見出し画像

視写

「魚の絵がうまく描けたから、今度の学校公開日はぜったい見にきてね」と3日前に息子に言われた。ほぼ毎月ある学校公開日。わたしは基本チラッとでも行くことにしているけれど、「きてね」とわざわざ言われるのは珍しい。

しかも、「絵がうまく描けたから」と言うのはさらに珍しい。
絵の上手い子と比較して、「ぼくはどうせダメなんだ、なんの取り柄もないんだ」などと言うことがいつの頃からか増えていたから。

「うまいねってみんなにも言われたし、先生にも言われたんだよー」と前日にまた息子が言うので、わたしは「ほぉーそんな自信作なんや。それはぜったい見んとなぁ」と約束して、翌朝息子の作品を見に学校に寄った。

すると、なんと、ほんとうに上手かった。びっくりした。

掲示されているのを見てはじめて、それが国語の時間に取り組んだもので、室生犀星の詩と、その詩に添えられたハタハタの絵を「視写」したものだと知った。視写という言葉をはじめて聞いたが、よく視て真似て描くということらしい。

よく観察して、力を入れず、柔らかく、丁寧に丁寧に写しとった鉛筆の線。視えたとおりの色が着けられていた。盛りもせず、妄想もせず、そのままを描いていた。ハタハタのあの透明感だ。添えられた詩も絵にぴったりとしていて、一字一字と全体から伝わるものがあった。作品だった。

そういうことだったのか......。しばらく呆然とした。

これが描けたら、それは見にきてって言いたくなるよね、という納得。
それを言いたくなった相手がわたしであるということの親としての喜び。
息子が作品を自分の納得のいくように仕上げ、それに対する称賛を誇りと共に両手いっぱいに受け取っているという成長の喜びと希望。


そして何拍かおいて出てきたのは、さらに大きな希望と喜びだった。
わたしが「これだけは」と伝えたかったことを、いつのまにか息子は受け取ってくれていた。

描く、書く、話す、踊る、歌う、撮る、作る、料る......手段はなんでもよいのだけれど、人とコミュニケートするための表現がこの人には必要だと、幼児の頃の息子を見て感じていた。あふれるエネルギーで常に何かを表現していたし、人と交流することが好きで、一緒に何かすることでつながっていきたい人。

わたしが思いつく、ひと通りの表現手段を、場や人を見つけては、一緒に折にふれてやってみた。息子が一体どれを手に取るか、わたしにはわからないけれど、この世界にはさまざまな表現手段があることを知ってほしいと思った。発現するのがいつになるかわからないけど、きっと息子を支え、育み、生きる希望となるはず。

学校で生きやすくなるとか、将来が安泰とか、金銭的に苦労しないとか、身体が強くて病気をしないとか、生活力がつくとか、そういう保証のつきそうなものは何も与えてやれない(試みた結果、今は無理だったものも多い)。でも表現についてなら、「これだけは」というものをわたし自身が持っている。それをどうにかして息子に手渡すことができる。

「描く」に関しては、絵を教えている友人の会で絵の具に触る経験をしたのにはじまり、スケッチ遠足に行ったり、保育に来てくれる学生さんで元漫画家さんの人と一緒に絵を描いたり、アート活動をやっている団体のイベントに行ったり、美術教室に週1回通ったり(去年やめてしまった)、思えばほんとうにたくさん一緒に参加してきた。家でもよく描いたし、コラージュもした。学童では木工室もあったし、手芸もやっていた。だれから見ても上手いとか、夢中になってそればかりやっている、とかでもなかったけれど、表現が当たり前にある日常ではあった。「描く」だけを専門的に習うわけでもなく、いろいろな人との交流の中で体験していったと思う。

「わたしも参加したい楽しいことを一緒にやる、わたしの余裕のある範囲でやる」が基本姿勢で、「息子の感性を育むのによさそうっぽいから送り込む」というようなことではなかった。「自分はさておき」という手渡し方では、あまり良きものとして本人には伝わらないというのは、自分が親から渡されたものから学んでいたので。

今思えば、とりわけ「視て描く」に対する反応は高かったかもしれない。「ゼロから想像を膨らましてオリジナルを描く」という表現もあるし、時にそういうもののほうが優れていると評価される場もある。でも、「好きなものを真似て描く」ならではの喜びがある。あるよね、と言い合ったこともあったっけ。

適切な言葉がいまだに見つからないけれども、「むくわれた」という気がした。むくわれるためにこどもと生きているわけでもないし、何かの結果を出したいわけでもないし、自分の手柄にしたいわけでもない。楽しめる範囲でやってはいたけれど、ただ、やはり「これだけは」を一貫して祈っていくってタフなことでもあったのだ。本人の気が向かなかったり、反発されたりもしたし、楽しめなさそうだと「あー、無理やり押し付けて悪いことしちゃったかなぁ」と後悔したり、「これお金の無駄なんでは...この手段ではないのかも...」と疑問を抱くこともあったので。発現するのがいつになるかは誰もわからない。わたしは人間にとって大切だと信じているけれど、息子にとって必要なければ、発現しないかもしれない。


それが今、描くという表現について、息子がこれほど自分への信頼と、表現への信頼と喜びを寄せている...。わたしのいない場で、息子が自身の力を最大限に発揮している。そう思うと、なんだか胸がいっぱいになった。


きょうは、クロッキー帳と、これが一番描きやすいというわたしのシャープペンシル(B)を持って学校に出かけていった。
「やっぱりぼく、絵を描くのがいちばんみたい」と言い残して。

そうかそうか、よかったねぇ。

人生は長い。
描くのが嫌になることがあるかもしれない。
他の表現手段を見つけるかもしれない。
これからきみはどんな道をゆき、どんな山を登るだろうか。

今、きみが確信していることについて、わたしは祝福します。
そしてその気持ちをわたしに伝えてくれて、ありがとう。