夏休みの宿題、その後

先日書いた、息子の夏休みの宿題の話。


その後の話。

始業式の日の朝になって「どうしようー宿題やってない!」などと言っていたので、まず話した。「往生際が悪い。自分で決めたんだから、その結果はまず受け止めて。今のその気持ちも。でも宿題を出してるのは学校の先生なんだから、話したければ、先生に相談しなさい。宿題をしなかった理由と今の状態、状況を説明する。やりたくなかったのか、わからなくてできなかったのか、他に考えがあるのかも」といって送り出した。

帰ってきて、「先生、やれるところだけやってって言ってた」と言い、夕方になって「家庭科のおうちの人と何かつくるっていうのだけやる。お好み焼きする」というので、一緒にスーパーに材料を買いに行った。お好み焼きの写真を撮って提出するというので、印刷は協力した(あとで考えれば、これもPC貸して本人がやればよかった)。

他の宿題は、算数と国語のドリル残り半分、自由研究、読書感想文、日記、省エネカレンダー、俳句、図工のコンクールの絵などが出ていたみたいだけど、結局やらなかった。

そしてきょうは土曜公開日で午前中学校があるけど、「休み明けで5日通って疲れてるし、父親の家に行きたい」というので、「わかりました。休んでいいよ。その代わり、土曜日の授業であったことは自分で友だちに聞くとか先生に聞くとかしてフォローアップしてね」と言って、金曜の夕方に送り出した。

そして、さっき学校に休みますの連絡したところ。
先生も「あ、そうですか。わかりました」とのこと。
個別にお話があるかもしれないけれど、息子と先生との関係は良好のようだし、わたしも先生とは普通に誠実に話ができるし、ここはあまり心配していない。

息子、なんかもう自分で決めてて清々しいな!!

わたしの人生に「宿題をしない」とか「小学校に自主的に行かない」とかの選択肢がなかったから、びっくりする。「親はよく許したね!」と思っちゃう。(わたしなんだけどさ)


よーし、わたしもわたしで決めるぞ!!

揺れますけども。
でも、わたしの揺れの大部分は、「今やっとかなくてあとあと ①息子が不利になって困るのを見たり対応するのが嫌 ②わたしが責められるのが嫌」の二点に尽きる。(と思っているという話は、息子にもした)

①の中に「息子の自己肯定感が下がりすぎる」ことも含まれるので、引き続き最善を求めて模索していく。具体的にサポートしてくれる人や場は、これからも探していく。けれども「わたしが教えることはできない」をまずは認めることが一歩だったという話。

わたしにとって契機になったのが、息子との暮らし方の変化。わたしは平日しか一緒にいない。だから、わたしができる範囲は非常に限定的だと、諦めざるを得ないのだ。物理的にも。そう考えるとエネルギー的にもスキル的にも不足していることに気づけた。

そもそもその暮らし方の決定も息子自身が下したもの。それにわたしがついていったら次第にこうなってきた。わたしは息子が元気でにこにこ幸せでいてほしいし、わたしたちが愛と信頼の関係にありたい、ということがまずはある。迷ったら常にここへ戻る。

わたしが「宿題したの?」と確認したときのやり取り、「教える」ときのやり取りがあまりにもスムーズではないし、家の中が「荒れる」状態になるので、わたしのストレスが半端ない。「そういうもの」と言われても、耐えられない。夏休み中もついには、「わたしのストレスを増やさないでほしい。やりたいならサポートするが、荒れるぐらいならそもそも宿題をしないでほしい」というリクエストさえ出した。

そもそも、夏休みの宿題をやらないことで、いや、もっと言えば、学校の勉強をしないことで誰が、いつ困るのか?本当に困るのか?

もちろん何事にも取り組んだら、なんらかの気づきや発見や成長はきっと起こる。なので、宿題そのものを否定しているわけではない。やり方、内容については議論の余地があると思う。ただ、なんの疑いもなく「宿題はやるもの」で、その中でいかにやるかにエネルギーをつぎ込むという取り組み方には、わたし自身が関心も価値も見出せない。「息子にとって今、このやり方ではないのかもしれない」という可能性と共にいたい。

かといってそれが前提で進んでいる環境の中にいるから、完全無視もできない。だから悩む。

友人から、「せいこさん自身が今ある評価枠の中に入らなくていいと思えたことがすごい勇気」と言われて、ああ、そういうことだったのかと思った。うん、「今ある評価枠の中にわたし自身が入らなくてもいい」と思えたこと。これは大きい。でもこうでなければ自分の仕事はつくっていけないのだ。わたしも腹をくくるのだ。

ひょっとして、わたしが息子に「学び」という点で貢献できるとしたら、こういう態度、姿勢、行動なのかもしれない。

「今ある環境がすべてではない」ということをわたし自身が握っていて、見渡していることや、推移や変化を観察し続けていることが、まずは大切なのかなと思う。地域・主催者・時代が変われば、評価枠や評価軸なんてものは全く違うものになる。だから自分で作り、いろいろな人と出会い、見聞を広め、歴史を学ぶ。それは、いざというときの勇気を発動させることにつながる。

息子を通して、教育や学びとは何かを考えさせてもらっている。


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