ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(3)読書メモ

第二章 第七節 抑制と抑圧

                                      

それは社会的抑制であり、社会的抑制の諸力なのである。ドゥルーズ+ガタリは、「抑制」と「抑圧」を使い分けている。「抑圧」の方が、無意識へと抑圧されているときの「抑圧」で、「抑制」の方が、普通に日常語で使用している抑圧というもの、社会的に特定の集団やタイプにプレッシャーをかけるというものをさしている。現在、話題となっている統一教会へのマスコミや大衆の批判のようなものだろう。

                                        

前者は、社会的「抑制」と無意識の「抑圧」が相互にどういう関係にあるかという一般的な問いであり、後者は、「抑制ー抑圧」システムにおけるオイディプスの特殊性を問うている。「抑圧」は「近親相姦の欲望」を対象としているだけではなく、金銭欲、名誉欲、暴力衝動、支配欲などの種々の欲望も対象としている。「近親相姦の欲望」が「抑圧」がされていると、それは、単に家庭内での関係が中心となり、「社会的規制」は、それを、疑似家族的な人間関係において再現するだけとなる。

「近親相姦の欲望」は、社会的に規制されているから、この欲望があるのだろうとされているが、この欲望の存在があるのかどうかは別にしたとしても、その欲望自体が無意識の中に抑圧されているのだと、フロイトがいうのだが、何をもってその証拠とするのかは、考えこまざるをえない。

法で禁止されているのは、人間がそれを欲しがるので法で禁止せざるをえないというのを、われわれは教えこまれてきたが、実は逆で、禁止されているから、われわれは、それを欲しているのだと思いこまされたともいえる。人が衣類を着るようになる前は、動物と同じように、裸の女性を見ても、欲情は湧かないと思うが、人は衣類で隠すようになると、見るなと禁止されても、それを、強引に引きはがすような行為をすれば犯罪となるが、こころの中では、見たくなるのが人の常だろう。もちろん、皆がそうではないだろうが、禁止されると、禁止を解きたくなるという例としてあげただけだ。


ここには、典型的な誤謬推理が、もうひとつの誤謬推理があるが、これを置換と名づけるべきだろう。

なぜならば法は、欲望あるいはもろもろの「本能」の次元において、完全に虚構的な何かを、禁止し、その結果、法の臣下たちがこの虚構に対応する意図をもっていたと彼ら自身に思い込ませる、ということが起きるからである。

こうした置換は、法が意図に食い込み、無意識を有罪にする唯一の仕方でさえある。

ようするに私たちは、形式的な禁止から現実に禁止されているものを結論することを可能にするような二項の体系に直面しているのではない。私たちは三項の体系に中にあるのであって、このような結論はまったく不正となる。

私たちはは次の三項を区別しなければならない。
①抑圧を操作する抑圧的な表象:その本来の欲望が無意識へと抑圧
 されているオイディプスという表象自体が、抑圧に寄与してい
 る。抑圧があるのか、表象によって抑圧が生じるのかわからない
 循環的な関係のこと。

②抑圧が現実に及んでくる抑圧される表象者(表象するもの):抑
 圧が表象するものに対して現実的に影響を及ぼす、もしくは、表
 象するものの上で現実に影響を及ぼす、と両方の意味が含まれて
 いるのでしょう。

③置換される表象内容:対応するのは、実在するオイディプス的な
 人間ではなくて、そういう人間として表象される誰か、つまり本
 当に近親相姦の欲望とか父への対抗心を潜在的に抱いていて、そ
 れが抑圧されているかどうかわからないけど、そういう存在とし
 て表象される誰かです。

抑圧は、欲望を置換することなしには作動しえない。欲望が作動するときには、必ず、罰に対してすっかり準備が整い、罰を切に願う事後の欲望のほうが表に出て、原則的に、あるいは現実的に抑圧の対象である事前の欲望のかわりになってしまう。

私 たち は、 無意識 は 何 も 観念的 な もの を もた ない という こと を 理解 し て いる、 それ は 概念 に 似 た 何もの も もた ず、したがって何も人格的なものなどもたない。

なぜなら、人格という形態は、自我と同じく、意識的な〈私〉に、あるいは心的主体としての〈私〉に属しているからである。

それゆえ最初の分析は、まったく非人間的なものであり、またそうあるべきであり、いわゆる人間的 な 諸 関係 が 働く 余地 は ない の だ。 最初 の 接触 は 人格 的 でも なけれ ば、 生物学 的 でも ない。 精神分析 は この 事実 を 理解 する こと に 成功 しなかった。

ほんとう の 危険 は 別 の ところ に ある。 欲望 が 抑圧 さ れる のは、 どんなに 小さな もの で あれ、 あらゆる 欲望 の 立場 は、 社会 の 既成 秩序を糾弾する何かを含んでいるからである。

社会 の もろもろ の 部門 の 全体 を 吹き飛ばす こと なし に、 措定 さ れる 欲望 機械 など あり え ない。 ある 種 の 革命家 たち がどう考えるにしても、欲望はその本質において革命的なのである。

欲望が社会を脅かすのは、それ が 母 と 寝る こと を 欲する からでは なく て、 それ が 革命的 で ある からなの だ。 これ が 意味 し て いる のは、 欲望 とは 性愛 とは 別 の もの であるということではなく、性と愛は、オイディプスの寝室の中で生きてはいけないということである。

欲望は革命を欲するのではない。欲望は、それ自身で、まるで 意図 し ない かの よう に し て、 自分 の 欲する もの を 欲する こと によって 革命的 なので ある。 この 研究 の 始め から、 私 たち は 次 の 二つのことを同時に主張している。

①社会的 生産 と 欲望 的 生産 とは 一体 で ある が 体制 を 異に し、 したがって 生産 の 社会 形態 は 欲望的生産に対して本質的な抑制を行使すること。

②欲望 的 生産(「 真 の」 欲望) が、 潜在的 に 社会 形態 を 吹き飛ばす何かをもっているということである。

精神分析が、ある前提された脈絡から何を期待 し て いる か、 いま は よく 分る。 この 脈絡 では、 オイディプス は 抑圧 の 対象〔 客体〕 で あり ながら、 超自我 の 介在 によって、 抑圧 の主体さえなれるのである。精神分析は、この脈絡から、抑圧を文化的に正当化することを期待しているのである。

これによって抑圧が前景を占めることになり、もはや抑制の問題は無意識の観点からは二次的なものとしか考えられ ない こと に なる。 だから、 フロイト の 批判 者 たち は、 フロイト の 保守 または 反動 への 転換 点 を 見きわめる こと が でき た。

抑制的な社会社会的 生産 が、 抑圧 的 家族 によって 代行 さ れる という こと と、 抑圧 的 家族 が、 欲望 的 生産 の 置き換え られ た イメージ を 与え、 この イメージが、抑圧されたものを家族的、近親相姦的欲動として表象するということ、二つは同一の運動の中で起きる。



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