見出し画像

子どもが可愛い

きのう、友だちの家に行った。

リビングに入ると、壁やダッシュボードに子どもたちの写真がいっぱい飾ってあった。すぐそばには子ども部屋があって、来客のためにきちんと片付けてあったけれど、普段の生活の中で、子どもたちがそこでめいっぱい身体と心を使い、活動している痕跡があった。わたしは友だちの子どもたちに直接は会ったことはないけれど、空間から気配を色濃く感じていた。そして安らぎもある。

ああ、なんだかとっても子どもたちのことを可愛がってるんだなぁ、大好きなんだなぁとも感じた。そう伝えると友だちは、「そうなのよ〜。ほんとうにうちの子どもたちはなんてかわいいだろうって、わたし毎朝毎朝、思ってるんだよねぇ」とにこにこしていた。それでわたしもうれしくなって、にこにこした。


こういう「わたしは」を主語にする実感の話は、ほんとうに気持ちがいいなぁと、一夜明けてからもにこにこしている。

「親バカなんですけど」という定型フレーズをわざわざつける必要がないのがうれしい。自分の子どものことを可愛がったり、褒めたり、誇る気持ちを表現するとき、その受け手に対して、「わたしは親であるがゆえに偏った称賛をしますよ」と断りを入れて「攻撃」を未然に防ごうとする、自分に向けられる「処罰感情の起動」を抑制しようとする...というめんどくさいコミュニケーションはしなくていい。

ひょっとしたらそんな深刻なものでなくて、軽さを出したいから使うのかな?うーん、自分では最近あまり使わないので、よくわからない。。

どちらにしても、「わたしは」を主語に、実感をもってする話はだいぶ違う。
あなたも同じように思ってほしい、と強いられている気分にもならない。
子どもを見て・接して、わたしがこう感じた・こう思ったという、独立した個と個の存在(ニコイチではない)と共に、親子間の関係性が見える。
話し手に共感しながら、わたしは独立した個として感想を伝えられる。
どの関係にも愛と信頼がある。

自分を主語にする話し方や、相手を尊重し共感的でありながら境界線を大切にする聴き方は、トレーニングが必要だ。
知る、学ぶ、実践する。

外国語を学ぶことで日本語を省みて主語を意識したり、聴くを学んで共感的なコミュニケーションをとる練習をコツコツとすることで、今まで苦い思いをしていたこと、人間関係のしこりがするするとほどけていく。

なにより、人を責めなくてよくなる、よい思いがふえるのは、うれしい。