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観たいものが観られる装置

3年前に大ヒットしたアニメーション映画の違和感について、当時あれこれ感じたこと考えたことを率直に書いたら、PV数が異常に上がってしまったり、人とケンカになったりした。苦い...。

今年も同じ監督の作品が公開になった。
観てはいないけれど、レビューをたくさん読んで聴いてみた。

そして、お能が好き!を語るラジオを配信してみて、

なんだかわかった気がした。


あの作品も今回の作品も、今の時代の「お能」的な役割を果たしてるのかも。

世界観と設定にダイブする感じ。
あるいはそんな能動的でなくても、勝手に流れ込んでくるのをただ見ているだけでも十分楽しめる感じ。

いずれにしても、観たいものを観ている。
観たいものが観られる装置。
どんな「身分」の人も、どんな立場の人も。


もちろんお能ほどのオープンさ自由さは与えられていない。
人物設定の周りと、ぎっちり構成されたプロットの中にまだらに余白が設置してあって、そこでどうにかかかわれる感じ(にわたしには思える)。

ああ、だからわたしには登場人物の像が立ち上がってこないんだなぁ。そもそも、「像」は必要とされていないんだ。
わたしはもっと自力で想像したいのだよ!と思っていたのだけれど、「想像する」という作業や、その設定や世界観を楽しむ、楽しみ方が、違うんだ。

ゲームやアバターやVRを楽しむ世代あるいはクラスタがつくっている。その美麗な画面の良さも、わたしにはわかりきれないところがある。わたしもかつてはRPGにハマっていたけれど、30代の前半ですべてやめてしまった。
つまりこの表現形式において、「老兵は撤退すべし」ということなんだわ。

このあたりは、先日の吉本ばななさんのマガジン(有料)を読んでいたのもあって、より明確になった。


もちろんべつに無理して観なくてもいいんだけれど、「仕事柄、観ておいたほうがいいかも」「こんなにも人の心をとらえる何がこの作品にあるのだろう?」という仕事理由の動機が強かったので、一生懸命観ていたのだ。

しかし、それすら思わなくてもいい、ということがわかった。
ここはわたし自身が橋をかけるときの守備範囲ではない。(もちろん、ひらきたい人には場づくりコンサルティングを提供いたします!)
それに、物理的にも画面酔いをするから、観ること自体がもう無理だしね。
その時点でもう対象外なんだわ。

負け惜しみを言うと、「途中まで追っかけていけてたけど、途中からついていけなくなった」のではなく、わたしは子どもの頃からこうだったのだ。10代から30代の半ばまで、周りの環境に適応するために、自分の感覚や感受性をオフにしていたのを、自分の人生を生きるためにまたオンにしてみたら、子どもの頃の感覚を思い出した、というだけなのだ。

それに、お能に似ているということは、結局は人間が必要としていることは変わらないってことだ。
形式は違うけれど、同じものを観ているんだな。

謎の和解した感がある。