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私たちは社会に必要ない存在だった。[1]

思ったことを独り言のように投稿していたnote、

気づけば心の中で湧いた想いを言葉にすることを忘れ

最後の投稿は約1年前になっていました。


その間にあった出来事・主に私が適応障害を患い

新卒で入った会社を2ヶ月足らずで辞めてしまったことについて、

自分の現状を整理するためにも、世界に発信するためにも

拙い文章にはなりますがここに記していきます。


まず、私は1ヶ月前にお医者さんに適応障害の診断を下され休職中です。

会社を辞めてしまったと書きましたが、会社には退職意思を伝え、受理されている状態です。

なかなかリモートでは話も進めづらいですし人手が足りず上司も忙しいようなので、円滑に退職手続きが進まないことは仕方がありません。

先に辞めた同期は本社を訪ねたと言っていましたが、退職の件について話を進めるため、本社に出向く、上司に電話をかける、、そのための勇気はまだ用意できていません。


適応障害になるまで

私が入社したのは人材業界の会社で、業務内容は某大手電子機器メーカーのお客様お困りセンター的なものの電話対応でした。

会社に入った理由は、華やかなベンチャー企業、働いている人たちが自信に満ち溢れているのが手にとるようにわかり、「自分も早くキャリアアップがしたい!」という気持ちが芽生えたことでした。

就活の段階で、会社の表の部分しかみていなかったんですね。

反省の一つです。

業務内容のリサーチも、これからどんな大変なことが待っているのかという予測も心構えもせず、世間知らずな私は入社後1ヶ月間の研修を乗り越えました。


結論から言って、電話対応(コールセンター)の仕事は

私には特に相性の悪い仕事でした。

語調の荒いお客様や最初からこちらを責めるつもりで電話をかけてくるお客様、流れるように嫌味を投下するお客様・・・そういった方の対応は、想像以上に私の精神を削り取るものでした。

具体的にどのような言葉を投げ掛けられたかということは書けませんが、

椅子に座った瞬間から、電話を取る時間になった瞬間から、

「暴言を吐かれる可能性を持ちながら話す」

というのは私にはできないことでした。

しかし勤怠を守ることは社会人として最低条件。

「怖いから今日は休む」は通用しません。

今から心を抉り取られるかもしれない・・・無事では帰ってこれないかもしれない・・・大袈裟かもしれませんが「調査兵団と同じ気持ちや・・・」と思いながら社会人生活にしがみついていました。

少しずつ体調に変化が現れました。

食欲不振、不眠、出勤前夜の蕁麻疹、理由もわからず泣きじゃくる・・・

適応障害スターターセットですね!

そして元々低かった自己肯定感はさらに爆下がりし、地面を突き破りブラジルに到達しました。

しかしそこで目の当たりにするリオのカーニバルに感動することもできない。

スターターセットをすっかり身に纏った頃には、何かに感動するという心も失い、大好きな漫画やアニメを見続けることができなくなっていました。リオのカーニバルはそれについての比喩です。わかりずらいと思ったので自分で注釈します。

とにかくとても辛かったです。

被害妄想が永久に付き纏い、恋人の口内炎の原因は私にあると大騒ぎし

「違うよ!!!僕が噛んじゃったんだよう!!!!」

と自己申告させる始末。

近くで起きた火災も本気で自分のせいだと思いました。

ここまでくると辛そうとかより滑稽ですね。


ついに自分の異変に気づかないふりができなくなった頃、精神科の予約をしました。

これについては・・・本当に甘い考えなのですが、周りからの指摘もあり、精神科に行けば「休職を必要とする何らかの診断」が下されると、私はその時点で確信していました・・・。

だから精神科に行く日まで耐えれば・・・あと3日・・・自分の気持ちに蓋をして「無」の状態で仕事を、あと3日耐え抜けば・・・!

そう思っていた私はその3日間の初日の午前10時にダウンしました。

動悸、吐き気、腹痛により早退。

3週間続いていた機能性胃腸炎のピークでした。

すぐに実家の母に電話をし「お母さん、私、この仕事続けられないかもしれない。」と伝えました。

泣きながら電話をしたのはいつぶりでしょう。

声色から異変を感じ取った母は遠く離れた北海道の地で

辞めろ!!!!!!!!!!!!!!!!

と叫びました。

辞めろ!!というのは、「心を病んでまでしないといけない仕事はない。今の環境が過酷なこともわかっている。プレッシャーを感じながら今日まで粘ったこともわかった。でももう心配だから、その仕事は今日限りで終わりにしてくれないか。」という意味です。

母は感情的になると、文章の割と大事なキーワードを削り声量で補填する癖のある人です。

この叫びを京都の地で全身で受け止めた私は、

「辞めていいのか・・・」と思いました。

一瞬で救われてしまったことを今でも覚えています。

それまで周りの誰に心配の言葉をもらっても、「いや、、2年は続けたいよね・・・」と蕁麻疹を掻きむしりながら答えていた私でしたが、

母のその一言で調査兵団の脱退を覚悟できました。

非常に長くなりましたが、その後診断を受け取り今に至ります。


仕事を始めて約1ヶ月が経過した頃から、「なんか黒くてもやもやしたもの」を身体に背負っていた気がしています。その正体が「適応障害」でした。

現在はそのもやもやはだいたいヨークシャーテリアくらいの大きさになったと思うのですが、診断を受けた当時のもやもやは私の身体よりも遥かにでっかく、真っ黒くなっていて、後ろにカオナシを引き連れて歩いているような感覚でした。

ただ、仕事を始めた頃のもやもやも、いうてもチワワぐらいの大きさだったと思います。

つまり私は自分の力で、自分の手によってもやもやに餌を与え、肥大化させていたのです。

次回は内容を「適応障害になった理由」とし、私がもやもやに与えていた餌がなんだったのか、何が原因だったのか・・・を書いていきます。


長くなりましたが読んでくださりありがとうございます。

念の為補足しますが、コールセンターの仕事が悪い、ベンチャー企業が悪いといった旨の記事ではありません。

仕事は効率化され働いている社員の方々も生き生きとしていて、やりがいを感じる瞬間ももちろんありました。会社の上司も親身になって私の話を最後まで聞いてくださりました。私は素晴らしい環境に恵まれていました。

ただ業務が私に合わなかった、私には抱えきれなかった、ということです。

誤解を招いてしまってはいけないので、ご了承お願い致します。


では次回「適応障害になった理由」

頑張って書きます。

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