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心と音楽で、3000人の子どもたちと通じ合う。96歳の主任保育士

 「ひとすじ」は、”50年以上ひとつの仕事を続けている”方々を、フィルムカメラを用いて写真におさめるプロジェクト。
個人が自由に仕事を選べるようになり、転職や職種転換も当たり前になった現代だからこそ、その人々の生きざまはよりシンプルに、そしてクリエイティブにうつります。
このnoteでは、撮影とともに行ったインタビューを記事にしてお届けします。

栃木県足利市、山の麓の自然豊かな土地に立つ、「小俣幼児生活団」。築170年の国登録有形文化財、趣のある園舎の周りを、子ども達が自由に駆け回るこの場所に初めて立った時、タイムスリップしたような…いや、ここはただ古いだけではない。漂う空気がまるで私の普段生活する環境とは違っていて、異世界にトリップしたような。そんな感覚に陥りました。

子ども達は、ここで過ごすことを心の底から楽しんでいて、自由に意思を持って”生活”していることが一目で伝わり、一瞬にして私はこの場所が好きだと思いました。

そんな、ノスタルジックで、開放的で、楽しくて、、、不思議な魅力を持つ「小俣幼児生活団」で創立当初から子供達を見守り続けるのが、主任保育士の大川 繁子(おおかわ・しげこ)先生。96歳になってもなお、ピアノを弾いて子ども達と遊ぶパワフルな繁子先生と、この保育園を園長として切り盛りする息子の眞(まこと)さんに、お話を伺いました。

主任保育士の繁子先生(向かって左)と、その息子の眞園長(向かって右)

足利の名主に見初められ、東京女子大学を寿退学

ー 繁子先生は、どちらのお生まれなんですか?
繁子先生:東京の三田です。慶應大学のすぐ裏。

ー 東京のご出身なんですね!こちらにはどういう経緯で嫁いでこられたんですか?
繁子先生:戦争中、家の大事な荷物を親戚だったここの家の蔵に預けていたんです。戦後、お礼を言いに行くからって母に連れられて一緒に来て。そしたら、おじいちゃん(繁子さんの旦那様のお父様で、このお家の当主)が「あれを嫁に欲しい」って。私は東京女子大の数学科に入ったばっかりだったんですけど、中退して嫁いできたんです。旦那も一回ぐらいは会ったことあったけど、結婚するまではほとんど性格も何も知らないで(笑)。

ー すごいですね...!ほぼ何も知らない相手に嫁いで大学中退は、勇気ある行動ですね!
繁子先生:当時は結構そういうことありましたよね。それに、もらってくれる方がいるなら行かなくちゃ、というような思いもありました。
眞さん:当時は寿退学っていうのも多かったらしいです。最後まで大学にいてちゃんと卒業するまでに嫁ぎ先の話が無いっていうのは、多少恥だったみたい(笑)。

ー 今から考えると、すごい時代ですね...!でも、女性が大学まで通って勉強されるのは、当時ではきっと珍しいことですよね...?
繁子先生:そうですね。父を早くに亡くして、母子家庭で育ったんですけど、実家はお金に困っていなかったので、大学まで通わせてもらいました。小さい頃から勉強はできたのでね(笑)。

ー じゃあ、もしこのお家に嫁いでこなかったらそのまま大学に通われて、なりたかったお仕事とかもあったんですか?
繁子先生:数学の先生になりたかったですね。具体的に、自分の母校である普連土学園という女学校で「数学の教師に」という声もいただいていました。

姑に指示されるがままに「保育士資格取得」

ー このお家に嫁いでこられた当時は、まだ保育園はやられていなかったんですよね?
眞さん:うちは代々医者家系なんです。父親が歯科医で、じいさんは産婦人科医。嫁いできてからは、じいさんの産婦人科医を手伝ってたんだよね?
繁子先生:そうですね。こちらの家に嫁いでくるまでは本当に家事は何にもできなかったから、お姑さんに言われるがままに朝から晩までいろいろやって。で、お産っていうのは大抵夜中なんですよね。それで夜中に家の門が叩かれるから、それで私がおじいちゃんを起こしに行って、お産が終わって帰ってくるまでずっと起きて待っているんです。いろんなことをお嫁さんはさせられました(笑)。

ー そんな中、どういった経緯で保育園を始められたんですか?
繁子先生:お姑さんのナミさんが、長男(眞さんは次男で、お兄様)が産まれたあたりから「幼児教育をやりたい」って言い出して。
眞さん:元々、ナミばあさんが東京にいた時に「双葉幼稚園」っていう幼稚園を知って、そこに非常に関心を持ったらしいんですよ。そこは、その時代には珍しく、女性たちが主体になって生き生きと仕事をしている、社会貢献をしているっていう場所だったようで。うちのばあさんは、その昔「外交官になって世界を飛び回る」という夢があって、いろんなことをやるのが好きな、アクティブな人で。もともとそういう古い家のしきたりとか、家に縛られて生きるような考え方に反発していたこともあったりしたんですかね。5人姉妹の長女(ナミさんのお姉様)が駆け落ちしちゃって、次女である自分が家を継がなきゃいけなくなったけど、家業だけに縛られるのではなく、好きなことをやろうって思ったみたい。

ー お話を聞いているだけでナミさんの凄さが伝わってきます...!相当パワフルな女性だったんでしょうね...!
繁子先生:そうですね。綺麗な人だったし、本当に迫力のあるお姑さんでしたね(笑)。それで、私が長男を出産してしばらくしたころに、ナミさんが役所に「幼稚園をやりたい」って相談に行って。そしたら、「これから保育園ってものができるからそれを作らないか」と言われたみたいなんだけど、保育園の申請には最低ひとり保母さんの資格を持った人がいる必要があると知って...「あんた資格取りなさい」と言われて。で、私は産まれたばかりのこの子(次男の眞さん)おぶって、児童憲章などを一生懸命覚えて、それで受けに行った。24,5歳のころですかね。
眞さん:でも一発で受かっちゃったんだよね?(笑)
他の人は研修とかいっぱい出て、でもうちの母はそんな時間ないから、試験に向かう電車の中でその人たちのノート見せてもらって、それで受かっちゃった。ノート見せてくれた人たちの中には落ちちゃった人もいたのに(笑)

ー 持ち前の頭の良さが発揮されてますね(笑)
繁子先生:でも、みんな実技で落ちる、って言われてて。ピアノの実技があったんでね。私は幸いピアノが弾けたんです。6歳の時からピアノをやってて。だから無事に合格することができました。

子どもたちが楽しみにする繁子先生の「リトミック」

ー 実際にやってみて、保育士の仕事は楽しかったですか?
繁子先生:私のピアノに合わせて子どもたちが自由に体を動かす「リトミック*」が特に好きで。みんな私のリトミックを楽しんでやってくれて、私も子どもと一緒に遊ばせてもらって。あとは、絵本を読み聞かせするのも好きです。今でも、体調と相談しながら毎日出勤して、絵本とリトミックは私がやります。

*リトミック…音楽に合わせて体を動かし、表現力を養う音楽教育法です。
子どもたちは、リトミックのピアノや楽器の音を聴きながら、自由に体を動かして表現します。お遊戯のように決まった動きはなく、子どもたちが自由に表現することを大事にしているのがリトミックの特徴です。
(参考文献:https://solasto-career.com/hoiku/media/19710/)

ー リトミックはどうやって勉強/研究されたんですか?
繁子先生:3,4歳の頃に母が私を連れて、自由が丘の舞踊研究所に連れて行ってくれていたんですけど、そこで教わっていたのが、実はリトミックだったみたいなんです。その研究所をやっていた石井漠先生というのは日本で最初期に新しい舞踊を始めた人なんですけど。研究所を建てるにあたってドイツに学びに行っていたのが、ダルク=ローズのリトミック研究所だったみたい。40代の頃に国立音大でリトミックの講習受けたら、その時に懐かしい思いがして。「あの頃にやってたやつだ」と。
眞さん:私が文献を読む限り、おそらく母は日本で最初にリトミックを学んだ子供なんです。当時石井漠さんの研究所に通っていた子供が2人いて、1人は先生のご身内の方、もう1人の最年少が母だったんです。

ー すごい話ですね...!じゃあ、保育士さんの文脈に関係なく繁子先生はリトミックに触れていらしたんですね。
繁子先生:結果的にはそういうことだったんです。
眞さん:それに、母は90歳を過ぎてからも、若い保育士たちと一緒に高崎まで行ってよくリトミックの授業を受けていました(笑)。

ー すごいバイタリティですね...!
繁子先生:リトミックもそうですし、いろんな勉強を続けています。勉強会や講演会では、子どもの精神的なことや研究の話をたくさん聞くことができますし、日々研究は進んでますからね。だからそういった本が出ると、片っ端から買って読んでます。
眞さん:今でも母は若い保育士も含めて、一番勉強しています。

ー 素晴らしいです...!まさに「生涯現役」ですね。
眞さん:そもそも、今は私が祖母から受け継いで園長をやってますけど、順当に言ったら母が園長だったんですよ。だけど、本人が「園長なんか、バカらしくて。現場のほうがずっといい」「園長よりも主任保育士として現場でやりたい」と。まあ、当時、園長というのは、まともな給料があるわけでもなく、自分の資産を注ぎ込んで社会奉仕するような仕事だったので、いわば顔役みたいなもので、実際に動かしているのが現場の保育士さん。その指揮を執るのが主任保育士だった。
母は、働かずして食べるのは嫌な人なんですよ。なんでも良いから自分がしゃかりきに働いて、それで得るっていうのじゃないと嫌なの。顔役で座ってるだけで何か報酬を得るっていうのは、合わなかった。それで、私が園長になることになってしまったんです(笑)。

現場で子供たちと接するのが好きだと語る繁子先生

「意思を育てる」独自の教育スタイル

ー 眞さんが園長になる前と後で、保育園のスタイルは変わったんですか?
眞さん:ここは、「子どもたちの意思を育てる」ということを大事にしているんですけど、その形はナミばあさんの時代からありました。というのも、ここは元々、東京にある「自由学園」の幼児教育部の暖簾分けなんですよ。「幼児生活団」っていう名前もそこからもらったんです。なので、当初から「自由学園」のノウハウをいろいろ持ってきて取り入れてた。いわゆる「学校教育」のようなものではなく、「生活主体」。そういう形は、この保育園の出発のころからありました。
で、私が園長になってからは、「モンテッソーリ教育」と、「アドラー心理学」、それにジャック=ダルクローズの「リトミック」の、3本柱の教育方針にしていきました。あまりモンテッソーリ教育と、アドラー心理学を両方取り入れている保育園はなくて。

ー 眞さんが考えられてそれらの教育方針を取り入れたんですか?
眞さん:私が勉強して、それらを取り入れたいと主任保育士の母に相談しました。うちはトップダウンをやらないんです。実践するのは現場の保育士さんなので、現場にいる人たちが心からそれを信じられないとできないんです。だから、まずは母を始め、現場の保育士さんたちにこの教育方針を話した。そうしたら保育士さんたちが、「やりましょうやりましょう」って私にせっつくようになって(笑)。それで、みんな順番に1-2年研修に行ったんです。
だから、ここに就職する人たちには、「大学院に入ったような気持ちで来てください」と伝えるんです。モンテッソーリ教育と、アドラー心理学と、ジャック=ダルクローズのリトミックの3つを学ばなければいけないので。

ー 具体的にはどういったスタイルで園児と向き合っていらっしゃるのでしょうか?
眞さん:先ほど話した、「意思を育てる」ということを一番意識しています。0歳の段階から、自分で判断して自己決定するトレーニングを始める。飲み物ひとつでも、牛乳と麦茶を出して「どっちを飲むか?」って必ず聞いて。選択の連続なんです。運動会で何をやるかも自分で選んで、「何もやらない」って子も毎年2人ぐらいいる。自ら選び取ることを尊重するこのスタイルは、アドラー心理学に基づいています。

ー 大人になると当たり前のことですけど、子どもの頃は言われた時間に与えられたものを飲み食いすることが多いですもんね。
眞さん:お昼ご飯も別に食べる量や座る席はこっちで決めていなくて、この時間までに食べなきゃいけない、というのもない。だから園児たちは、午前中に一緒にお昼ご飯を食べる仲間を募って、誘うんです。保育園に園児が来ると、朝からやることは決まってない。自分でその日にやることを自己決定していくんです。だから、朝から頭フル回転じゃないといられない。それを5-6年間毎日続けて、子供たちの「意思」を作り上げる。「常に自分と向きあって判断する
」というトレーニング。それが、人生を歩んでいくための大事な部分だと思うんです。

ー 決められ、与えられ続けると、1日の生活はスムーズだけど、それが当たり前になってしまいますもんね。そのスタイルの実践には、先生たちの観察力も必要不可欠な感じがします。
眞さん:うちの保育園はクラスが年齢別ではなく縦割りなんです。保育士は全クラスを見ているし、子どもも先生全員を知っています。モンテッソーリ教育は、「子どもには生来、自立・発達していこうとする力があり、それが発揮されるためには発達に見合った環境が必要である」という考え方なんですが、縦割りクラスもこういった考えに基づいています。

ー 縦割りだとどんな効果があるんですか?
眞さん:縦割りでは、年長さんは下の子を見るし、今度はその子たちが下の子をお世話する。教えてもらい、自分でやってみて、今度は教えるっていう3つの立場を経験する。まるで兄弟のような関係性です。ある頃から園児に一人っ子の子がすごく増えてきて、「これは成長に偏りを与えるかもしれない」と思ったんですけど、縦割りによって、彼らは義兄弟のような関係になっています。だから、卒園してからも結びつきが強いんですよ。

ー 素敵ですね。
眞さん:ここでは、喧嘩も安易に仲裁はしない。ここの園児は、年長あたりから、何か起きると、仲間内で集まって自分たちで解決しちゃう。で、しばらく経ってから私たちに「先生解決した!」ってだけ報告しにくる(笑)。小学校に上がってからも、ここの卒園生は問題が起きても先生に頼らないらしいんです。

ー すごい!私は困った時すぐに「先生〜〜!」って呼んでいるタイプでした(笑)。

96歳、今が一番楽しく自由にやれている

ー そうやってたくさんのお子さんを見ている中でも、特に印象に残っている園児さんはいらっしゃいますか?
繁子先生:一人ひとり印象に残っているし、たくさんいますけど...周りに、「この子の話をすると大川先生の顔色が変わる」と言われていたのは、重度の自閉症をおっていた子です。足利で一番症状が重いって言われていた子がうちの園に通っていたんです。

ー 障害児保育園とかではなく、こちらに通われてたんですね。
眞さん:うちは、障害児保育の看板をあげないんです。「障害児」というくくりではなく、「この子はこういう子」というふうに考えるから、「障害児」という考え方はしない。だから、障害児保育で有名とかってこともないし、かといって拒否ももちろんしていないんですけど。だから、小児科の先生の紹介だっか、口コミだったかで、うちの園に来てくれたんです。

ー なるほど...!特にどんな点が印象に残っていますか?
繁子先生:具体的なエピソードというよりは、もう言葉が全然通じないし、年中脱走しちゃって、とにかく毎日大変でした。でも、最初は話せなかったのに、だんだん母音だけは喋れるようになったりとかして。
今では、トラックの運転手をやって、自分でローンを組んで家を買って、そこにお母さんと住んでいて。彼は人にはない能力がやっぱりあって、スケジュール表なんていらないくらい記憶力が良かった。そういうのを生かして仕事に就いたんでしょうね。

ー ここで過ごした時間が、彼の今に繋がっていったんですかね。
繁子先生:当時は、自閉症という言葉もまだ聞かないような時代で、東京の研修会に行くたびに理論が変わったりしてたんです。だから、私も探り探りで向き合って。その子が、成人式にここに挨拶に来てくれた時は本当に嬉しかったですね。

ー 素敵なエピソードですね。
眞さん:学校というスタイル(学力などを伸ばす目的)だったら、子どもたちの能力が一律の方が良いんですよ。でも、ここは、生活力やトラブル対応力など、人間としての基礎力、育てる園なので、「多様性」が大事なんです。だからここにはいろいろな子どもたちがいます。

ー そうやって、この園と繁子先生はこれまで何人くらいの園児たちを受け入れ、見送ってきたんですか?
繁子先生:おそらく、今年の卒園生に3000号が誕生する予定です。

ー 3000人...!すごい数ですね。始めた当初と、今とでご自身の思いの変化はありますか?
繁子先生:やっぱり、長く続けていく中で、「子どもはみんな何かそれぞれいろんな良いものを持っている」ということは、よく分かりましたね。
喋ったり、一緒に遊んだりしてみて「あ、そうだ。この子こんなことができたんだ」っていう気づきが日々あって。子どもの色々なことを知れるのが嬉しいんです。

ー ここまで長く続けてこられた理由は何だと思いますか?
繁子先生:毎日目の前に子どもがいて、関わって向き合わなくちゃいけない。その日常がずっと続いている感覚なので、「続いた理由」というのは特別無いですが、まあでも、「自分の家でやっている家業だから」というのはあるんでしょうね。おばあちゃんに急に「資格を取れ」と言われたときは何がなんだかわからなかったけど、今は好きに色々やらせてもらってます。私のピアノで子供たちが踊るのを見ている時間なんかは、本当に楽しいです。

<編集後記>

取材後、私たちは園児と一緒に目一杯遊ばせてもらい、充実の帰路に着いた。帰りに佐野ラーメンを食べながら、一緒に取材に行った中村・増田に「最高だったね!子どもが生まれたらああいう園に通わせたい!」と興奮気味に話し続けていたのだが、ひとりになってから、「どうしてこんなにあの保育園に心奪われたのか」を冷静にじっくり考えてみた。

私の中で出た結論は、「あそこで幼少期を過ごすことのできる園児たちが、単純に”羨ましかった”のだ」ということであった。「自分が親になったら」という、まだ実感もない遠い未来の、落ち着いた視点で小俣幼児生活団を良いと思ったのでなく、この時代に生きる等身大の自分自身として、熱を持って「あそこで幼少期を過ごせる人生だったら」と考えたのである。
私はそれなりに自己肯定感が高いし、「自分の人生は最高だ!」と常に思っている。でも、それは、何となく「限られた選択肢の中でベストなチョイスをしてきた」という意味での「最高」なのではないかと、最近よく思う。埼玉県内の高校ではここに一番行きたい、私の学力と選択科目で受けられる日本の大学の中ではここに一番行きたい、この業界の会社の中ではここに行きたい、そういう風に、自然と「自分の価値観の外側に広がる世界」を意識的にか無意識的にか、半ば排除して、容易に想像できうる未来の中から常に人生を選択してきた。

しかし、ここ最近は、突拍子なく、脈絡なく、その選択肢が有るのか無いのかすらわからない中で自分の感覚を信じて飛び込んだり、先人のいない道を切り開いたりしてきた逞しい人に出会う機会が多く、自分の人生スケールの小ささを憂いたり、他人の人生を羨ましく思うこともあった。

そんな中、「小俣幼児生活団」で出会った園児たちは、私が幼少期に無意識に「当たり前」だと思っていた感覚を持ち合わせず、ただただそこにある自分だけの感覚や気持ちを優先して自由に遊んでいるように感じた。ひとりでどろんこ遊びをする女の子、シール交換に夢中な男女チーム、まだ幼いのに公園内で自転車を華麗に乗りこなす園児。繁子先生のピアノに合わせて、自由に踊りで表現する子、リズムだけで感じる子、もはや部屋にも入ってこない子。「男の子だから」「年少だから」「みんながやっているから」そういった感覚は当たり前にこの空間には存在しないし、何より個人としてその時間を自分らしく過ごすことだけにみんながフォーカスしている。私は、「年下」とか「幼児」という概念を排除して、そんな彼らがとっても格好良いと思ったのだ。
良いな良いな。きっと、彼らは、これからもそうやって自分の感覚を磨いて、信じて、たくましく自由に生きていくのだろうな。

私は目を瞑って、この園で走り回る幼い日の自分を想像してみた。
・・・何だか少し、飛べる気がして、自分の未来にワクワクした。

小俣幼児生活団

〒326-0141 栃木県足利市小俣町1412
TEL:0284-62-0003
開園時間:7:00-19:30
休園日:日曜、祝日

取材/ライター:野澤 雪乃
取材:増田亮央
編集:新野 瑞貴
撮影:中村 創
監修:後藤 花菜

50年1つの仕事を続けた方のポートレートや仕事風景をフィルムカメラで撮影した写真集「ひとすじ」製作中!最新情報はこちらからご覧ください。▷instagram @hitosuji_pj


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