見出し画像

書くを引き受けて立つこと

10代向けの本『きみがつくる きみが見つける 社会のトリセツ』を出版するプロジェクトを立ち上げて、1年半になります。

当初予定していた目標時期を大きく超えていますが、実はまだ原稿を書いている状況です。焦りながらも、目的も目標も全くブレず、とても豊かな(時に苦しい)時期を過ごしています。

出版社などから依頼されて書く原稿とは違い、すべてが自主的で自律的で共創的な中での執筆です。誰に届けたいのか、どう見せたいのか、どう書いていくのか、どう区切りをつけるのか、すべてを自分たちで考えます。一人ひとりの哲学を場に出して擦り合わせながら、じっくりじっくりそのテーマやメンバーと向き合いながら、ここまで着実に進んでいます。

プロジェクトに参画したり立ち上げたりするのはこれが初めてではありませんが、今回のような「書く」「本を出版する」を目指す中で、わかったことがあります。


「書く」は突きつける

このプロジェクトでは、「思春期のトリセツ」「友だちのトリセツ」「性のトリセツ」「場づくりのトリセツ」など19本の原稿を、メンバーそれぞれの専門性とライフテーマに基づいて選出し、書く作業に当たっています。

書きながらお互いにフィードバックしあって気をつけてきたのは、「解説や情報」と「個人的体験」をとりまぜながら、「個人としての意見」を持ち、なおかつ広く社会で使われるための「メッセージ」を打ち出すこと。

この本の対象になっている10代の人が、これは自分のことだと思ってもらえるように、各テーマについてちょっと立ち止まって考えてもらえるように、これから先の自分の人生を歩むときに、「それぞれのトリセツをつくる」というアイディアも選択肢に入れてもらえるように。なにより、大人が希望をもって生きているという姿を見せられるように。

そのように掲げると当然のことながら、選んだテーマに対しての自分の向き合い度合いや覚悟が問われます。理解があやふや、人にメッセージを伝えられるほど深まっていない、気持ちの整理がついていない、傷つきがあるなどが、次々と突きつけられます。自分がこれまで十分に考えていると思っていたことでも、いざ書くとなると曖昧にとらえていたり、あえて見ないようにしてごまかしてきた部分がありました。また、承認欲求を満たすために書いているようになるときもありました。相手に伝わるかはともかく、わたしがどんなことを書いても受け入れてもらいたい、他で書けないのでここで書かせてもらいたいとか。

突きつけられると苦しい。でもどうしても書きたい、書かねばならないという切実さがあるものは、書いているうちに深まってきます。何周も深く潜るうちに、自分の問題意識から書くとはどういうことか、本当にそれを伝えたいのか、がだんだんとわかってきます。

情報や個人的体験だけでしか書けないテーマは、もうそれまでです。今はタイミングではなかった。もう少し時間がいる。それでも、当初からいるメンバーはなんとか乗り越えて、自分が選出したテーマはすべて持って第三稿まで進みました。

評価にさらされること

評価にさらされたり、舞台に立つとの怖れも何度も経験しました。特に自分の名前を出して書くことや、紙の本に残すことは、大きな覚悟と責任が伴います。自分が個として、この世界に対してどんな態度を取っているか、観衆が大勢いるアリーナの真ん中で表明することは恐ろしいです。

わたしには舞台に立てなかった苦い経験があります。23歳の頃です。

わたしは大阪で大学を卒業した後、東京に来て、アルバイトをしながら映画の学校に通っていました。その中のメインになっていた授業の一つに、全員が20分の短編映画の脚本を書き、投票によって選ばれた何本かが、実際に映画を撮る権利と予算とスタッフが与えられるというものがありました。

わたしも脚本を書きましたが、投票で一票差で落選しました。講師から「たった一票差なんだから、再投票の機会がほしいと皆さんに訴えてもいいんですよ」と言われましたが、わたしは粘りませんでした。自分に自信がなかったから。わたしの作品のいいところや「どうしても撮りたい、作品として誕生させたい」という強い熱意を皆さんの前でアピールすることができませんでした。

わたしはそのことを20年以上ずっと悔やんでいました。ここぞというときにわたしはいつも自分の表現や自分のメッセージから逃げてしまう。

しかしここ数年、いろんな人との出会いや機会を経て、少しずつ「アリーナに立つ」ようになってきました。これを伝えなければ!という切実さや、これを伝えたい!という情熱を持って舞台に立ち、それを自分の言葉で表現できるようになってきています。この本作りは、わたし個人にとって、また新たな「アリーナに立つ」という実践でもあります。その覚悟をして立っています。


プロジェクトチームとしてやれるか

わたしたちはプロジェクトですが、確固とした形のある団体ではありません。組織の一員として、誰かに最終責任を引き受けてもらう中で発信しているのでもなく、社会的な肩書きから発信しているのでもない。個人個人が固有の切実さを持ちながら、このプロジェクトに関わっています。何を目指すのか、どんなゴールを目指し、どんな本を届けたいのか、その理想を共にしながらも、責任を一人ひとりが引き受けています。

そうするためには、他のメンバーの原稿に対しても率直な意見を述べますし、アイディアを出したり、一緒に考えます。最終的に書くのは一人の作業ですが、相互作用を受け入れられるかどうかが、一緒にプロジェクトを進めるための重要な鍵だったと、今時点でふりかえって思います。

一人ひとりが自由に書いたものを寄せ集めて、印刷して、本の形にすれば本になるわけではない。一人ひとりの成果を発表する会ではない。全体としてのクオリティを今できる限りあげようと、この本をつくることによって成長を遂げようと思えるか。他者を信頼し、受け入れられるかも突きつけられる時期がありました。


社会変革のために表現する

わたしたちは社会変革を目指している。
人間の叡智で社会をよりよくしていきたい。

「社会問題だと思っている」ことを社会化したかったからこそ、本を書いている。
引き受ける覚悟ができたら、勇気を出して舞台に立つしかない。
あとは自分を信じる。信じているものをつくる。

自分が生きている中で培ってきた叡智を手渡しならが、自分もまた実践しながら社会をつくる構成員の一人であり続けたい。だからこそ個と社会との関係を常に意識しながら書いていかなくてはなりません。このプロジェクトは、個人の実感に留めず、この洞察(インサイト)を社会化する使命があります。

実践していることを書き、書いたことを実践する。

今回の「書く」は、その内外一致をより根源的に求められています。

もちろん、内外一致がなくても、それっぽいものはできるかもしれない。けれども、わたしたちはこの内外一致していくプロセスさえも大切にしたからこそ、この形態で進めてきたのであり、内外一致しないところに生きている実感も達成の喜びもありません。

自分の使命感に冷笑してしまうときもありましたが、それだけ傷つきが深い、痛みが大きいということだとも気づきました。出るたびに観察し、認めて、受け入れて、あるいは仲間に聴いてもらって共感と応援をもらい、叡智を駆使して、内外一致の状態をつくりだしながら、歩いています。

最後に

書かなければ、黙ってれば、評価や攻撃もされない。
でも何も動かない。
社会の全体像が自分なりに見えてきた今だからこそ、動かしたい。
動かすための叡智を手渡したいし、自分もそこで希望をもって生き続けたい。評価にさらされることによって、強くなっていく自分の芯を頼もしく、喜んでいたい。

わたしは、わたしたちはまだ未熟な存在ですが、生きることは常に途上。
途上であるからこそ作り、表現していく。

このプロジェクトの発端となった〈学びのシェア会〉のスピリットを大切にしながら、引き続き出版に向けて取り組んでいきます。

応援どうぞよろしくお願いいたします。