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小説「狩野興以」⑭

 第14話
 家康、秀忠、そして3代将軍家光と引き継がれ、徳川政権は支配体制の強化徹底に力を入れている。
 その一つが朝廷対策となる。家康在世中の大阪夏の陣直後、徳川幕府は慶長20(1615)年、禁中公家諸法度を発布し、天皇の行動を規制し、その権威を独占支配することを旗幟鮮明にした。
 元和6(1620)年には、2代将軍秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として入内している。武家の娘を皇后にさせ、その御子が天皇となることで外戚として朝廷を思いのままにする。家康が描いた目論見だった。
 秀忠は後水尾天皇の二条城行幸を計画した。秀吉の聚楽第行幸に倣い、朝廷に対する圧力とともに諸大名に力を誇示する狙いだった。
 元和9(1623)年、絢爛豪華、盛大な行幸のため、3代将軍家光は二条城の大改築を決め、作事奉行、小堀遠州守政一に命じた。
 既定路線として、障壁画は狩野一門が受け持った。行幸殿、本丸御殿、二の丸御殿で膨大な画事をこなさなければならない。
「守信、天下の大仕事だ。狩野の名に恥じぬよう、一門を統率してもらいたい」
 長信は当然のように、守信に棟梁役を命じた。
「兄上の指示に従い、画業に励むのだ。分かったな」
 長信は追い打ちをかけるように、脇に控える安信に顔を向けた。安信は口を真一文字に結び、視線を落した。
 後水尾天皇のための行幸殿の序列は、守信が筆頭で南之上段之間を受け持ち、次いで休白(長信)、甚之丞、主馬(尚信)、そして5番目に源四郎(安信)の順となった。
 安信は忸怩たる思いに駆られていた。兄の守信が御用絵師である以上、采配を振るうのは理解できる。が、一方で、狩野家の惣領は一体、誰なのだ、との憤懣が募る。養父、貞信が今際の際で残した意向はこうもあっさり反故にされるものなのか。理不尽さに胸が締め付けられた。
 安信の指導役でもある定信の心中も穏やかでない。
(このまま骨肉相食まなければならないのか)
 画室でのある出来事が思い起こされた。
 定信が、守信、尚信、安信の3兄弟に牧谿の龍虎図の模写を指示した時だった。
 ――安信、お前の技量ではまだ無理だ。筆を取らずに、私が描くのを見ているのだ
 守信の叱声が飛んだ。
 安信は屈辱、怒り、無力感に身を震わせた。
「今日から二の丸御殿の作業に入る。納期が迫っている。各々持場に入り、手順通り進めてほしい」
 長信が一同に言い渡した。
 二の丸御殿は家光の宿舎で、遠侍、式台、大広間、黒書院、白書院の各御殿が雁行型に連なっている。最も格式の高い大広間は無論、守信が受け持ち、定信は式台の中の老中の間を担当することになった。
 狩野一門の頂点に立ち、守信の筆は冴え渡った。
 金地に青々と葉を茂らせる老松が床から天井近くまで壮大に描かれている。貼付壁から長押を越え、小壁までが画面となっていた。
 下絵は見ていたが、実際、御殿内に描かれると、その発想、筆力に圧倒された。
「どうだろうか、定信。上様にお気に召して頂けるであろうか」
 守信はやや不安げな表情を見せた。
「実に豪壮華麗で永徳殿を凌いでおられるのではないでしょうか。上様の御威光を示すのに十分でありましょう」
 と、返答はした。しかし、違和感を禁じ得ない。
(絵は時を映す鏡だ。果たして時世に合致しているのだろうか)
 一門の絵師が大広間に集まりはじめた。障壁画に見入り、口々に「永徳殿の再来である」と囁いている。
 定信は腕を組み、障壁画を見つめていた。
 寛永3(1626)年9月、後水尾天皇は御所から、徳川家の京都の出先機関である二条城に向かった。徳川政権の絶対支配を印象付けた。
                         第15話に続く。

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