ありがとうって、思ってる。

 思い出したら、なんとなく心の中にしまっておけなくなってしまったので、ここに書き零していきます。真夜中のひとりごとのようなものです。もっと面白おかしく話せるといいんですけど、そこはもう、私なりで。


 24歳の半ば頃に、「来年、結婚するんだよ」と祖母に報告をした。

 祖母は白いベッドに体を横たえたまま、
「まだ早い」
と渋い顔でぼそりと答えた。そうしてお見舞いに来た私や母に、いつも通り「腰が痛い、体が痛い」と一頻り零したあと、眠ると言って目を閉じた。

 当時、私は平日休日昼夜をあまり問わずに働いており、GWもお盆休みも年末もそれほど意味を成さなかった。会社で仕事に追われる以外は、深夜に帰宅して眠るかマンガを読み耽るか、たまに深夜アニメを観るくらいで、肩までどっぷりと仕事に浸かっていた。
 それでもなんとか時間を捻出して、式場探しや引き出物選び、指輪の手配、新居の契約や引っ越しの見積もりなどの予定をねじ込んだ。

 式の間近は、特に事態がめまぐるしく動いた。

 挙式のふた月前に先輩が亡くなった。
 その同じ月に祖母の骨を拾った。お骨は桜貝みたいにきれいな淡いピンク色をしていた。偶然にも、祖母の命日から数えて四十九日目が式の当日だった。母は葬儀が済んでから、私を励ますように、または、母自身に言い聞かせるように、

「寝たきりじゃ来られないから、魂になって式を見に来てくれるのよ」

と言った。

 母方の祖母の葬儀のひと月後に父方の祖母の骨を拾った。
 翌年には夫の祖母が亡くなったので、慶びと哀しみは表裏一体だなと、しみじみ思ったものだった。


 挙式の間近に、新居への引っ越しと葬儀への参列を立て続けに同時進行でこなさねばならなくて、やるべきことと体力との天秤が釣り合わなかった。熱を出して数日寝込んだりもした。けれど、それでもどうにかなるもので、式の当日を迎えられた。家族や親戚も同じく大変な思いをしていたのに、ちゃんとお祝いに来てくれた。

 一周忌が済んだ頃だろうか。後日、伯父が私に言った。

「ばあさんは、ああ言ってたけど、あんたの結婚、きっと喜んでたと思う」

 伯父はおしゃべり好きでお人好しな性分だった。どれくらいお人好しかというと、道に迷って困っている人に身銭を渡して、自分は何時間も掛けて家へ歩いて帰るようなひとだった。

 そんな伯父も数年前に鬼籍に入った。祖母が亡くなったのと同じ季節だった。
 棺の中で眠るように横たわるその顔に、私は触れることが出来なかった。少しでも触れたら泣き崩れてしまうのが容易に想像できたからだ。失ってみて初めて、伯父の存在が私の中で結構な割合を占めていたことに気付かされた。

 その翌月にもう一人の伯父の骨を拾った。常に私たちを陰ながら助けてくれていたひとだった。生きている限りみんな一度だけいなくなる。それは誰の身にも等しく降りかかる出来事だ。けれど、みんな、どうしてそんなにも立て続けにいなくなってしまうのだろうかと、少し寂しくも思う。
 
 そして同時に、あの時、大変だったのに、遠くからお祝いに来てくれてどうもありがとう、とも思う。ちいさな頃からたくさんお世話になってきたけど、嫌な顔なんかちっともしないでいつも笑っていてくれた。

 伝えきれていないことはたくさんある。手紙でもなんでも書いて、ちゃんと伝えれば良かったのになと後悔もしている。だけどまだ覚えている。笑った顔。話す声。立っている姿。座っている姿。最後に触れた手のぬくもり。

 ありがとうって思ってる。ずっとずっと、思ってる。

 いなくなるいつかが、いつどんな形でやってくるのかは、誰にもわからない。私の友人たちは折に触れて「長生きしたくない」と零す。50歳位まで生きられれば十分らしい。
 そう言われる度に、

「私が寂しいじゃないか」

と冗談めかして返す。だけど、そうなったらなったで、ちゃんと見送るつもりでいる。
 だから会える間は、せめて年に一回くらいは、会って話そう。最近ハマってる漫画のことや、趣味の話や、集めてる好きなモノのことを、色々聞かせてくれると嬉しい。


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