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坂本花織が見せてくれた光:北京五輪女子フィギュアスケート

 現代スポーツは、ドーピングとの戦いでもある。ソウル五輪のベン・ジョンソン、1990年代後半の陸上競技の「馬軍団」、ツール・ド・フランスのランス・アームストロング。他にも、禁止されていなかったとは言え五輪レベルでは違反と見なされるステロイドを使っていた、ロジャー・クレメンスやバリー・ボンズをはじめとするメジャーリーグの選手たちもいる。

 その中でも最大級のものがソチ五輪におけるロシアのドーピングの組織的隠蔽だ。

 その結果、平昌、東京、北京のこれまでの3つの五輪について、ロシアは国としての参加を認められなかった。いま行われている北京五輪では、「ロシアオリンピック委員会」としての参加になっている。

 しかし、今回もドーピング事件が起こった。女子フィギュアスケートで圧倒的な強さを誇るカミラ・ワリエワから12月に採取された検体から、禁止薬物が検出されたのだ。

ロシアへの根強い疑惑

 近年、女子のフィギュアスケートではロシアの10代の選手が男子でも難しい4回転ジャンプを連発して世界を席巻している。

 しかし同時に、それはドーピングの疑いを高めることとなった。実際、その後取り消されているが、ロシアでトレーニングをしていたアナスタシア・シャボトワ(北京五輪ではウクライナ代表として出場。30位)が、「いっぱいドーピングをすることで、安定した演技ができるんだよ。それが成功の秘訣。正しい薬を飲むことが大切だけどね」と言う発言をしたことがある。

 ロシア選手が全体としてドーピング違反を繰り返しているという事実もあり、ワリエワの検体から禁止薬物が検出されたというニュースを見て「やはり」と思った人は少なくなかったのではないか。

ワリエワの出場は認められたが・・・・

 ワリエワが出場していたフィギュアスケート団体のメダル授与式は延期となった。ワリエワの女子シングルへの出場を認めるかどうかについては法的な議論が行われたが、スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定により、出場そのものは認められた。
 しかし、これはドーピング違反そのものについての裁定ではなく、出場が認められてもその後にメダルや順位が剥奪される可能性は残っていた。

 事実、ISUとIOCは、ワリエワがショートプログラムで24位以内に入った場合には、通常24人で行われるフリースケーティングを25人で行うこと、3位以内に入った場合には、表彰式そのものを行わないことを決定した。フリースケーティングを25人で行った大会なんて聞いたことがない。これはつまり、ISUとしては、ワリエワを事実上の「オープン参加」として扱うことに決めたと言うことだ。

 なお、CASの判断は、ワリエワが未成年であることや、過去の判例に照らして妥当だというのが、『ワシントン・ポスト』にコラムを寄稿したデューク・ロースクールのコールマン教授の見解だ。(下にリンクを張りましたが、購読契約をしていないと読めないかもしれません)

https://www.washingtonpost.com/opinions/2022/02/16/kamila-valieva-should-skate-beijing-olympics-law-merits/


個人レベルか、組織レベルか

 歴史的に見て、ドーピングは個人レベルではなく組織レベルで行われることがしばしばある。上に上げた例では、馬軍団であるとかアームストロング、それとソチ五輪のロシアの例がそれに当たる。特にアームストロングは、チームに所属するすべての選手にドーピングを強要した。内部告発ができないようにするためだ(全員がドーピングをしていたら、内部告発をした場合自分自身も処分される)。

 そうした歴史的な例や、ワリエワが15歳の未成年であることを考えると、ワリエワの事例が個人レベルの違反行為であるとは考えにくい。ソチの時とは違ってロシア全体としてではないかもしれないが、アームストロングのように、一緒にトレーニングをしているグループで組織的にドーピングを行っている可能性が意識されることになる。

 ただし現段階でのエビデンスは12月に採取されたワリエワの検体しかない。エビデンスに基づいて議論をするとすれば、今の段階ではこれ以上に疑惑を広げるべきではないのだろう。

ドーピングとは

 ちなみにドーピングとは、本番の競技に合わせて使うものではない。そもそもそんなことをしたら競技時の検査にひっかかってしまう。通常は、日々のトレーニングで使用する。
 誤解を恐れずに例えるならば、筋トレの後にプロテインを摂るような形で摂取する。その上で本番に向けて使用量を減らしたり、あるいは組み合わせて使うことで検出される可能性を下げる薬物と合わせて摂取し、検査をくぐり抜けようとすることが多いようだ。
 そのため、ランダムサンプリングにより日々のトレーニングの期間中でも検体の提出が要求される。それを拒否して問題になったのが中国の孫揚だ。

 なお、ソチ五輪の頃のロシアは、検体をすり替えると言った検査破りを組織的に行っていたとされる。

 今回のワリエワから検出された薬物も、当日の競技のパフォーマンスを高めるものではない。しかし、心臓からの血液流量を高める作用があると言うことであれば、トレーニングの効率を上げることにはなるだろう。
 と言うことは、トレーニングメニューと一体となって薬物の摂取が行われていたと言うことでもある。この点からも、個人レベルではなく組織レベルの違反行為であったことが推定されることになる。


「クリーンなフィギュアスケート」を背負った坂本花織

 今日のフリースケーティングの段階で、1位はワリエワ、2位がロシアのシェルバコワ、3位が日本の坂本花織、4位がロシアのトルソワ。ワリエワは実質オープン参加なので、実質的に順位は1つずつ繰り上げて考えることもできる。

 ワリエワの検査陽性の報を受けて「まさか」ではなく「やはり」と思った私としては、その段階で順位に対する関心を失っていた。歴史的に見て、ドーピングは組織レベルで行われることが多いから、これはワリエワ個人の問題ではないだろうと思ったからだ。ワリエワ以外については現段階でエビデンスはないのでこれ以上は書かないが。
 しかしそれでも、日米の誰かが表彰台に食い込んで欲しいと思っていた。「クリーンなフィギュアスケーター」の意地を見せて欲しかったからだ。

 ショートプログラムを終えて最終グループはロシア3人、日本2人、韓国1人。アメリカは最終グループには残れなかった。スコアを見るとロシア勢に追いすがれる可能性があるのは坂本花織ただ1人。

 日本だけじゃない。世界の、「クリーンなフィギュアスケート」を望むファンや選手たちの希望を、期せずして坂本花織が背負うことになった。これは本人がどの程度意識していたかはわからないが、伊藤みどりや浅田真央が負った重荷よりも、ある意味で大きいものだったかもしれない。

 難しいのはわかってる。けれど、それでも、坂本花織には「クリーンなフィギュアスケート」の力を見せて欲しかった。

 結果は、プレッシャーに負けたのか、ワリエワがミスを連発して、4位。坂本花織はシェルバコワとトルソワには後れを取ったが3位。見事に銅メダルを獲得した。そして何より、ワリエワをスコアで上回った。このことで表彰式を行うこともできた。

 ドーピング検査陽性だった選手に、スコアで勝ちきったと言うことが本当に素晴らしいと思う。これはどんなに評価しても過大評価ということはない。今日の3位には、ベン・ジョンソンがソウル五輪で出し、ドーピング検査で取り消しになった100mの9秒79と言う記録に、「クリーン」で並んだモーリス・グリーンと同じくらいの価値がある。とても明るく、強い光を、坂本花織は見せてくれた。

 坂本選手、おめでとうございます。そして、ありがとうございます。