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「人に期待しない」という考え方について

「人に期待しない」という考え方を聞くことがあります。
「過度に期待するよりも期待しない方が楽」だし「そもそも人はそんなに思い通りに動いてくれない」ということのようです。

これだけだと「ただ諦めている」だけのようにも読み取れます。しかし本当にそうなのでしょうか。一方、「人に期待する」ことが正しいのでしょうか。「人への期待」とは何なのでしょうか。

「人に期待する」とはどういうことでしょうか。
何かを伝え、伝えた意図通り(か、それ以上)の行動をしてくれれば「期待通り(か、それ以上)」ということになるかと思います。
では、その人にどのように伝えるでしょうか。

人に伝えて説得する為に「正しさ」を強調する時があります。
しかしここで注意しなければいけないのは、「絶対的な正しいものというのは存在しない」ということです。もし「存在する」と思ったとしたら、それはあなた自身が「正しいと思っているもの」であって、つまりあなたの主観です。主観なので「好き・嫌い」の話なのに「正しい・誤り」にすり替えている、もしくは混同しています。

「好き・嫌い」であれば個人の主観の話なので、合わなければ「お互いの自由」で問題なく、押し付け合うこともありません。

本当は「好き・嫌い」の話なのに「正しい・誤り」の議論になってしまうと、途端に押し付けがましくなります。なぜ自分の意見を「正しい」と思ってしまうのでしょうか。

例えば「1+1は?」という問に対して大抵は「2」と答えるでしょう。そしてこれが正しい答えだと確信しているはずです。しかし本当は「なぞなぞです。1+1は?」という問だったとなれば、途端に答えは変わります。
絶対的な正しさを求めるような行動には注意が必要です。

文脈(コンテキスト)によって答え、つまり「正しさ」は変わります。文脈を理解しないといけません。
群盲象を評すという寓話があります。目の見えない人たちが全員で同じ象を触っているのに全員が違うことを言う、という例え話です。「各人の文脈で評している」状態です。
ここでいう文脈とは、つまり人の於かれた状況になります。その人の状況を理解せずに自分の「好き・嫌い」を他者も同一であると勝手に考えてしまい、結果それを「正しい・誤り」の話としてしまうのです。

自分視点を忘れ、他者視点で考えなければいけません。
他者視点の考えのひとつとして心の理論があります。
その中でも有名な「サリーとアン課題」は聞いたことがある方も多いでしょう。この程度であればほとんど問題ない(理解できる)と思います。
一方で、例えば、誕生日に(相手ではなく)自分の好きなものをプレゼントしたり、会話でずっと自分のことを話したりなど、自分視点での行動に心当たりがあるかもしれません。

話を戻して、「人に期待する」時、他者視点で考えられているでしょうか。結局は自分視点での「正しさ」を押し付けているだけではないでしょうか。
自分がやりたいのであれば、まずは自分がやってみる、そして自然と周りも影響されている、気付いたら人が集まっている、というのがあるべき流れかと思います。

「人に期待する」も「人に期待しない」も表裏一体で、結局は「そういった考え方」自体が誤りなのではと思います。

自分自身に謙虚に向き合えば、自然と周りが動いてくれるというのが「正しさ」であり、真の「人への期待」になるかと思います。

ゆるふわアジャイラーです。