました。

私たちはそれぞれの城に住んでいます。
それが頑丈で堅実で安心できる場所であるなら、増築や改築を重ねることはあっても、壊す必要はないように思います。
正面玄関を開けているのは心配だというのなら、いつでも自由に抜け出せる穴を知っていればいい。

とは言え「いつでも自由に」というのはむずかしくて、城を建てたはずの自分ですら、抜け穴を見つけるにはちょっとした道標が必要です。
それは物語であり、歌であり、詩です。
……または、だれかのドキッとするような一言なのかもしれません。

つまり、自らの言葉で相手を規定しすぎてしまったり、自らが囚われてしまわないようにするには、今の自分の外側にある言葉はとても大切なのだと思います。

私にこの文章を書かせてくれた志村さんの言葉もまた、小さな秘密の抜け穴への道標だったようにも思います。

ここからは余談なのですが、言葉の魅力を改めて体感した出来事なので、少し続けさせてください。

数日後、メールを送っていた相手、歌人の結崎剛さんから返信がありました。
彼は私の店のレシートに作品を印字する企画「文芸レシート」にいろは歌を寄せてくださった、私にいろは歌というものの魅力を教えてくださった人です。

メールには私のはじめてのいろは歌について丁寧な感想が書かれていて、それからこうありました。
「あえて一言いえば、次からいろは歌をおつくりになる時は『ん』もお入れになると、七五調が調って綺麗ですよ」

「ん」
私は愕然としました。
そうだった、そういうことだったのか。

実は(声に出して読めばすぐ分かることではありますが)、上に書いたいろは歌は一部破調が生じています。
「子供忘れ(こともわすれ)」のところです。

というのも本家いろは歌で使われている文字は四十七。
七・五・七・五…と進めていくには一音足りません。
よく読めば、本家でも「我が世誰ぞ(わかよたれそ)」のところは六音です。
古語のことも、歌のことも分からない私は、なんだか落ち着かない感じになりながらも、本家に合わせて同じ場所を六音にしていました。

しかし、「ん」を使っていいとなれば話は別です。
古語において「ん」がどういう位置づけなのかよく知りませんが、とにかく私はすぐさま作り直すことにしました。
大枠は変えないつもりでしたが、「ん」を入れるためにはいくつもの変更が必要でした。
そうしてできたのが次の歌です。

ライ麦畑 居ぬ僕の
忘れし子供 世に転び
道落つる笛 嘘を撫で
寝覚め所以へ 風在りや

らいむきはたけゐぬほくのわすれしこともよにまろひみちおつるふえうそをなてねさめゆゑんへかせありや

見比べてみて、びっくりしました。
「ん」を入れて七五調を調えるためだけに、大きく変わってしまった部分があったからです。
「ん」のない世界では、世を転(まろ)ぶのは「僕」でした。しかし「ん」のある世界で世に転んでいるのは「僕の忘れし子供」の方です。

嘘の在った笛は、今や嘘を撫で、吹いていなかった風すら存在しています。その世界も悪くないような気がしました。結崎さんの一言が私に「ん」を教え、そこに風が生まれたことは、私には奇跡的な出来事のように思えてなりません。

私はいつも、言葉を使っているふりをしながら、こんなふうに言葉にたくさんの奇跡を教えられています。
願わくば、世界中の城に思いもかけない抜け穴がありますように。
そして、そこにやわらかな風が吹き抜けますように。

●伊川佐保子(いかわ・さほこ)
1992年東京生。本屋「ほんやのほ」店主、会社員もしている。言葉と本と人が好き。手紙をポストに投函するのが苦手。飛び立つ胸に書店ひとつも止し、晴れたが幸いへ行かせて「世界平和」いざ語れば、書物と瓶で四時に眠った人(とひたつむねにしよてんひとつもよしはれたかさいわいへいかせてせかいへいわいさかたれはしよもつとひんてよしにねむつたひと)。
●志村響(しむら・ひびき)
1994年東京生。「語学塾こもれび」塾長。まぁ無理にフランス語やらなくてもいいのでは?が口癖になりつつあるフランス語教師。言葉と音と服が好き。人の話を聞いていないように見えるときは相手の声音を聴いているか、月にいる (être dans la lune) かのどちらかです。

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