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分岐

あの仕事、受けなくてほんとうによかったなぁ、
あのイベント、行かなくてほんとうによかったなぁ、
と思い出すことがある。

思い出しては、その選択をしなかったことに胸をなで下ろすようなことが。
誘いや依頼を断って、別のことに時間やエネルギーを使って、別の人たちと一緒にいたことのほうが、わたしを幸せにした。

共通していたのは、
"あなたのため"と言いつつ、先方の利益や都合に利用される
という点。

それならそうと、「あなたのため」なんて言わずに、ほんとうに思っていることを言えばいいのに、と思うけれど。
まぁ言わないし、自覚的ではないよね、そんなこと。
わたしだってそうだ。
わたしだって、自分の利益や都合で勧誘や依頼することがある。

ただ、そのうちのある仕事については、詐欺ぐらいの深刻度の、社会に悪影響を与えるものに加担する話だったので、5年ぐらい経った今でも、思い出すとヒヤリハット。
よくぞ断ってくれた、わたし。ありがとう!とそのときのわたしに繰り返し言いに行っている。

難しいのは、たいていの場合、話をもってくる人に対して自分が親しみを持っていたり、恩義を感じていたり、憧れていたり、世間的に評判がいいと評価しているとき。
自分が困窮していて(経済的にも精神的にも)、安定やつながりや承認がほしいときに持ち込まれることもある。
自分もそれを利用できないか、メリット・デメリットを基準に考えてしまうようなときに、揺れる。

それでも、それらを超えて、なんとかニュートラルポジションで、自分の持てるものをすべてつかって判断する。
今のわたしにとってほんとうによいか。

そういうときの結果は、大抵いい。
「やってみたら・行ってみたら意外とよかった」も含め。

その反対に、ぜんぶつかって判断したことなのに、酷い目にあったということもある。ほんとうにどうしてあのとき行ってしまったのか、OKしてしまったのかと思う。

最近も遭遇してしまった。
しばらく生傷になっていたが、信頼できるプロに聴いてもらって手当ができ、今はかさぶたも剥がれた。

回復の途上では、何が起こったのか(事実の確認)、どんな気持ちになったか(感情の受容と許可)、自分にとってそれは何なのか(解釈)を考えた。これまた、そのときの自分をつかって解釈して、聴いてもらって、学びに変えていった。

そう、タダでは起きないのよ。
海の底に潜っても、アワビやサザエを手に戻ってくる。

そのときの自分として精一杯の判断や行動だったということを認める。
そして、それをなんとか人生に組み込んでいくことができれば、持ち続けても生きられるんじゃないか、と思っている。

人生とはその蓄積なのではないか。