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50年目のサプライズ

2018年4月27日の夜、上町から一通のメッセージが届いた。

誕生日の夜は、家族で料理をして食事をする予定だったし、翌日はとくに予定を入れていなかったので、妻に何処か出掛ける予定は無いか?と確認をしたところ、何も予定は無いと言うので「ありがとう」と返事をした。

して、当日。
いつものペースよりも、ずいぶんと早めに用意をした妻と娘が私を起こしにきた。11時過ぎに家を出てオフィスに向かえば充分に間に合うのに、今思えば娘は10時頃からそわそわとしていた。

11時15分頃、私は車のトランクに荷物を積み込み、家族が出て来るのを待っていた。しばらくすると見かけないハイエースが家の前をゆっくりと通りながら、助手席の男があきらかに私の方にカメラを向けて撮影していた。
私は手で撮るんじゃないと仕草をしながら見ていた。
それでも撮る行為をやめようとしないので「撮ってんじゃねーぞ」と声を出しながら近付いた。
その時に助手席の男が撮っていたのが怒り心頭の、この写真である。

メガネをしていなかったのでよく見えなかったのだが、近付いてよく見ると助手席の男はプログラマーの山森だった。
ただでさえ怪しい風貌の男なのに、カメラのレンズで顔の半分が隠れていた為に、全く気付かなかった。

すると運転席から上町が降りてきた。
私は「車、買ったのか?」と聞くと「迎えに来ました!」と、質問と違う答えをしたのでイラッとした。

とにかくそのハイエースに乗れと言うし、妻もこのハイエースで行こうというので、しぶしぶ乗ることにした。

意味が分からず、車は海の方に向うし、ふだん歩くことしかしない山森がグーグルのナビをみながら、とんでもない道を上町に指示し、ロングサイズのハイエースでは通れない道路に迷い込んでしまい、民家の庭でバックしながら方向転換をしている。
恐らくグーグル・ナビの徒歩ボタンを押していたのだろう。
ふだん歩くことしかしないし。

えらく遠回りをしながら20分ほど走り、私も行ったことが無いような場所を通り掛かると、ヒッチハイクの人が立っていて、行き先が書かれたカードには「ブラジル」と書かれていた。
(※写真は山森が撮影)

そこには、売れっ子放送作家で忙しい筈の木南夫妻が立っていた。
「これは、もしやサプライズというやつなのか」
と、その時に察知した。

二人を拾い、車は今度は真逆の山の方向に向かって走り出した。
卯辰山工藝工房の近くで、またヒッチハイクの人が立っていた。
行き先には「平壌」と書かれている。

今度はイケイケのテレビ制作会社フーリンラージの社長で業界では将軍様と呼ばれている森田夫妻が立っていた。

一瞬「こいつら、忙しそうなフリして実はヒマなのかな?」と思ったが、忙しいところをわざわざ来てくれたんだな。と考えを改めた。

この時点で約1時間ほどのハイエース・ドライブをしているので、少し飽きていた。
やっとオフィス方面に向かって走り出し、尾張町のあたりでハイエースは横道に入り始めた。
すると、またヒッチハイクの人が立っているではないか。
こんどはカード書かれている文字が少し長い。

そこには、水で革命を起こすであろうスタートアップ「WOTA」代表の北川くんが、行き先ではなく「希望」を持って立っていた。

なんだこれは。

ハイエースはオフィスに到着し、会場に向かった。
ドアを開けると、皆がクラッカーを手に持って待っていてくれた。
仲間の子ども達も来てくれていた。
いつの間にか、こんなに子どもが居たんだな。

司会進行役の森崎監督から挨拶があり、バースデーパーティーは始まった。
森崎は私が金沢に移住してすぐに訪ねてきてくれて、それまで勤めていた地元テレビ局を辞め、一緒に仕事をすることになったパートナーだ。

乾杯の挨拶は盟友、銭屋ご主人の髙木慎一朗さんから。
ありがたい言葉を頂いた気がするが要約すると「美味いもの食いたいんだったら、健康でまだまだ頑張れよ」みたいな話だったと思う。

今回の企画をまとめてくれた上町にマイクが渡され、テーブルの上に並べられた料理について説明がされた。
このたくさんの料理は、私の年齢に合わせて50品を、参加してくれた皆で作ってくれたのだという事だった。
料理のそれぞれに、作った人の名前とキャプションが書かれていた。

「50品も食うのかよ」
この年齢になると、節分の豆でさえ途中でゲップが出る。
正直そう思ったが、ありがたく全品を少しずつ頂いた。
驚いたことに、どれも美味しい。
そして凝っている。
私のオフィスにはあらゆるジャンルに精通した「クリエイター」しか存在していない。そうなると、恐ろしいことに料理でさえもこんな風になるのかと感心した。

上町から「テーブルの上には49品しかありません。最後の50品目は、奥様と娘さんに作って頂きます」というアナウンスがあり、妻がアスパラガスと生ハムの料理をして、娘が目玉焼きを焼いてそれを乗せて最後のピースを作ってくれた。
恐らくここで私を泣かせようとしたに違いないが、もちろん我慢した。

これらの心のこもったレシピは、間もなくローンチ予定のOPENSAUCEで公開して行きたいと思う。

皆で楽しく食事をしながら歓談していると、森崎から再びアナウンスがあった。
「本日来れなかった方々から、ビデオメッセージが届いております」
ディスプレイがセットされ、映像が流れ始めた。

ハッピーバースデーと言えば、Stevie Wonderの例の曲がお約束のように流れ始めたのだが、今回のは一味違っていた。
よく知っている顔ぶれの方々が、狂ったように踊っているのだ。
それだけでも貴重な映像であることは間違い無い。

本来であれば音付きで一部始終をご覧頂きたいところなのだが、音楽著作権的に如何なものか?という判断から公開は避けた。
音楽は途中からリミックスされ、ヒューマンビートボックスのサウンドに変化していった。画面には己の口だけで全ての楽器を演奏し、楽器業界を震撼させるイケメン「Reatmo」の姿が映し出されていた。
なんということだ。

華麗なるテクニックを固唾を呑んで見入っていると「約1名、本物が混ざっているのではないか?」という疑問が湧いた。
それがこの人物である。

どう見てもワンダー師匠であり、疑う余地が無い。
親友である帯蔵さんにも似ているが、このノリの良さは間違いなくワンダー師匠に違いない。なんと豪華なキャスティングなのだろうか。

動画の中で、最近ちょっと気になっていた事件の真相を解明することも出来た。
先週、原宿のPOOLオフィスでコニタンとの打合せがあり、終了後に私はトイレに行ってウンコをしていた。
手を拭きながらトイレから戻ると、ひとりバーカウンターのところでバラを咥えてニタニタしながらMacbookの画面を見るコニタンが立っていた。
たまに小刻みに身体を震わせたりしていた。

少しの間見ていたのだが、声をかけるべきなのかどうか考えてしまった。
「これはもしや、彼の特別な部分を見てしまったのではないか?時間からして、海外のその筋のバディ達とのスペシャルな時間にオンラインで参加しているのではないか?」そう考えると合点がいく展開だったし、軽く話しかける程度にした。

どうやらこれがその瞬間だったらしい。
当然私は何も気付くこともなく、特別な趣味の邪魔をしても悪いので軽く話しかけるだけにした。

「バラが好きだからだよ」

これがその時のやりとりであるが、さすが一流コピーライターだ。
年末には六本木のゴトウ花屋さんあたりが使っているのではないだろうか。

そもそも誰なのか?

ビデオを見ている最中にはピンと来なかったのだが、後で聞くと牧田のご主人で、シルク・ドゥ・ソレイユの役者さん達がバルセロナの公演中にビデオを撮って送ってくれたらしい。

これも誰なのか?

ミッツ・マングローブかと思ったが、よくよく見るとタイラーさんだった。
意外なご趣味をお持ちだった。
その昔、ゴールデン街あたりで有名になった「歌舞伎町のタイガーマスク」こと、新宿タイガーの正体は、この人だったのかもしれない。

そしてパーティーも終盤、たくさんの花や心のこもったプレゼントを頂いた。
漫画「クライングフリーマン」に登場する【黄徳源】が火野村窯に対し「おまえには花が似合う。花の似合う男は千人にひとりだ」。という名台詞を吐いたストーリーがあったが、いつか私もそう言われる男になりたい。

肖像画とFunkとWashington DC GOGOのアナログ盤というイカれたチョイス。

コネクティッドロックのT!NKでお馴染みのtsumug社長の牧田も小笠原さんからのプレゼントを持って駆けつけてくれた。

ギター職人の斎太郎くんからは、ゴルフで優勝したときとかにもらえる「大きな車のキー」の文脈で「宮田の理想のベース作りましょう」のキーをもらった。
そこには仲間達からのメッセージも添えられていた。

私が指圧師泣かせの肩こりと知ってか「肩たたき券」を送ってきたもいた。

ソムリエの松原その子ちゃんからは、彼女がプロデュースするニュージーランドのとても美味しいワインが届いた。

皆で集まって食べる美味しい食事と、仲間達と交わす何気ない言葉。
やはりこうして集まる「場」は大事なのだ。
それは「仕事場」でなくとも良い。
場はどこでも作れる。
人が集まれば、そこは「場」になるのだ。

これまで私は、好き放題やって生きてきた。
好きなことをやらせてくれた親や仲間達には感謝の言葉しかない。

パーティーの夜、妻はお酒が手伝ってか家に帰るとすぐに寝てしまった。
娘はよほど楽しかったのか、まだ目が冴えていた。
そして「パパと少しお話をしてから寝て良い?」と聞いてきた。
娘は学校よりも私のオフィスに来るのが好きなのだそうだ。
その理由は「だっていつもみんな楽しそうに何か作ってるし、好きなことやってるし、いろんなことが出来るし、そんなのがお仕事なんだったらそれが一番良いじゃない」。
ということだった。
そして「パパみたいな仕事がしたい」と言った。

こんなに嬉しい言葉はないじゃないか。
これからは、自分の生き方を、人のためにして行こうと誓った50歳と1日の出来事だった。

家族と仲間達に、心から感謝。

2018.04.29

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