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子どもの言い分

過去に書いたものの中から。
2016年7月26日。その日の未明に相模原障害者施設殺傷事件が起こった。

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うちの小2の息子は、パニックを起こしやすくて、自分の抑えきれない感情についてわーっとわたしにぶつけてくることが多い。たいていわたしはそれを一人で受けるので、とてもしんどい。けれども、わたしもいつもいつも聴いてるわけじゃない。ちゃんと立ちはだかる壁になることも大切だよなぁと最近しみじみ思う。

嫌なことは嫌と言う、相手の気持ちには共感するけれども(そして共感したくないとき、できないときはしない)、こちらにもこちらの言い分があってそれが無視されるのはたまらなく傷つくということ、どちらが悪いとかどちらのせいという白黒発想や上下関係は受け入れられないということ。
これはちゃんとしておきたい。

それでも他のことでイライラしてると押し付けたり、「正しさ」から断定してしまったり、無視したりも、キレたりもしてしまう。けれども完全に逃げることはしないでおこうと思う。


こどもは親に何をしてほしいのかといえば、自分の存在を受容してもらうことだけど、その中には心をつかって自分と向き合うことも含まれていると思う。そして、こどもは親の中で自己一致があるかどうかを見ている。突きつけてくる。逃げるなといってくる。それはいじめるためでも裁くためではなくて、なんというか、親を人として生かそうとしてくれているのだと思う。そういうありがたい存在なのだと思う。

まずはこういう親とのやり取りの中で間違って抑圧・支配がきつすぎたり、言いなりになりすぎることで、DVやモラハラの性質が形成されていくのではないか、というのが今のわたしの仮説。もちろん親と自分だけではだめで、親同士(つまり夫婦間)のやり取りも「健全」であることが大切。

そうできない、思えない環境にいるなら、ちょっと考えたほうがいいんだと思う。自分はこのままでいいのかどうかを。


朝起きたら、凄惨な事件のニュースが流れていて、思わず書いてしまった。容疑者の彼の中で起こっていたこともまた、相当に凄惨なものだったのだろうとまず思った。まだ全然背景はわからないけど、心をつかって彼に接してくれる人がいなかったのかもしれない。あったのかもしれないけど、そのときの彼が受け取れなかったのかもしれない。でも気持ちを、彼の生きづらさを聴いてくれる人がいたら、何か違っていたのかもしれないと、やはり思わずにはいられない。しかしその行為は絶対に許されない。幸せか命に価値があるかないかなどと、その人以外の人間以外が決めることなどできない。

亡くなられた方や傷ついた方は無慈悲な暴力の被害者であり、どれほどの恐怖だったか、このことによってどれだけの人が、どれほどの年月、どれほどの傷つきと共に生きてゆかなければならないのだろう、回復にどれほどかかるのだろうと考えると、想像を絶する。


ときどきこのリンク先の

ライチさんの過去の連載を読んで、ふりかえったり、自分でもひとつ試してみたり、またふりかえったり、してみている。こどもの立場を全部わたしに置き換えても、よいトレーニングになる。


・言い分は、全部「聴いて」いい、でも聴くことと、言いなりになることは違う。
・子どもにとって「自分の意見が却下された」経験で終わらせずに、「いったん却下されたけど、それなりの理由があって親は言ってるので、結果的に良かった」経験になるには。
・その中で、「こちらの言うことをきかせるために、まず聞き出す」になっていないか?
・自分の意志や希望を伝える習慣は、筋肉のように鍛えて育てていく必要がある
・言葉だけでずらずらと説明・主張しても子どもには念仏にしか聞こえない。時間がない時こそ、ココロをこめて、きっぱりと話すと子どもには本気度がちゃんと伝わる。(きっぱりと!)


お互いの言い分の底に大切な望みがあることを知って、そこから言葉を出してゆくことをやっぱりわたしはしたい。察してもらうー察してあげるという不均衡さとか、察してあげて言いなりになる役割の人はもう絶対に嫌なのだ。