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"みんなのうた"と歌詞の解像度

はじめに

もう昨年末のことだけれど、noteさん主催の「水野良樹と音楽にまつわるアレコレについてともに考えるクリスマスミーティング!」にお誘いいただいて参加してきた。"クリスマス"という言葉がもうとてつもなく遠く感じられるぐらいには月日の流れは早い。

奇しくも、というか元から決まっていたんだろうけれど、この日所属事務所のキューブから独立することを発表した いきものがかりの水野良樹さんと一緒に、音楽業界の行く末やあれこれを語ろうというイベントだ。

イベントのフルのレポートはこちらに。

詳細はイベントレポートを見てもらうとして、僕が大きく気になったのは水野さんがしていた"みんなのうた"という話。

"みんなのうた"とは

このイベントの大きな問いの一つとして水野さんがあげたのが「"みんなのうた"は実現できるか」という問いだった。長くなるけれど、ここはイベントで水野さんが語っていたことを引用したい。

いきものがかりは、老若男女、幅広く聴いていただけているグループだと思っていて、それは僕たち自身も志向していることです。

もともと路上ライブからスタートしたグループですので、お客さまを選べないんですね。ライブハウスのようにお金を払って会場に入ってくれる音楽好きの方々にどうやって喜んでいただくかというよりは、音楽に対して全く興味がない人もいる路上で、目の前を通り過ぎる人たちをどう掴むかというところからスタートしているので、そういう志向になっています。違う文化を持った人、違う価値観を持った人、そもそも音楽を必要としていない人にも、こちらを向いてもらって、聴いてもらえるかということをすごく考えてきて、今もそのつもりでいます。

“みんなのうた”という言葉を定義してしまうと、それ自体も虚構になってしまうので難しいですが、普遍的に多くの人たちに届く、つながる、リンクする歌は可能なのかどうか。

今日もnoteというサービスのなかで、みなさんに応募いただきましたが、今はさまざまなSNSがあって、Instagram、Twitter、Facebook、それぞれに文化がある。テレビ、新聞にもそれぞれの文化や文脈がある。そのなかをエンタメの作品はそれぞれの形で通っていきますが、メディアの優劣がはっきりしていた昔のように、大きなメディアであるテレビから曲が流れると多くの人に届くということは今はなかなかありません。そういった社会状況のなかで、そもそも“みんなのうた”は実現できるのだろうか。音楽が社会で身近なものとして、ポップカルチャーとして、存立できるのだろうか。そういったことを常に考えています。(イベントレポートより)

ここで水野さんのいう"みんなのうた"は実現できるのだろうかという問いは、音楽で国民的ヒットはまだ可能だろうかという問いにほぼ等しいと思う。それはライターの柴那典さんが2016年の著書「ヒットの崩壊」で論じたこととほぼ同じく、多種多様になったポップカルチャーや、複雑になった情報のレイヤーの中で、すべての年齢層に共通のものを届ける難しさというのは目に見えて明らかだ。

だけれど僕からしてみると、いきものがかり なんて国民的ヒットと言えるような作品がいっぱいあるような気がして、こんな質問をした。

──水野さんが今までつくった歌のなかで、いちばん“みんなのうた”に近づいたなと思うものがあればお聞きしたいのと、その曲がそうなった大きなきっかけが何かを教えてください。

"みんなのうた"には文脈がない?

水野さんの回答をかいつまんで引用する

頭に浮かんでくるのは「ありがとう」「じょいふる」「YELL」といった、いきものがかりの代表曲として知っていただいている曲になると思うんですけど、そのなかでも「ありがとう」は特にそういう曲になったと思われがちですが、一方で考えると「じょいふる」かなと思います。
「じょいふる」が“みんなのうた”になったのは「文脈がないから」ということだと思うんですよね。

これはめちゃくちゃわかりやすい。近年で言えば「PPAP」なんて最たるものだと思うし、定期的に出てくる子ども向けの楽曲のヒット(「だんご3兄弟」とか「おしりかじり虫」とか「ようかい体操第一」とか)なんかもそう。共感とかと別軸ゆえに出てくるヒット曲。


「YELL」は卒業ソングだと言っていただくこともありますが、世の中には学校という組織になじめない人もたくさんいますし、卒業というタイミングを経ていない人もたくさんいる。「ほとんどの人が経験しているよね」と思われることでも「いや、経験していないです」ということが昔よりも増えてきていて、そうなると「ほとんどの人が経験しているから、これは普遍的になる」というようには、なかなか言えないんですよね。

「ありがとう」に関しては、こんな風に語っていた。

歌詞を書いていても、どこが掴みどころなのかわからなくて。振り返ってこじつけで言うなら、「良くも悪くも自分というものを出していなかった」。多くの人の耳に触れるところに行ったときに、聴く人それぞれが「自分のこと」として聴いていただける形になったのかなと想像するだけですね。
よく例に出すんですが、「上を向いて歩こう」という曲は僕にとって多くのヒントになっています。あの歌詞は、何も深いことを書いていないようで、実は深いことに触れているんですよね。何か悲しいことがあったときに、あの曲の器に応じて聴く人が気持ちを合わせていく部分が往々にあると思うんです。

ストレートに共感する歌詞、ではなくて想像できる隙間があること。それを"器"という言葉を使っていたのが印象的だった。

僕のつくった「ありがとう」もそうですが、例えば何十年も連れ添ってきた夫婦が最期の別れのときに「いままで、ありがとう」と言うのはとてつもなく重い「ありがとう」ですが、その気持ちを僕のつくった「ありがとう」に乗せて思うとしたら、僕が書いた「ありがとう」の器に、そのとんでもなく大きな、人生がかかったような感情を注ぎ込む。そしてその器の形になってしまうのは、めちゃくちゃすごいことだと思うんですよ。

Official髭男dism「Pretender」の余白

というような話を聴いたあとで考えていたのは、昨年大ヒットしたOfficial髭男dism「Pretender」のこと。あの曲も余白を残した歌詞だったなぁと。



そう考えると、あいみょん「マリーゴールド」にしても、King Gnu「白日」にしても、恋愛の歌詞ではありつつ(あるんだろうなと推測はできつつ)登場人物のペルソナまでは見えてこない歌詞だった。

解像度を落とすこととピントがぼけることは同意ではないともうけれど、この傾向って日本だけのものなんだろうかとかも考えてしまった。

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93年生まれ。音楽ライター。大学在学中より『Jazz The New Chapter』シリーズ、『ミュージック・マガジン』、Mikiki等で執筆。インタビューも。過去のお仕事など→https://t.co/L7LZ4Wscwf 記事はすべて投げ銭です