柄谷行人(著)『探求I』        命がけの飛躍と世界の境界

第三章 命がけの飛躍

 体系の変容を個々人の実践に帰すことができない以上、われわれは、差異体系が自ら変わる(自己差異化する)というほかなくなる。人間の実践とは無関係に言語そのものが自ら活動するかのように。

それは、われわれが道路で赤信号のときとまるとき、赤信号自体がわれわれをとまらせる力をもつかのように考えるのと似ている。

 この場合、差異体系を”作品”とよび、自己差異的な差異体系を”テクスト”とよびかえれば、いわゆるテクスト論者のいい分も同じようなものだということが判明する。すなわち、テクストそのものが、いかなる体系性(囲いこみ)を突き破り多方面的に”意味”を生産するような考え。(P47)


 しかし、このいずれも、マルクスのいう神秘=社会的(*)なものに触れてはいない。

それに直面するためには、これまでの態度を変更しなければならない。聴く立場から教える立場へ。(中略)つまり、記号・形式(それがどんな素材であってもよい)の差異性が意味をもたせるということではなく、そもそもその前に、そのような記号・形式で何かを「意味している」ことが《他者》にとって成立する否かが問題なのだ。

あるいは、そこに存する無根拠的な危うさが。【注*自分の生産物や労働力(商品)が他人に売れることが確信できないだろう。そこには命がけの飛躍(マルクス)がある。】(P48)


 この《他者》は、サルトルがいう他者とは区別されなければならない。後者は、ヘーゲルの「主人と奴隷」に関する考察ーーー自己意識ともう一つの自己意識との相克ーーーに発している。これは同質的であるが、《他者》は異質であり、そもそも、《他者》との間に「ゲーム」が成立するかどうか不明である。《他者》は猫に似ていて、われわれに時たま関心をよせるかと思えば、まったく無関心であるような猫に。(P50~51)


 規則は「跳躍」のあとから見出されるということ。《われわれのパラドックスはこうであった。すなわち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させるから》(哲学探究」201)このウィトゲンシュタインのパラドックス」含意する問題は多様である。(P57)

 たとえば、ペテロが「われは然らじ」というとき、それはいわば「内的な状態」であり、「私的規則」である。実際の”文脈”において、彼は違った「行為の仕方」をとる。

彼の発現(規則)は、「行為の仕方」を決定しえない。逆に、彼のやった行為からみれば、「彼は然らじ」という”内的状態”などありはしなかったということもできる。

また、ペテロは、意図的に裏切ったわけでもない。彼は、文字通り夜の「暗闇の中での跳躍」のあとで、やっとイエスのいったことを想い出して泣くのだ。(P58)


 ウィトゲンシュタインの「自然史的」立場は、悲劇的なものである。彼にとって、ここに存する「盲目性」は、理論的に分析さるべきものでも、断罪さるべきものでもない。

「考えるな、見よ」という彼の言葉によれば、それはたんに直視されるべき事実なのだ。哲学は、こうした実践的な乖離を直視するかわりに、それを無視したところに確実な根拠を求めるところからはじめる。いいかえれば、それは「内面」からはじめ、《他者》を抹殺してしまうのである。(P60)


 そのような哲学への批判を、マルクスの場合、「経済学」批判において、ほとんどそこにおいてのみあらわれている。彼の窮極的な問いは、「価値がある」(意味している)という事態が何であるかということにある。

もしこの論点を見失えば、「価値形態」についての彼の議論も、記号論的な分析にすぎなくなるだろう。

逆に、そこから見直せば、「価値形態論」は、実体的な価値を関係の物象化であると批判するだけの静的な視点に帰着するどころか、そういう呑気な視点を叩きつぶすものとなるだろう。たとえば、価値形態を事後的に成立させる交換(等置)という行為をみよ。(P60~61)


 ここで、マルクスが、物象化されてしまうという「社会的性格」が何であるかはすでに明らかだろう。「社会的」とは、たんに「関係的」ということではない。

むしろ、それは、交換(=等置)という「行為」に対する、盲目的な跳躍を意味するのだ。「規則」によって、等置という行為の仕方が決定されるのではない。その逆である。等置という行為があったあとで、そのつど規則が見出されるにすぎない。(P62)

 人間は「意識はしないが、そう行う」。このようにして、語られる「社会的性格」すなわち無根拠的・盲目的・実践的な在り方は、けっして、「無意識」というような概念によって解消されはしない。

たとえば、「無意識」を解明しようとしたフロイトの精神分析は、〝共通の本 質〟の如き規則を想定してしまうユングのそれとちがって、患者と医者の対話的関係、ある いはそこに存する 「社会的性格」を、 けっして排除することができない。そこでは、ラカン がいうように「終りなき分析」しかありえない。

むしろ、精神分析の功績は、孤立した個人 の「内省」からはじめることも、〝客観的"な立場からはじめることもできないということ を、明らかにしたところにあるというべきである。

その逆に、もしわれわれが、「意識しないが、そう行う」ということを、「無意識」なるものに帰着させて行くならば、ちょうどペテロの裏切りを内面的な”罪”に帰着させて行くのと同じことになるだろう。そのとき、社会的なものの「神秘」は消え、理論的な「神秘主義」がとってかわるだろう。(P63)


 しかし、そのような「力の発現の場」を、想定したり推論したりしてはならない。ニーチェの「系譜学」の問題は、より厳密にいえば、「ウィトゲンシュタインのパラドックス」によって要約されることができる。

つまり、さまざまなレベルや領域でニーチェがやった「哲学の仕事」は、いつも「規則」が定立され、同一性(及びそこからみられた差異性は矛盾)が定立されるような結節点にかんして、その前への「展望」を与えることであった。(P67)

第四章 世界の境界

 ウィトゲンシュタインの「私的言語」批判を、この種の思考ーーー社会的・制度的なものの優位ーーーと同位におこうとするのは、間違いである。たしかに、彼は、意識=主観から出発する思考をしりぞけようとする。

だが、それは、”誰にとっても”存するような、共同主観的・社会的な形式に到達するためではない。彼の「私的言語」批判は、実のところ、それに足して想定されるような社会的・共同主観的規則への批判であり、あるいはそれらを対立させる思考そのものへの批判である。(P74)


 「語の意味とは、言語内におけるその用法である」(「哲学探究」43)と、ウィトゲンシュタインはいう。ここで言語内とは、言語の規則体系内部ということを意味している。

しかし、ここから、言語の体系と用法を分離してしまえば、ラングとパロールという考え方になってしまう。また、文脈をこえた同一的・普遍的な意味を分離する考えが出てきてしまう。

この種の分離は、社会的なものと個人的なものの二分法の変種にほかならない。われわれはこういいなおさなければならない。《他者》にとって「意味している」ことが承認されるとき、その限りにおいてのみ、「文脈」があり、「言語ゲーム」があるのだ、と。つまりそのかぎりにおいてのみ、われわれは「規則にしたがっている」。(P75~76)


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