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ぬけがら

黒川崚馬1 セミの鳴く公園

耳をつんざくようなセミの鳴き声が、夏を実感させ始めた七月中旬。日中の最高温度は30℃を優に超え、小学校の体育の授業では熱中症にかかる児童も多く報告されている。黒川崚馬も、今日の体育の授業で、クラスメイトの男子生徒一名を、保健室まで連れていくのに付き添ったばかりだ。運動好きの崚馬からすれば、体育の授業を途中で抜けることにもなるため、あまり嬉しいことではない。しかし、これも保健・体育委員の仕事なのだから仕方ない。

崚馬は、学校では、どちらかというと人気者の部類だった。勉強はあまり得意ではなかったが、運動神経は抜群。クラスで何か面白いことがあれば、崚馬はいつでものその中心にいた。そんな崚馬に密かな想いを寄せる女子生徒も、少なからずいたようだが、十歳の生徒にその想いを暴露させるのは、少しハードルが高い。もちろんその想いに崚馬が気付くこともまた然りだ。

放課後、日中の炎天下の名残を残した公園で、崚馬は弟の亮太といつも遊んでいた。そこには、ブランコとシーソーと砂場、それから町内会議が行われたときなどに使う集会場がある。中央には10m程ある、大きな木が植えられている。木陰には、ベンチが二つ並べられており、ここでくつろぐことが、崚馬にとってはお気に入りの時間だった。

蝉がさんざめく公園内で、汗が染みこみ変色した灰色のTシャツをなびかせながら、崚馬の弟、亮太は叫んだ。

「お兄ちゃーん。そっちいたー?」

亮太は、虫取り網と虫かごを持って、俺のもとへ走って来た。

「たくさんいたよ」

そう言いながら、俺は、亮太に虫かごの中身を見せた。

「うわ、凄い。1、2、3……5匹もいる!」

「亮太は3匹か。また俺の勝ちだな」

「もーなんで、おにいちゃんのところばっか、セミ集まるの~~」

 負けたことがよほど悔しかったのだろう。半分泣きそうになりながら、むくれている弟に、俺は諭すように言った。

「よくセミの鳴き声に耳を澄ませてみな。そうすれば、セミが居場所を教えてくれるよ」

 俺のアドバイスに満足したのか、とたんに亮太は笑顔に戻った。そして、子どもならではの無邪気さを言葉に込めて言った。

「分かった。じゃあもう一回勝負しよ」

 やる気満々の亮太には悪いと思いつつも、俺は時計を見ながらタイムリミットを告げた。

「いや、もうそろそろご飯の時間だ。帰らないと、お母さん怒るぞ~」

 すると、再び機嫌を損ねた亮太が駄々をこねる。

「嫌だ。勝ち逃げなんてズルいよ」

「しょうがないな。じゃあ、どっちが先に一匹捕まえれるか勝負な」

「うん」

 5分ほど経過した後、亮太の「捕まえたー!」という歓喜の声が、公園中を覆った。それと同時に、二分ほど前から目の前で「ミンミン」と鳴き声を張り上げているセミが、飛び立っていった。ほんの少し手を伸ばせば、二分前に捕まえられた獲物だ。しかし、ここで俺が先に捕まえてしまえば、亮太が再び駄々をこね始めることは分かりきっていた。だから、木にへばり付き、生きた証を記憶に刻み付けるかのように鳴くセミを、そっと見守るだけに努めた。

「ねぇねぇ、お兄ちゃん、見て。捕まえたよ」

 捕まえたセミを、誇らしげに掲げながら、亮太は俺に近づいてくる。

「うわ、さっきまで此処にいたんだけどな~。飛んで行っちゃったよ。今回は俺の負けだな」

 さっき捕まえられたが見逃したことなど、言うはずもない。

「やったー。お兄ちゃんに勝ったー」

 無邪気な声を上げる弟がなんとも微笑ましかった。

「お兄ちゃんのアドバイスのおかげだよ。ありがとう」

 元気な幼稚園児の、混じり気のない笑顔は、やはり反則級に可愛らしい。

「じゃあ、セミを自由にしてあげたら、家に帰るか」

「うん」

 その日は、満面の笑みを浮かべる亮太と、セミを離した後、手を繋いで帰った。

「そう言えば亮太、今日は抜け殻、ポケットから出して家に入るんだぞ」

 亮太は俺と繋いだ手を離し、ポケットから大事そうにセミの抜け殻を取り出した。

「うん、庭に置いとく。これはお兄ちゃんと、セミさんたちと遊んだ記念なんだ~」

「そっか、それなら大事にしなきゃだな」

「僕の宝物だよ」

 亮太は両手の上に乗せたセミの抜け殻を、微笑みながら見つめている。そして、まるで生まれたての雛を扱うかのように、丁寧にポケットの中へ入れた。

 毎回、毎回、抜け殻を拾うことに夢中になっているから、蝉取り合戦に負けるのではないだろうか。崚馬は、ふとそう思った。しかし、抜け殻を愛でながら、「宝物」などと言っている亮太にそれを言うのも、どこか気が引けた。亮太にとっては恐らく、勝ち負けなんかよりも大事なことなのだ。

 亮太は俺の手を握り返し、混じり気のない言葉を呟いた。

「今日も引き分けだったなー。明日は勝てるかなー」

 隣で歩く亮太が楽しそうに言っているのを、俺は「亮太が蝉取りに集中すれば、勝てるかどうか……」と心の中で呟きながら聞いていた。

だけどまだ……。

「俺だって負ける気ないよ」

「絶対、勝ってやるもんねー」

一心に張り合ってくる弟が可愛過ぎて、ついつい頬が緩んでしまう。亮太と本気で勝負できる日を、楽しみにしながら、家までの道を歩んだ。

家に帰り、玄関を開けると、香ばしい肉じゃがの匂いがした。同時に玄関の扉が開く音で、俺たちの帰りを察した母の声が聞こえてくる。

「お帰り~~」

「ただいま」

 母の声に、俺は返事をした。

腹ペコの亮太は、今大人気のキャラクターの刺繍が入った靴をポイっと脱ぎ捨てて、整えることもなくリビングに直行だ。このままでは、後で「亮太、帰ったら靴はどうするんだっけ? 崚馬もちゃんと言ってあげないとダメでしょ」と母の小言が飛んできてしまう。それは避けたいので、俺は自分のスニーカーを並べるついでに、亮太のサイズの小さな靴も整理した。

 リビングに行くと、テーブルの真ん中に鍋が置かれ、三人分の食器と箸も用意されていた。

「手を洗ったら、早く食べなさい」

 母にそう促されたので、俺は既に肉じゃがに手を伸ばそうとしている亮太を連れて、台所まで足を運んだ。亮太は「肉じゃが食べたい」と駄々をこねたが、俺は軽くあしらい亮太を窘めた。亮太にちゃんと石鹸を使うことを促しながら自分の手を洗い、リビングに戻る。すると、床の掃除をしながら母が言った。

「自分の分は自分で取ってね。崚馬はあんまり欲張りすぎないこと」

 母の冗談めいた声に、崚馬は「うるさいなぁ」とむくれながら言った。そこに追い打ちを掛けたのは弟の亮太だ。

「お兄ちゃん、この前、僕のおやつも食べたもんねぇ~」

「お前が、早く食べないからだろ~」

「だからって、人のもの食べたらいけないんだもんねぇ~」

「はい、ケンカしない!」

兄弟同士の口論に、鋭い喝を入れたのは、もちろん母、広美だ。

「ところで、崚馬」

 間をおかれて発せられた母の言葉と、意味深なアクセントが、崚馬に嫌な予感を喚起させた。

「宿題はやったの?」

きた! 小学生が最も、母に言われたくない言葉ランキングで、間違いなく上位に食い込んでくるであろう言葉が、きた……。

「げっ!」という心の声が聞こえてしまったのか、母は崚馬に追い打ちをかけた。

「ご飯食べたらちゃんとやっておきなさいね。後でチェックするわよ」

 悪意のある笑みを浮かべる母に、一瞬おびえながら、崚馬は食卓に着いた。

そんな崚馬を余所に、弟は満足げに肉じゃがを装っている。小言を言われることのない弟を影で恨めしく思いながら、崚馬も肉じゃがを装った。

 肉じゃがを装い終えた亮太は、母に質問を投げかけた。

「ねぇ、お母さん。今日もお父さん、遅くなるの?」

 亮太の不安そうな上目づかいが、母に向かう。

「そうね。お父さんも本当は亮太と一緒に食べたいと思ってるけど我慢してお仕事がんばってるのよ。亮太も我慢できる?」

「うん」

 父も気持ちは同じであるという自覚により、亮太の不安はやや緩和されたようだ。

 本当は、家族全員で食卓を囲みたいという広美の想いもあった。しかし、まだ幼い息子たちに、夜更かしをさせるわけにもいかない。息子たちに食事を与え、十時までに二人を寝かしつけること。そして、広美自身と息子たちの、健康的な生活が崩れないように守ること。それが、一家の大黒柱である、父、龍一から課せられた仕事であった。だから、自分が帰ってくるまで、食事を待つ必要もなければ、起きておく必要もないというのが龍一の立場だ。

しかし、母としての立場は、最愛の夫に、そんな寂しい食卓と睡眠を与えるわけにはいかないというものだ。そんな広美の主張も、「それは、息子に寂しい思いをさせることに繋がるんじゃないか?」という龍一の発言から、広美は立場を変えることを余儀なくされた。

それなら、食事は息子と食べるが、せめて仕事帰りは玄関で「お疲れ様」の一声をかける。それが、広美の妥協論であり、通すべき筋でもあった。

龍一が息子とのコミュニケーションを望む気持ちは分かっている。その望みを押さえつけて、子どもを早く寝かせることを優先する龍一が、家族のことを考えていないはずがない。だからこそ、広美は、自分との交わりという選択肢を、龍一の心の中に残してほしかったのだ。そんな広美の考えを、龍一は変えようとすることはなかった。お互いの妥協によりまとめられた、一家のルールは、平穏な生活を支え続けた。

全員が肉じゃがを装い、テーブルにつくと、広美の「いただきます」の号令とともに、全員が箸を持つ。食事が始まるや否や、第一声を発したのは、広美だった。

「亮太は今日、何して遊んでもらったの?」

「なんだと思う~」

 亮太のいたずらな笑顔が、崚馬には微笑ましく映った。

「う~ん、鬼ごっこ」

「ぶっぶ~。セミ取りでした~」

亮太の正誤判定の後に「お母さん、ハズレ~」と崚馬が付け加える。

その言葉で、家族全員がドッと笑った。笑いも収まり、次は崚馬が広美に質問される番だった。

「崚馬は、学校はどう?」

 母の発言に、崚馬の表情が少しだけ固くなったのは、先ほどに続き、また宿題をすることを言い渡されるのではないかと、身構えためだ。

「普通」

 警戒しながら、曖昧な受け答えをすると……。

「普通じゃ分からないでしょ。お友達と何して遊んだかとか、先生は何を教えてくれたかとか」

どうやら、宿題をせかす気はないと分かり、崚馬の表情は軽くなった。とはいえ、学校であった事を唐突に聞かれても、パッと答えられるハズもない。しばらく考え込んだ末、やっとのことで蘇った記憶を言葉にした。

「そういえば、今日の昼休みにやったサッカーで、ハットトリック決めた」

 ハットトリックを決めた後に、熱中症で倒れた生徒を保健室へ運ぶ羽目になったのだ。口調が特に誇らしげではないのは、崚馬にとって、昼休みに遊びでやるサッカーでハットトリックを決めることなど、珍しいことではなかったからだ。

小学生のスポーツなど、運動神経が取り分けて良い生徒に、必然的にボールが回される。それは、運動神経の良い崚馬も然りだ。いつもゴール前で、運動が苦手な生徒にパスを受けるのだから、三回ゴールを決めて当然といえば当然なのだ。

 そのことを理解している母の反応も、濃いものではなかった。黒川家長男が今日も元気で学校生活を送っていたのか、確かめることが真の質問の意図なのだ。

「凄いわね。あんた、誰に似たのか、運動神経、良いものね」

「まあね」と、すました顔で、肉じゃがを掬ったスプーンを口に運ぶ兄に、弟は闘争心を剥き出しにした。

「僕だって、それくらいできるもん!」

 亮太は、眉に皺を寄せ、上目づかいで母を見つめている。やんちゃ盛りの弟が、母に褒められる兄を隣で見た反応としては、ごく自然なものだ。

そんな亮太の様子が、俺に癒しを与えていることなど、僅か五歳の弟が知る由もない。

「いっぱい練習して、俺を負かしてみろ」

そう亮太に告げると、「今でも負けないよ!」と威勢の良い声を発した。そんな弟の姿が、黒川家の食卓に笑顔を届けたときに、母、広美は思い出したかのように言った。

「ねぇ、崚馬」

「何?」

「ちょっと、頼まれてくれない?」

「お遣いなら嫌だよ」

 母の頼み事は毎度毎度ロクなことじゃない。宿題もあると言うのに、母のわがままに付き合っている暇なんかない。ここはなんとしても切り抜けたい。

「もう、門限過ぎてます~」

「この前、牛乳買いに行かせたくせに」

「あれは、緊急事態だったから仕方ないの」

 自分のことは棚に上げた母は、即座に本題に話を切り替えた。

「それより、明日、亮太の自転車の稽古つけてあげてくれない?」

「え!!」

 母の話を聞いて、綺羅星の如く目を輝かせた亮太が驚きの声を上げる。その衝撃で口に含んだ肉じゃがの玉ねぎが、唾とともに飛んで行った。

そんな弟とは反対に、兄の反応は冷静そのものだ。

「いや、亮太に合う自転車がないじゃん」

 ご尤もな指摘に、得意げな笑顔で応答を示す母。そんな母を見た亮太の目が、より一層煌めいた。

幼い子どもに、そんな目を向けられれば、返す言葉は一つしかない。

「実は今日、買って……」

「やった~~~~~お母さん大好き~~~~~」

 母の言葉を最後まで聞かずに、喜びをフライングさせた亮太は、今にも広美に抱き付きそうだ。

「亮太も、もうすぐ小学生になるんだから、自転車くらい乗れるようになりなさい」

 毅然とした言葉であるはずが、亮太のあまりの喜びっぷりに、母の口調は緩い。さらに、その言葉の後に、母の懐に亮太が飛びつく始末だ。「母の威厳も何処へやら……」と冷静な崚馬は、心の中で呟いた。

「明日から、俺と、練習しなきゃだな」

 それは、亮太を喜ばせると同時に、母の要求を飲んだことを示す言葉でもある。そのためか、亮太の承諾の声と、母の感謝の声が重なった。そして、笑顔で互いの顔を見合わせる、母と弟を見て、崚馬も自然と頬が緩んだ。

柴崎胡桃美1 友達への憧れ

八時一五分。登校時間まですこし余裕持たせて四年二組の教室に入った柴咲胡桃美は、ワイワイと朝の談笑をしている友達の輪などには目もくれず、一直線に窓際最後尾の席へと歩いて行った。そこが胡桃美の席なのだ。

席に着き、ランドセルを机のホックに掛けると、胡桃美は頬杖をついて教室内を見渡した。

――朝っぱらからうるさいな。毎日同じ奴らと一緒に騒いで、一体何をそんなに話すことがあるんだろう。

すると、朝からグラウンドでサッカーをしていた男子生徒の集団が教室に戻って来た。

――うわ。あいつら来たらまたウザくなる。

元々から生徒の話し声に溢れ、外まで声が漏れる程の騒々しさであったが、彼らのヤンチャな声は、その中でもとりわけ際立っていた。

――ほらみろ。クラスの騒音の八割はこいつらなんだ。どーせまたフリースローが始まるんだろ。

すると、坊主頭の男子生徒が胡桃美の席に近づき、ボールを入れるために作られた段ボールの箱を棚から引っ張り出して、胡桃美が座っている席の隣に置いた。

「佐藤、一発で入れたらブタンメンおごるわ」

 いつも佐藤の隣にいる、金魚の糞だ。名前なんかいちいち覚えてないから、いつも「坊主頭」呼ばわりしている。

 ボールを持っている佐藤は、「よし」と言わんばかりに、バスケのフリースローのような体制を取り、サッカーボールを放った。

 放たれたサッカーボールは、箱へは向かわず、胡桃美の隣に座っている光武奈々の後頭部にぶつかかり、跳ね返ったサッカーボールは坊主頭がキャッチした。

 そして坊主頭は「あ~あ」などと笑い出す。

「いや、今のは光武が邪魔だったわ」

 ボールを当てておいて謝りもしない佐藤に、胡桃美は急速にイライラが溜まっていくのを感じていた。自分の周りで騒動を起こした挙句、胸糞悪い仕打ちまでも繰り広げる佐藤を、胡桃美は三白眼で睨み付ける。

そんなことにも気付かず、佐藤は奈々に近づき、理不尽極まりない言葉を浴びせた。

「おい、お前が邪魔したせいで、ブタンメンがなくなっただろうが」

 下を向き俯く奈々。膝の上に置かれた手に目を回すと、腕が小刻みに震えているのが分かった。

 佐藤は、クラス一のいじめっ子で、学年一のガキ大将として有名だった。恰幅と威勢だけは良く、上級生にも引けを取らない程、力も強い。そのため多くの男子生徒は彼に口出しできない。いつも、下僕を従えて弱いものをいじめ、多くの生徒を泣かせてきた。

 胡桃美も、スカした態度が気に入らないという理不尽な理由で、佐藤とその下僕たちに殴られたことがある。空手歴の長い胡桃美は、ガキ大将グループの四人や五人、返り討ちにすることは簡単だ。しかし、そうすると今度は一週間以上に渡り、ネチネチとした仕返しを受けることになる。そっちの方が余程面倒だ。

「おい、光武。シカトかよ」

 俯き続ける奈々に痺れを切らした佐藤は、机に置いてある、フクロウの絵がプリントされた筆箱を手に取った。

「そういや今日筆箱持ってくんの忘れたわ。コレ、借りるわ」

 すると突然奈々は立ち上がり、佐藤から筆箱を奪い取った。

「これだけはダメ!」

 奈々は筆箱を抱きしめるように抱え、泣き叫んだ。

 奈々のこの行動に、胡桃美は目を丸くした。今までどんな嫌がらせを受けても俯いているだけだった、あの引っ込み思案な奈々が、クラス一のいじめっ子に抵抗する姿など、想像すらつかなかったからだ。

するとこの奈々の行動は、佐藤の神経を逆なでしたらしく、佐藤は奈々の髪を鷲掴みにし、自分の顔まで引っ張り上げた。

「調子に乗ってんじゃねぇぞ、このクソ陰キャが。作文しか能がないクセに俺に逆らうな!」

 胡桃美が痛みで顔を歪める奈々の表情を見上げると、不意に奈々と目が合った。その眼は、明らかに助けを求めていた。

 胡桃美は反射的に自分の席を立った。別に奈々の悲痛な表情に感化されたからじゃない。目の前のクソヤローが気に入らなかったからだ。

弱い奴に横暴な男を見ると、どうしても感情に歯止めが利かなくなる。

 憤慨に震えた拳は、一直線に佐藤の顎を捕えた。怒りで張り裂けかけた胡桃美の感情は、鈍い打撃音となり大きく爆ぜた。

 突然殴られた佐藤は、無様に転倒し、床に膝をついた。佐藤の見上げた先には、射殺すような鋭い眼光を、自分に浴びせている柴咲胡桃美の姿。その左には、筆箱を大事そうに抱えて立ち尽くす光武奈々。右には、目の前の光景を受け入れられず、ソワソワとみっともない姿を晒している、坊主頭の姿。他の生徒は談笑に夢中で、気付いていないようだ。

 そして、胡桃美は面倒くさそうに溜息をつき、佐藤に言った。

「お前の方が邪魔なんだよ。さっさとボール片づけて、席に着けよ」

 往生際の悪い佐藤が、立ち上がり反撃しようとしたその時、教室の扉が開き、担任の先生が入室してきた。佐藤は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、小さく「後で殺す」と呟いて、自分の席に戻って行った。

 胡桃美は、サッカーボールの後始末を坊主頭にさせ、自分は席に着いて、頬杖をつく。

 すると、隣の奈々が「柴咲さん」と名前を呼んできたので、目線だけ奈々の方に向けた。仏頂面を向けられた奈々は、一瞬怯んだが、勇気を出して言葉を声にする。

「あの……、さっきはありがとう」

 胡桃美は目線を窓の方に向け、景色を眺めながら「私が気に入らなかっただけ」となげやりに返した。

 すると、頬杖をついた仏頂面が移る窓に、ニコニコ微笑む奈々の顔が移り込んで来た。胡桃美はなんだかもどかしくなり、自然と眉間の皺が深まる。それに気付いた奈々は、ハッとなり、視線を前に移した。

 授業が終わると、隣の席から視線を感じた。ランドセルを整理している横目に窓を見ると、奈々の顔がこちらに向いている。声をかけようとしているが、言葉にならないらしい。

いつまでもうじうじと、じれったい。佐藤から筆箱を取り返した勇気はどこに行ったんだ、意気地なしが。もういい。こちらから声をかけよう。

「ねぇ」

 胡桃美が声を発した瞬間、奈々の全身がピクッと動いた。

「そんなにガン見されると、キモいんだけど」

 すると、奈々は口元に手を当てて、慌てて取り繕っている。

「えっと……。その、ごめんなさい」

 目をキョロキョロさせて、動揺している一部始終は、全て窓に映し出されているため、胡桃美からは丸見えだ。窓ガラスに映ったその顔には、奈々が胡桃美に伝えたいことも克明に描き出されていた。

「私と一緒に帰りたいの?」

 胡桃美の読みは見事に的中したらしい。

奈々は恥ずかしそうに、「う、うん」と言いながら、頷いている。

「あんた、家どっち?」

「梅崎の方だけど」

「私ん家と逆じゃん」

「下駄箱まででも……」

「あっそ」

 すると、ランドセルの整理をし終えた胡桃美は、ランドセルを背負いながら「勝手にすれば」と、颯爽と教室から出て行った。

 奈々は、嬉しそうに胡桃美を追いかけていった。

「柴咲さん、待ってよ!」

 胡桃美があまりにも歩くのが早すぎて、奈々は追いつくのがやっとだった。

「はぁ」

 あからさまな溜息。「嫌われたかな?」と思い、奈々は一瞬、表情をこわばらせた。

「私、この後空手の稽古あるから、急いでんだよね」

 それを聞いて、少しだけ奈々は安心した。胡桃美の方から、情報を与えてくれたことが嬉しかった。少しだけ心を開いてくれたような気がする。

小走りで胡桃美に追いつくと、自然と口から声が出た。

「柴咲さんって空手してたんだね」

「そうだよ」

 ぶっきらぼうな物言い。またも、奈々は嫌われているんじゃないかと不安になる。でも、胡桃美と仲良くなりたくて、声を出し続けた。

「だからあんなに強いんだね」

「あいつが弱いだけ」

「え、でも佐藤君、六年生の人に喧嘩で勝ったって言われてるよ」

「不意打ちでもしたんじゃないの? それを周りの金魚の糞が持ち上げてるだけだよ」

「え、そうなの?」

 奈々は「なんで金魚の糞なんだろう」と思いながら答えた。

「知らないけど。興味ないし、あんな木偶の坊」

「でく……の、ぼー?」

「デカいだけで何の役にも立たない奴のことだよ」

 奈々は、「へぇ~」と関心した声を上げた。

「柴咲さんって、難しい言葉知ってるんだね」

学校の校門に着いて、そのまま奈々が胡桃美に着いて行こうとしたところで、胡桃美は言った。

「別に難しくないし。てか、あんたんチ、こっちじゃないでしょ?」

 奈々から「あっ」と思い出したかのような声が漏れた。

「あんた、馬鹿なの?」

「もういいよ。回り道して帰るから」

「あっそ」

 胡桃美と奈々は、しばらく雑談をしながら歩いていると、胡桃美が突然公園の前で立ち止まった。

「またやってんだ」

 胡桃美がそうつぶやくと、奈々も公園の方へ目をやった。すると、虫取り網を持った二人の少年が、蝉取りをしている様子だった。一人は胡桃美達と同じくらいの年齢。もう一人は、幼稚園児くらい。

「あの兄弟、毎日この公園で遊んでるんだよね」

「そうなんだ」

「うん。てか、私ん家、そこだから」

 胡桃美は公園の向かい側の家を指さした。

「あ、結構、学校から近いんだね」

「うん。じゃあ、またね」

 そう言うと、胡桃美は直ぐに自宅に入っていった。

 奈々は胡桃美に「またね」って言われたことが無性に嬉しかった。嬉しくて、自然と頬が緩んでいく。

 公園の方に目を移すと、茜色に染まった夕焼けが、公園を駆け巡る二人の少年を照らしていた。汗で変色した彼らのTシャツは、昼間の蒸し暑さを感じさせた。

 踵を返し、奈々が来た道を戻ろうとしたとき、不意に幼く活気に満ちた声が聞こえてきた。

「お兄ちゃーん。そっちいたー?」

 仲が良いなぁ。私も柴咲さんと、あんな風に仲良くなれるかな?

 友達に、なりたいな……。

黒川崚馬2 自転車の稽古

翌日、放課後に自転車を取りに一旦家に帰り、亮太を幼稚園に迎えに行った。俺の姿、というよりは、補助輪付きの亮太専用自転車を発見した亮太は、全速力で俺の元へダッシュしてきた。

「そんなに早く走ったら……」と心配していたら、案の定、亮太は躓いて、前のめりに転倒した。しかし、直ぐに立ち上がり、泣きそうになるのを堪えながら、打ち付けた足の痛みに耐えながら、亮太は再び走り出した。そんな弟の健気さに笑みが零れる。

そして、何とか俺の元まで走り切った亮太は、目の前の自転車に目を輝かせる。どうやら、自転車のことで頭がいっぱいで、足を擦りむいたことに気が付いていないらしい。俺は、自転車から転倒することを見越して、ポケットに忍ばせておいた絆創膏を取り出した。

「亮太。ちょっとじっとしてな」

そういうと、亮太の足もとにしゃがみ込み、流血している膝に、絆創膏を貼った。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「嬉しいからって、無理しちゃダメだぞ」

「大丈夫だよ! 一発で乗れるようになるから」

 根拠のない自信は、相変わらずだ。補助輪がなかったら……。と思うと、心配で堪らない。

こんなときに、「俺に追いついてみろ」などと言えば、膝の傷一つでは済まないだろう。そうなると、後で激怒した母に夕食を抜きにされることは、目に見えている。

「お兄ちゃんだって、補助輪外すのに、一か月かかったんだぞ」

 確か一週間だった気がするが、長めに言っておかないと、張り合って無理することは分かりきっているので、あえてそう言った。それが功を奏し、弟の言葉は控えめだった。

「じゃあ、僕は三週間で外してやるーー!」

 これで、無理は避けられる。

 幼稚園の帰り道で練習させるのは、流石に危ないので、いつもの公園まで歩いて行った。その間、亮太専用自転車は、崚馬が持っていた。自転車を貸せと、強請りまくる弟が、道端で乗り出すことは明らかだったからだ。浮かれた幼稚園児は、目を離すと何をしでかすか分からない。そんな亮太に、自転車を渡せるはずもない。
公園に着くと、崚馬と同学年くらいの女の子が二人、木の下のベンチで談笑をしていた。先客である彼女らに迷惑がかからないように、なんとか亮太を落ち着かせたい。そう思っている間に、亮太の強請りも最高潮に達した。半ば、取り上げるかのように、兄から自分の自転車を奪い取った亮太の機嫌は、かつてないほど良好だった。早速、自転車にまたがった亮太は、ペダルに足をかけ、自転車を発進させた。自転車をとられた時点で、こうなることを予想していた崚馬は、しっかりと自転車の荷台を掴み、亮太のフォローに回っていた。

「一人で乗れるって!」

 亮太がふてくされたように、不平を兄に投げかける。それでも手を離さない兄に、亮太はさらにもう一声かけた。

「離してよ!」

「ダメだ! まだちゃんと乗れないだろ」

 崚馬は、駄々をこねる弟に、毅然とした態度で言い放つ。

すると、以外にもあっさり折れた。どうやら、自分が思っていた以上にハンドルの扱いに苦戦しているらしい。こけることへの恐怖感が勝ったのだろう。

 公園内を一周すると、隣に住んでいるおばさんが犬を連れてやってきた。

「こんにちは~」

「あ、松坂のおばちゃんだ! こんにちは~」

 気さくな口調で、話しかけられ、崚馬もそれに応対した。

「あら、自転車のお稽古?」

「はい! 弟も、来年小学生なので」

 見知った顔なので、会話はすぐに弾んだ。

「あー! もうそんなになるのね。亮太君は、生まれた時から知ってるからねぇ。なんか、自分の息子のことみたいに感じるわね」

 地域社会の温かさがそこにはあった。高齢者や、小さい子ども持ちの家族が多いせいか、地域の住人の絆は、かなり強い。学校行事や、地域のボランティアにも進んで顔を出す家庭も多く、同学年の息子がいる家庭ならば、誰がどこの家の子どもなのか、多くの大人たちが把握していた。

 近所のおばさんと会話していると、亮太が「お兄ちゃん、まーだー?」と急かしてきたので、きりの良いところで会話を終わらせ、再び自転車の稽古を始めた。

 日が暮れ始めてきた頃には、亮太は兄の力を借りなくても、自由に自転車を乗りこなせるようになっていた。

腕時計を見てみると、門限も迫ってきていたので、家に帰るよう促すと、「えー、まだいいじゃん」という、予想通りの回答が返ってきた。ここで宥めるのは、至極大変である。このままでは母に怒られる。そう、肝を冷やした時に、公園に母の姿が現れた。亮太が自転車に乗る様が気になり、家事を済ませた後に様子を見に来たのだろう。

「随分乗れるようになってるじゃない」

 自転車に夢中になっている亮太は、母の声が聞こえてきて初めて、その存在に気付いたようだ。

「あ、お母さんだ!」

 母の登場により、一層やる気を増した亮太が、「見ててね!」という具合で、勢い良く自転車をこぎ始めた。高揚した気分を押されきれないまま、一直線に自転車を走らせるものだから、みるみるうちにスピードが上がっていく。広美と崚馬が危険を感じた時には、もう遅かった。

 ブレーキを掛けることもなく、曲がり角に差し掛かった亮太は、うまくハンドルを切ることが出来ず、目の前のフェンスに激突してしまった。その衝撃で自転車が横転する。その一部始終を見た、広美と崚馬が同時に亮太に駆け出した。幸いにも怪我はしていなかった。兄と母に、心配そうに見つめられながら、亮太は涙でにじませた瞳で言った。

「泣いてないよ」

 涙を堪えているのがよくわかる。そんな亮太を母があやす。

「強くなったね。もう、小学生になるんだもんね」

 母に褒められたのが嬉しかったのか、潤んだ瞳で笑う弟が、いつも以上に愛らしかった。

「じゃあ、もうそろそろ帰るか」

 亮太の機嫌が良くなったことにかこつけて、崚馬は言った。亮太は、駄々をこねず承諾した。

沈みゆく太陽が作り出す、三つの長い人影と一つの自転車の影。蝉の鳴き声に、何処からともなく漂ってくる蚊取り線香の香り。

母は何を思ったのか、突然『赤とんぼ』を歌い始めた。崚馬が音楽の授業で、今散々うたわされている童謡だ。崚馬が幼稚園の時も、こうして母と手を繋ぎながら、歌を歌ったことを思い出して、少し照れくさくなる。

亮太は、母に続き歌い始めたが、全く音程が取れていない。母と弟が下手な合唱を繰り広げる中、崚馬は自転車を引いて自宅への道を歩いた。

柴崎胡桃美2 佐藤の八つ当たり

胡桃美が佐藤を殴り飛びした次の日、奈々が学校に登校すると、何故か自分の机の周りに人だかりができていた。何だろう。胸騒ぎがしてくる。怖いもの見たさと、見て見ぬふりをしたい気持ちの葛藤。自分の席に近づくにつれ、高まって行く胸の鼓動。不安が内臓の中を駆け巡り、心なしか吐き気も感じる。
でも……。見てしまった。自分の席に置かれた、一輪の白い花が添えられた花瓶を。目の前には、悪魔の形相で自分を見下ろす佐藤の姿。

直観的に分かってしまった。理解せずにはいられなかった。受け入れたくない現実を。これから自分に起こる悲劇を。

 そうか。次にいじめの対象になったのは私なんだ。

 そう思った瞬間、奈々は気付けば走り出していた。教室を後にすると、胡桃美がまさに教室に入ろうとしていた。目は合ったが、逃げることに必死で、胡桃美を無視して、一心にトイレの方へ駆け出した。

 胡桃美は、奈々の異変に怪訝な表情を浮かべながら、教室に入った。その瞬間、胡桃美は全ての事情を察した。

奈々の席に周りに集まる男子生徒たち。その中には佐藤と坊主頭の姿。下品な笑い声を上げるその他の佐藤一派。そして……。

 奈々の席に置かれた、白い花が添えられた花瓶。

 胡桃美は、体内の血液が一気に脳へと上流していくのを感じた。胡桃美はその場に自分のランドセルを投げ出すと、ゆっくりと佐藤たちの元へ歩いて行った。

 ランドセルが地面に叩きつけられた音に気付いた佐藤は、胡桃美の方を振り返る。その瞬間に空手の構えを取る胡桃美。一気に佐藤との距離を詰め、佐藤の顔面に渾身の上段回し蹴りをくらわせた。

 打撃音が大きく教室内に響き渡る。それと同時に、教室にいる生徒全員の視線が胡桃美に向けられた。

 蹴り飛ばされた佐藤は尻餅をつき、頭をグラグラと揺らしている。どうやら脳天に響いたらしい。

そんな佐藤に、追い打ちをかけようとする胡桃美。しかし、佐藤一派がそれを止めようとしてきた。流石の胡桃美も、7人を相手にするのは厳しく、すぐに抑え込まれてしまった。

 胡桃美は、床に跪いている佐藤を睨み付けながら言った。

「このクズが!」

 それだけ言い残すと、取り押さえている佐藤の下僕たちを振りほどき、教室を出て行った。

 胡桃美の背中に不穏な視線を向ける佐藤。それから視線を放り投げられた赤いランドセルに移すと、佐藤は微かに微笑んだ。
胡桃美がトイレに行くと、一番奥の個室から鼻を啜る音が聞こえてた。

「光武」

 胡桃美が奈々の名前を呼ぶと、「柴咲さん……?」という応答が返ってきた。

「あのクソヤロー、蹴り飛ばしてやった」

「ありがとう……」

 嗚咽交じりに、奈々は礼を言った。

「あんたのためじゃないよ。あーゆークソヤロー見ると、殴り飛ばさないと気が済まないだけ」

 すると、微かに個室の中から笑い声が聞こえてきた。そして、ドアが開き、中から奈々が姿を現した。そして、奈々は微笑みかけながら、胡桃美に言った。

「優しいんだね、柴咲さんって」

 胡桃美は「フン」と鼻で笑い、踵を返した。

「私は教室に戻るよ」

すると、奈々から「待って」と呼び止められた。

「何?」

「ちゃんと礼を言わせてもらえないかな? 筆箱のこと」

 昨日、筆箱を佐藤から果敢にも奪い返した奈々の姿が思い出された。

「そういえば、必死に守ってたね。あの筆箱」

「うん、あの筆箱は、私にとっては宝物だから」

胡桃美は奈々の方を振り返り、奈々の話を聞く体制をと整えていた。

「お爺ちゃんに買ってもらったんだ。中にはお爺ちゃんが大事にしてた万年筆が入ってるの。お爺ちゃんは作家さんで、私、お爺ちゃんの書く文章が昔から大好きで、憧れて、私も作家さんになろうって決めたんだ」

 胡桃美は黙って聞いていた。

「お爺ちゃんが病気で、寝たっきりになった時に、私が『将来は私がお爺ちゃんの代わりに本書いてあげるね』って言ったら、お爺ちゃん、いつも枕元に置いてた万年筆を私に渡しながら言ったの。『奈々ならきっといい作家さんになれる。応援しとるぞ。今日からこの万年筆は奈々が使いなさい。その方がコイツも喜ぶ』って。その次の日にお爺ちゃんは亡くなった」

 胡桃美は、黙ったまま奈々の目を見つめていた。

「私にとって、あの筆箱は大切な宝物。だから、柴咲さんには、凄く感謝してる。本当にありがとう」

 胡桃美は、奈々に深々と頭を下げられ、もどかしくて、この場からさっさと抜け出したくなった。奈々が顔を上げると同時に、胡桃美は踵を返し、「早く教室戻らないと、遅刻扱いになるよ」とだけ言い残し、早歩きで教室へと向かっていった。

胡桃美と奈々が教室に戻ると、すでに朝の会が始まっていた。遅刻なので先生に軽く注意を受けた。座席につくと、胡桃美は床に放置したままだったはずの自分のランドセルが、机のホックにかかっている。誰かが持って来てくれたのかと思ってランドセルを開くと、一瞬でそうではないことに気が付いた。

教科書はズタズタに切断され、カビだらけのパンが入れられていた。筆箱を開くと、消しゴムは無くなり、全ての鉛筆の芯は折られ、二つに折られているものもあった。そんな筆箱の中には一枚の紙が挟まっていた。取り出して開いてみると、そこには汚い殴り書きで、こう書かれていた。

今日の放課後、一人で体育館裏に来い。

逃げたら、光武にもお前と同じことをするぞ。

 誰の仕業かなど、一目瞭然だ。二日に渡ってクラスメイトの前で恥をかかされ、プライドが傷つけられた佐藤が取る行動としては、自然なものだ。

 先ほど語られた、奈々の「宝物」が不意に胡桃美の脳裏に過ぎる。

 はっきり言って、奈々の筆箱と万年筆がどうなろうが私には関係ない。あいつにとっては宝物かもしれないが、私にとっては何処にでもある、ただの筆箱と万年筆だ。

胡桃美が自身に言い聞かせたことは、「私があのクソヤローから逃げるのが気に食わないだけ」であった。言い訳がましい自分の屁理屈に、もどかしさを感じつつ、胡桃美は佐藤と戦う決意を固めた。

放課後、胡桃美が窓を眺めていると、昨日と同じように奈々の顔がこちらを向いている。胡桃美は奈々の方に顔を向けて言った。

「悪いけど、今日は一緒に帰んないよ」

「どうして?」

「用事があるから」

「また空手?」

「アンタには関係ない。じゃあね」

 奈々を乱暴な口調で突っぱねたのに、「じゃあ、下駄箱まで」と言って追ってくる。

 下駄箱に着き、靴を履き替え、体育館に向かおうとすると、奈々に声をかけられる。

「あれ、そっち?」

 ここで、胡桃美は気付いた。

 しまった。奈々の家の方角は、体育館の方角と同じだった。

「昨日の稽古で、体育館に忘れ物したから」

「それなら、取りに行ってる間、私待っとくよ」

 とっさに下手な嘘をついてしまった、自分の馬鹿さを恥じた。

「用事って、それだけ?」

「まぁね」

「じゃあ、一緒に帰ろうよ!」

 一泊置いて、胡桃美は奈々に言った。

「うるさいなぁ! いちいちストーカーみたいについてくんなよ!」

 つい怒鳴ってしまった。咄嗟に言い訳が出てこないからって、こんなやり方しかできない自分を恥じる。なんで私ってこんな伝え方しかできないんだろう……。

 言ってしまったからには後にも引けず、胡桃美はその場を駆け出した。

 一人残された奈々は、走り去る胡桃美の背中をじっと眺める事しか出来なかった。

 体育館裏に着くと、すでに佐藤とその下僕たち六人が待ち構えていた。佐藤と相対した胡桃美は背負っているランドセルを手に持ち、カバーを開けてひっくり返した。中からはズタズタにされた教科書や、真っ二つに折られた鉛筆、カビパンやゴミが雪崩落ちる。次々に地面に落ちる、胡桃美の持ち物を見ながら、佐藤は笑みを浮かべている。

「これやったのお前だろ?」

「だったらどうした?」

 胡桃美は、数秒佐藤を睨み付けると、空っぽになったランドセルを投げ捨て、一直線に佐藤に向かって行った。そんな胡桃美の前に立ちはだかる六人の下僕たち。彼らを前にし、胡桃美は生唾を呑み込んだ。

 胡桃美と別れた奈々は、この後胡桃美に何が起こるのか何となく予測が付いていた。二日に渡って佐藤に暴力を奮って、佐藤が仕返しを考えないはずがない。いくら柴咲さんが強いと言っても、佐藤とその周りにいる仲間達をまとめて相手にして、無事で済むわけがない。それに、佐藤のことだから絶対汚い手を使って、柴咲さんをいじめるはず。

 胡桃美の安否が心配で、居ても立っても居られなくなった奈々は、体育館の方へと足を運んだ。

佐藤の下僕、六人に襲い掛かられた胡桃美は、一人一人に正拳突きや回し蹴りを喰らわせていく。全ての打撃は、相手の急所に命中しており、一発で彼らの戦意を喪失させた。そして残るは佐藤のみとなった。

 佐藤は、想像以上の胡桃美の強さに圧倒され、周りの下僕たちをキョロキョロと見回していた。胡桃美はその隙をつき、一気に佐藤の大きな体躯へと迫る。走り出した勢いに乗せて、胡桃美は佐藤に足払いをかけた。

 足払いをかけられた佐藤は、見事なまでに横転し、その上に胡桃美が圧し掛かった。そして、佐藤の顔面にラッシュの嵐を浴びせていく。下僕たちはその様子を、茫然と見ていることしかできなかった。

 佐藤は鼻血を垂らし、顔は痣だらけ。涙目になりながら「もうやめてくれ」と懇願してきた。奈々が体育館裏に到着したのは丁度その時である。

 見るも無残な姿になった佐藤を見て、胡桃美は振り上げた拳を止めた。そんな佐藤に向かて、胡桃美は叫んだ。

「奈々の筆箱に手を出したら殺すぞ!」

 胡桃美の叫びに対し、佐藤は細々とした情けない声で助けを求めた。

「もうあいつをいじめたりしないから、助けて下さい」

 すると胡桃美は佐藤から離れ「さっさと消えろ、このクズが!」と一喝した。

 その光景を目に焼き付けた奈々は、いつの間にか涙を流していた。佐藤たちが逃げるようにその場を去った時、胡桃美は踵を返した。すると目の前には、帰ったと思い込んでいた奈々の姿がある。

 胡桃美は、奈々を見ても動揺することもなく、地面に落ちたランドセルを拾い上げながら言った。

「あんた、帰ったんじゃなかったんだ」

「心配になったから」

「私が、あんな奴らに負けるわけないじゃん」

「そうだよね」

 すると奈々は地面に散乱した、ズタズタになった教科書や、折られた鉛筆に目を移した。

「もしかして、それ、佐藤君たちに?」

「あいつらしかこんなことやる奴いないよね」

「なんか、私のせいで、ごめんね。こんなことに巻き込んで」

「何言ってんの? あんた」

 申し訳なさを示す奈々を見ていると、心が何故かざわついた。

「私が気に入らないから、アイツらぶん殴っただけって言ってるじゃん。私が巻いた種なんだから、私の自業自得だよ」

 相変わらず大人びた言葉遣いするなと思う奈々。でも、言っている意味は理解できた。

 柴咲さんはそう言ってるけど、私はちゃんと聞いてたよ。佐藤君に「奈々の筆箱に手を出したら殺すぞ」って言ってくれてたの。私の「宝物」を守るために戦ってたくれたんだよね?

 柴咲さんってもしかしてかなりの照れ屋さんなのかな?

 そう考えると、なんだか笑みがこみ上げてきた。そんな奈々に気付いた胡桃美は、奈々をチラっと見ると歩き出した。

「私もう帰るから。あんたはどうすんの?」

 またついてくるかどうか聞いているのだろう。

「一緒に帰っていい?」

「勝手にすれば」

 予想通りの返答だった。

胡桃美の家の前まで着くと、あの兄弟が公園に入る途中だった 。今日は兄が弟の自転車の練習に付き合っているようだ。補助についている兄に、弟がギャーギャーと文句を言っている声が聞こえてきて、微笑ましい。

 奈々は、胡桃美に公園のベンチに座ることを促されたので、それに従った。どうやら何か話したいことがあるようだ。

 ベンチに座ると、胡桃美は直ぐに話し始めた。

「あんた、作家になるのが夢なんだよね?」

「うん」

「なんか自分の作品書いてたりするの?」

「日記なら……」

「日記かよ。あんた、作文とかでよく表彰されてんだから、エッセイとか書けばいいじゃん」

「エッセイって?」

「自分の意見とかを、自由に書いてるものだよ。口じゃまともに意見言えないクセして文才だけは無駄にある、あんたみたいな奴に向いてんじゃない?」

 明らかに貶されている。でも、不思議と悪い気はしなかった。応援しようとしてくれているのが、何となくその口調から伝わって来たから。

「あんたの宝物で書けばいいだろ。そのためにあんたの爺ちゃんは、万年筆をあんたにあげるたんじゃないの?」

「そうだけど……」

「意気地なしかよ。死んだ爺ちゃんがどんな気持ちで万年筆を、あんたに託したと思ってんの?」

 目の前に、補助輪付きの自転車を乗り回す男の子が、楽しそうに走り去って行った。それにしても、今日の柴咲さんは良く喋るな。

「私は、その気持ちを汲んで……」

 そこまで言うと、胡桃美は余計なことを言ったといった具合で、そっぽを向き、黙り込んだ。その姿を見て、奈々は「やっぱりそうだったんだ」と思った。

「ねぇ、柴咲さん」

「何?」

 呼びかけても胡桃美がそっぽを向き続けている。

「こっち向いてよ」

 すると、胡桃美の顔がこちらを向いた。目が合うと同時に、奈々は言った。

「ありがとう」

 奈々に感謝の言葉をかけられると、胡桃美は目を丸くした。少しだけ照れているのも、顔色から伺える。仏頂面でさえなければ、結構綺麗な顔してるんだなと、奈々は思った。

「だから、あんたのためじゃないって言ってるだろ!」

 胡桃美は顔を紅潮させて、早口でまくしたてた。

「前にもいったろ。あーゆークソヤローは、ぶん殴らないと気が済まないんだよ。弱い奴ばっか寄ってたかっていじめて、大将気取り。ただの卑怯なでくの坊のクセに。ぶっ殺したくなる」

 やっぱり今日は口数が多いなと、奈々は思う。

 胡桃美がまたもそっぽを向くと、胡桃美の目線の先に女性の姿があった。何やら手を振っている。多分、自転車の練習をしている兄弟のお母さんなのだろう。

 その人は、口の前に両手で作った円を当てて、大きな声で言った。

「随分乗れるようになってるじゃない!」

 母の存在に気付いた弟は、良い所を見せようと思ったのか、自転車の速度を一気に上げた。猛スピードで直進する自転車は、どんどんフェンスとの距離を縮めていく。まだブレーキを上手くかけられない弟は、そのままフェンスに激突し、転倒してしまった。母と兄が心配そうに、弟の元へ駆けつける。

 すると、弟は立ち上がり、自転車を起き上がらせた。その様子を見て、無事を確認した胡桃美は、「私、そろそろ帰る」と言って、家の方へ歩いて行った。それに奈々も続いた。

 胡桃美の家に着いて、奈々とサヨナラの挨拶を交わした時、あの兄弟と母親が胡桃美の家の前を通った。偶然にも胡桃美と兄の目が合う。

胡桃美は無視するのも感じ悪いと思ったので、お辞儀だけ交わして家の扉を開けた。

黒川崚馬3 憧れのランドセル

三月中旬。亮太の卒園も近くなってきたので、その祝いに母がランドセルを買うということで、俺もランドセル選びに付き合った。その誘いを受けた、亮太の目がランランと輝いたのは言うまでもないだろう。

 ランドセル買いに選んだのは、近所のイオンだった。アニメのキャラクターの絵画を背景に「新入生! 入学、おめでとう!」という、ド派手な看板のおかげで、ランドセル売り場を直ぐに見つけることができた。周りに文房具や机なども置かれていることから、新入生への配慮が伺える。しかも、ランドセルと一緒に購入した商品は、定価の八十%の価格で買えるというおまけつきだ。ランドセルに目を輝かせる亮太の傍ら、その掲示に飛びついたのは当然広美だ。獲物を捕らえる鷹のような鋭い目つきになった広美に、俺は少し驚いた。専業主婦の腕の見せ所ということだろう。

「ついでに、文房具も揃えちゃおうかしら」

 スーパーのセール商品のチラシを眺めるときと、全く同じ笑みを浮かべている。

その間、亮太はランドセルの選定を始めていた。昔は赤と黒の二色しかないのが、当たり前であったが、今はそうではない。青色やシルバー、さらには黒と青や黒と赤などのコンビ色まで見られる。しかも、同じ赤でも、ピンクから濃い赤まで3種類ほどのバラエティ、その他の色でも同じことがいえた。これほど、ランドセルがバラエディに富めば、もはやファッションの域だ。

ランドセルは、基本的に小学校6年間通して使うものだが、高学年になり、ファッションに興味を持つようになれば、その日の服装に合わせて、ランドセルの色を変える子どもがいてもおかしくはない。現に崚馬のクラスには、兄弟のランドセルを使い分けている生徒も存在した。現代の小学生にとって、ランドセル選びは、入学前に直面する最大の難関の一つと言ってもいいのかもしれない。

「う~ん……」

 案の定、亮太は青のランドセルにするか、青と黒の縞模様にするか、シルバーにするか絶賛悩み中である。どれも、6年間使っても恥ずかしくない色だけに、崚馬自身も口を出しにくい。ここで蛍光色を選ぼうものなら、後で後悔するからやめておけと、引き止めるものだが。

「亮太はランドセル決まったの?」

 ここで、お得な掲示板に釘付けだった広美登場である。

「これと、これと、これで迷ってる」

 亮太は、先ほど目前で唸り声をあげていた三つを指さした。そんな亮太に母は画期的な提案した。

「ならジャンケンで決めるわよ」

 亮太は意味をつかみ損ねているのか、大きな目を見開いて母を見つめた。

「亮太が勝ったら青。お母さんが勝ったら縞々。あいこだったらシルバー」

 なるほど、そういうことか。母の咄嗟の発想には、しばしば驚かされることがある。どうやら、亮太もその提案に賛成らしい。亮太の頷きとともに、広美がジャンケンを開始の合図をする。

「最初はグー。ジャ~ンケ~ンポン!」

 結果は、亮太の勝ちだった。

「はい、じゃあ青ね」

 そう言って青いランドセルを持っていくと、どうやら縞模様のランドセルが名残惜しくなったらしい。

「待って! やっぱり、こっちがいい」

「もう変えるのは無しよ。本当にこれでいいの?」

 すると、亮太は強く頷いたので、ランドセル選びも無事終了した。

サイズの合わせ方などは崚馬のときに経験積みであったため、慣れた手つきでベルトの長さを合わせ、亮太にからわせた。サイズもお気に召したらしく、亮太の機嫌がさらに良くなるのを感じた。これで今日の買い物の第一段階が終わったと言える。

第二段階とはもちろん、文房具品だ。亮太に文房具品を買うことを示唆すると、かなり大きく見えるランドセルを背負いながら、小走りで母に着いていった。

 今回まず亮太の目に止まったのは、妖怪をモチーフにした人気アニメのキャラクターがプリントされた筆箱と鉛筆、消しゴムだった。こちらは一切迷うこともなく、すぐに選び終えた。

 余程ランドセルを買ってもらえたのが嬉しかったのか、亮太は会計を終えてもランドセルを手放すことはなかった。

ランドセルと文房具一式を買い揃え、亮太はかなり満足げだった。帰り道、車の中で小学校に入学した後の妄想話が始まった。

「小学生になったら、僕は運動会のかけっこで一番になって~、毎日友達とサッカーとかして~、で、成績もクラス一になるんだ~」

 この妄想の中に、普段崚馬から聞いている、学校での話が繁栄されていることは明らかだ。それにしても、友達と遊ぶことだけではなく、勉強に対する意欲を示したところは感心する。

そうはいっても亮太の妄想話を聞いていた広美が「崚馬も、少しは見習ったら~?」とダメ出ししてきたのは、耳が痛い話だったが……。

 学校のことを和気藹々と話しながら、一家を乗せた車は、実家に到着した。

余程ランドセルが気に入ったのか、亮太は車から降りた瞬間、ランドセルを背負い出した。玄関の前に立ち、扉を開けるとそこには父、龍一の姿があった。久しぶりに家族全員での一家団欒だ。

 父とご飯を食べるのがあまりに久しぶり過ぎて、亮太は少し緊張しているようだ。あれだけ、龍一とご飯を食べることを待ち望んでいたと言うのに。そんな亮太に気付いたのか、龍一はまず亮太に話しかけた。

「亮太、学校はどうだ?」

 すると、家族全員が「ん?」という表情をしている。その空気を感じ取った龍一は、「どうした?」と取り繕う。どうやら本気で亮太が学校に通っていると勘違いしているようだ。そんな龍一に、崚馬が素っ気なく答えた。

「亮太はまだ幼稚園だけど」

 「あっ」といった顔をする龍一を、妻である広美がからかう。

「ちょっと、もう~。しっかりしてくださいよぉ」

「すまんすまん。ランドセル背負って帰ってきたもんだから、つい間違えちまったよ」

 父のボケが一家に笑いを届けたところで、再び団欒が始まった。

「そっか~、それにしても亮太も、もう小学生になるのか。ランドセル、似合ってたぞ」

 父にそう言われた亮太は、照れながらも笑顔は抑えきれないと言った様子だ。

「ところで、自転車の調子はどうなんだ?」

 龍一は、さらに亮太に向かって問いかけた。

「もう乗れるよ。幼稚園でね、『僕自転車乗れるよ』って言ったら皆、びっくりしてたんだ。僕しか乗れないみたい!」

 そんなことはないだろう。と心の中で崚馬は思った。

「そっか、亮太が自転車に乗れるようになって、父さんも嬉しいぞ! ありがとな、崚馬」

「別にいいけど……」

 久しぶりの父だというのに、突然褒められると、少し照れる。その後も、団欒は続き、龍一は、崚馬、亮太とテレビゲームを夜まで楽しみ、二人を寝かしつけた。

柴崎胡桃美3 胡桃美の事情

佐藤グループを胡桃美が退治してから、奈々が嫌がらせを受けることもなくなった。それからというもの、奈々は胡桃美の追っかけと化していた。

 授業でペアになる時も、帰る時も、何をするにも、ことあるごとに柴咲さん、柴咲さんとうるさい。10月くらいからは「胡桃美ちゃん」と呼ばれるようになり、一月辺りからは調子に乗って「クルちゃん」などと呼び始めて、なおウザったい。三月となった今では、「クルちゃん」呼ばわりにもすっかり慣れてしまった。

 佐藤たちをぶちのめしたその日から、奈々は胡桃美の言いつけ通りに、エッセイや小説を書き始め、胡桃美は朝読書の時間に奈々の新作を読むことが日課となっていた。たまに明らかに胡桃美のこととしか思えないような描写もあって、恥ずかしくて読んでいられない時も多々あった。

 奈々の作品を読んでいて、やはり奈々は相当な才能の持ち主だと思う。自分には絶対真似できないような文章センスに感性、途切れることのないネタの豊富さ。奈々の日記もこれだけのクオリティーなのかと思ったら、少し読んで見たくなる。プライベートなことなので、深追いはしないが。

 放課後になるといつものように奈々と一緒に帰るわけだが、校門に差し掛かったところで、胡桃美は突然表情を強張らせた。原因は、校門の傍に立っている一人の男。赤い髪を逆立て、ドス黒い紫色のTシャツを着ている、まるでチンピラのようなその男に釘付けになっていた。

 異変に気付いた奈々は、胡桃美に声をかけた。

「どうしたの?」

 ハッとなった胡桃美は慌てて返答する。

「奈々、私ちょっと用事があるから、もう帰って」

 そういうと、胡桃美は速足で校門へ向かって行った。いや、校門というよりは、校門の傍に立っている男へ駆け出していた。

 明らかに普通ではない雰囲気を醸し出しているその人物に、奈々は直観的に恐怖を感じていた。さらに、胡桃美の先ほどの反応も相まって、奈々の不安は強まる一方であった。

 胡桃美はその男と少しだけ話すと、直ぐに一緒に歩いて行った。向かった方向が家の方角と東にずれていたから、奈々は誘拐をまず初めに疑った。

放って置けなかった。自分の宝物を守るために戦ってくれた胡桃美が、危険な目に遭いそうなっていることを、黙って見過ごすことなんて出来るわけがない。奈々は、胡桃美とチンピラ男を尾行する決意を固めた。

尾行を続けていると、胡桃美たちはオンボロなアパートに入って行った。部屋の前まで来たのは良いが、どうしても突入する勇気が湧いてこない。数分間、扉の前でウジウジしていると、突然女性に、気品のある声で話しかけられた。

「どうしたの?」

 振り返ってみるとそこには、フォーマルな格好をした、女性が立っていた。さっきの男のような怪しい雰囲気はない。しかし、友人が変な男に攫われ、その尾行をしている状況が、奈々の警戒心を極端に強めた。

こんな格好して、もしこの人があの男の味方だったら……。それなら、この先に、この人を行かせるわけにはいかない。今度は私が柴咲さんを守る!

「何でもないです!」

 奈々は毅然とした態度で女性に言った。すると女性は、腰を下ろし、奈々と目線を合わせながら、宥めるように言った。

「そんなに警戒しなくても大丈夫。胡桃美のお友達?」

 女性の丁寧な姿勢は、一瞬にして奈々の警戒を緩めた。

「はい。柴咲さんが怖い人に連れていかれて……」

 気が動転して、言葉が上手くまとまらなかった。

「それで、胡桃美のためにここまできてくれたの?」

 奈々は大きく頷いた。

「ありがとう。怖かったね。私は、胡桃美の母の百恵っていうの。後は私に任せて、あなたは先にお帰りなさい」

 百恵の優しい言葉の響きに、奈々は徐々に落ち着きを取り戻した。

「柴咲さんが無事かどうか確かめないと、帰りたくありません」

 すると、百恵は奈々の気持ちを受け止めて、言った。

「そう、ごめんね。その気持ちに気付いてあげられなくて。それなら、ここで少しだけ待っててね」

 そう言うと、百恵は部屋の扉を開けた。

その瞬間! 奈々は見てしまった。

中の光景を見た百恵は、直ぐに奈々の目を塞ぎ、中の様子を見えないように扉を閉めた。

 ほんの一瞬でも、見えてしまった。裸になった胡桃美の上に馬乗りになっている、チンピラ男の姿が。何をしているのかまでは理解できなかったが、何か恐ろしいことをされていることは、胡桃美の表情を見れば一瞬で想像がついた。

 部屋の外で一人となった奈々の身体が小刻みに震え始める。震えを抑えるのに必死で、全く身動きがとれない。自分を助けてくれた胡桃美を、今度は私が助ける。そんな決意も、唐突に現れた現実を前に、呆気なく崩れ去った。

部屋の中は、不気味なほど静かだった。ほんの数分で、百恵は部屋から出てきた。そのわきには、やつれたか弱い少女が一人。奈々は一瞬、目を疑った。目が合ってようやく気付いた。その少女は、自分の宝物を守るために佐藤と戦った、勇敢なクラスメイトと同一人物。あの「柴咲胡桃美」なのだと。

 沈黙が数秒流れる。先に言葉を発したのは胡桃美であった。

「また、着いてきたの?」

「柴咲さんが心配だったから」

「あんたが来たところで、できることなんて何もないじゃん」

 あまりにも的を射た発言に、奈々は言葉を失った。百恵はそんな奈々を気遣う。

「胡桃美。他に言うべき言葉があるんじゃないの?」

「だって、実際何かできた? 何にもできない奴が危険なとこに行っても、無駄な犠牲じゃん!」

 奈々を責める胡桃美を、百恵は落ち着いた口調で宥める。

「確かに、結果的にはこの子は傷ついただけかもしれない。でも、まずはあなたを助けようとしたこの子の気持ちをちゃんと受け入れてあげなさい」

 胡桃美が無言になると、百恵は奈々の方に目を移し、優しく語り掛けた。

「ごめんね、この子はただ、あなたを危険な目に合わせたくなかっただけだから、自分を責めちゃだめよ」

 奈々は小さく頷いた。そして胡桃美の方へ目をやったが、俯いているため目が合わない。その後、奈々は百恵の車に乗せてもらい自宅まで送ってもらったが、この時胡桃美は一言も言葉を発しなかった。

その次の日、奈々は風邪で学校を休んだ。胡桃美は、確実に昨日のことが原因なのだと感じていた。いつも「柴咲さん」と連呼してくる、隣の席の人間がいなくなると、一人で取り残されたような感覚になる。いつも読まされていた、奈々の文章も渡されなくなり、少し退屈だ。三十人いる教室の中から、たった一人いないだけで、こんなにも空気が変わるものなのだろうか。

 奈々のいない、静かな授業も終わり、一人で帰っていると、見覚えのある男子生徒が歩いているのを見た。毎日見ているシルエットであるため、後ろ姿だけでも、その人物が誰であるか、はっきりと判別できる。間違いなく、いつも公園で遊んでいる子だ。胡桃美は思い切って話しかけてみることにした。

「ねぇ」

 こちらから話しかけるのに慣れていないため、どうしてもどもってしまう。すると自分かな。と言いたげな表情をしながら、その男の子は振り向いた。

「君、いつも私の家の前の公園で遊んでるよね? 弟と一緒に」

「そうだね。この前、友達とベンチで話してたよね?」

 男の子は一瞬思い出すような素振りを見せてから、答えた。

「覚えてたんだ」

「うん、何となく」

「今日は弟と一緒じゃないの?」

「今から迎えにいくところ」

「そうなんだ。君、学校は?」

「大竹宮小だけど」

「あ、大竹宮の方なんだ」

 大竹宮小は、胡桃美が通う緑島小学校から約40分歩いたところにある。元々、大竹宮小学校の学区に住む子供は皆、緑島小学校に通っていたが、緑島小学校の生徒人数が増えすぎて、学区を分けるために新たに大竹宮小学校を建てたのである。

「柴咲さんは緑島だよね?」

 不意に名前を呼ばれて、驚きの表情をかくせなかった。

「うん。てか、私の名前まで覚えてたんだ」

「そりゃ、毎日あそこの公園行ってたら、目の前の家の名前くらい覚えるよ」

「それもそうか」

「うん」

 一瞬の沈黙。会話を繋ぐ言葉が出てこない。どうしよう……。

 と思っていたら、そんな気持ちを察したかのように、男の子は会話を繋いだ。

「ところで、空手か何かしてるの?」

「してる」

「やっぱりね。いつも道着姿で家から出て行くの見てたから」

 胡桃美は、週に三回、空手の道場に通っていた。空手の話題を出してくれたのは良いが、良い返答が思いつかない。別に空手やろうと思ったのも特に理由とかないし、大会で優勝したことはあるが、それを言うとなんか自慢っぽくて嫌だ。

 すると、またも男の子が会話を繋ぐ。

「空手って楽しそうだよね~。俺の友達もやってるんだけど」

「え、そうなの?」

「そいつ女子なんだけど、いっつも男子に混ざってサッカーとかしてるし、しかも男子とよく喧嘩してる」

「あ、それ私だ」

 いつもの公園に差し掛かった。自宅はもうすぐそこだ。

「それで、相手泣かすの?」

「もちろん」

「うわ、空手女こえ~」

「五、六人くらいならまとめて倒せる」

「それは、強すぎ……」

 驚きを超えて、唖然とされてしまった。そして、この会話で、ちょうど胡桃美の家の前に来たので、これでお別れだ。最後に、大事なことを聞くのを忘れていたことに、胡桃美は気付いた。

「ねぇ、君、名前は?」

「黒川崚馬。崚馬で良いよ。柴咲さんって下の名前は?」

「胡桃美」

「オッケー。じゃあまたね~」

 そういうと、胡桃美は玄関の扉を開けた。

翌日、奈々は登校してきたが、気を遣ったのか、胡桃美の父親の話題には一切触れなかった。本人が思い出したくなかっただけかもしれないが。何はともあれ、毎日のように「クルちゃん」と呼ばれ、追っかけ回され、朝読書の時間には、奈々の作品を読まされる毎日に、心なしか安堵している自分が確かにいた。

 放課後になると、いつものように一緒に帰るわけだが、下駄箱に差し掛かったあたりで、胡桃美は、思い出したかのように昨日のことを話した。

「あ、そういえば、昨日、いつも私ん家の前の公園で遊んでる子の、兄貴の方と話したよ」

「え、そうなの?」

「うん、弟迎えに行く途中に見かけたから、私が声かけたの」

「へー、クルちゃんでも、自分から声かけること、あるんだ」

「どういう意味だよ」

 胡桃美は声のトーンを低くして、問い詰めた。悪気はないようだが、奈々の言葉にはどこか嫌味が込められている気がする。

「そのままの意味だよ」

 まぁ、たしかに、何であの時崚馬に声をかけたのかは分からない。普通なら間違いなく自分から声などかけない。しかも男子ならなおさら。毎日のように見ていたからか、それとも何か惹きつけられるものでもあったのか、あの時は自然と崚馬に話しかけてしまった。

 公園の前に着くと、やっぱりいつものように、例の兄弟が楽しそうに遊んでいた。弟の方は、真新しいランドセルを背負っていた。

胡桃美に気付いた崚馬は、気さくに手を振って来たので、胡桃美も手を振って応答した。胡桃美と奈々は、崚馬達の元へ行くと、弟の方が不思議そうな顔をして崚馬に言った。

「誰、この人?」

「俺の友達。公園の目の前の家に住んでる柴咲さん」

「ふーん、こっちは?」

 次に、弟は奈々の方を指差して言った。崚馬は奈々の顔を見ながら、何と説明すればいいか、考えている様子だ。自分が話した方が良いと判断した奈々が、自己紹介を始める。

「あ、私、柴咲さんの友達の光武奈々って言います」

「ふーん」

「おいおい、挨拶ぐらいしろよ。名前は?」

 「だから何?」とでも言いたげな弟の反応を崚馬が正す。すると、弟はそわそわと緊張している様子を示しながら、話し始めた。

「黒川亮太です。五歳です」

 その様子を見て、崚馬は笑みをこぼした。「よくできたな」といいながら、崚馬は亮太の頭を撫でた。そして、奈々と向き直り言った。

「よろしく、光武さん」

「よろしくお願いします」

「柴咲さんは、昨日ぶり」

「そだね」

「今日は空手の稽古はないの?」

 やはり、会話を繋ぐのは崚馬だ。

「あるよ」

「そっか、じゃあすぐ行かないといけないのかな?」

「まぁね」

 ほんの少しの沈黙。崚馬の後ろには弟の亮太がこびりついている。この光景だけで、いかに亮太が兄を信頼しきっているのかが分かる。

 崚馬はそんな弟の頭を優しく撫でながら、胡桃美に言った。

「稽古、行かなくていいの?」

「行くよ。顔見せに来ただけだし」

 胡桃美のこのツンケンした態度が、実は親しみの現れであることを、奈々は良く知っている。

「そうなんだ。会いに来てくれてありがとう」

「うん、じゃあまた」

 少し照れくさそうな表情を浮かべながら、胡桃美は踵を返すと、奈々の方へ視線を移し、「私、そろそろ空手行くわ」と言った。

「あ、じゃあ、私もそろそろ帰る」

 そう言うと、奈々は黒川兄弟にお辞儀をして、胡桃美に着いて行った。

 胡桃美の家の前まで来ると、さよならの挨拶だけ交わし、二人は別れた。

一人になった奈々が、公園の方へ目を移すと、あの兄弟が相変わらず仲良く遊んでいた。胡桃美と親しげに話す崚馬が少し羨ましかった。たったの二日で、私はクルちゃんとあんなに仲良く話すことは出来なかった。そもそもクルちゃんの方から、私に話しかける事なんて、あり得なかった。いつも、冷たい態度を取られて、邪魔者扱いされたことだってある。

私がいつも助けられてばっかりだったからかな。理由もなしにクルちゃんは、私に対して迷惑そうな素振りを見せないけど、実は私が付きまとったり、私の作品を読ませたりすることを、迷惑に思っていたのかな。

 自分以外の人と、胡桃美が仲良くしているのを見て、奈々はどうしてもモヤモヤした感覚を抑えきれないでいた。

 家に帰り、道着に着替えている間、胡桃美は崚馬のことを考えていた。会話を繋ぐのは常に崚馬で、胡桃美は応答。だが、それが胡桃美にとっては心地よかった。

 放課後、あの兄弟が、家の目の前の公園で遊ぶことが当たり前になって、私はどこか羨ましさを感じていた。私も、あんな風に公園で友達と遊びたい。本当は、毎日学校のグラウンドで体を動かしたかった。

 「くだらない」とか「群れたくない」とか言って、自分を誤魔化していたが、それは単に自分の気持ちに嘘をついていただけだった。どうやってクラスメイトと距離を取ればいいのか分からない。本当は、皆の輪の中に入りたいのに。孤立なんかしたくないのに。そんな自分から目を背けていただけ。

いつしか、それは一匹狼である自分の正当化に変わっていた。周りと調和することを諦めた胡桃美は、一人でも強くあることに固執した。

「私は他の人とは違う! 私は一人でも強い。だから友達なんて必要ない」

それが、他人に対する突き放すような態度に繋がっていた。胡桃美は、そのことにとっくの昔に気付いていたのである。だからこそ、毎日のように自宅の前の公園で、幸せそうに遊ぶ兄弟が、一層輝いて見えていた。

それでも「一匹狼でもいいんだ。私は私なんだ」と思えるようになったときに現れたのが奈々だった。まさか、たった一回、いじめから救っただけで、こんなにも付きまとわれることになるなんて。胡桃美は、奈々と一緒に帰り始めて、友達ができた喜びを確かに感じていた。しかし、「一人で強くありたい」という気持ちが、喜びを素直に表現することを邪魔していた。とはいえ、自分をいつも慕ってくれる奈々には、確かに感謝をしている。だからこそ胡桃美は、奈々をイジメから救ったのだ。

 自分の友達と言える人が、一人ずつ増えていく喜びを噛みしめながら、胡桃美は道場に向かって行った。

黒川崚馬4 亀裂

ランドセル背負い、小学校入学を恰好だけフライングさせた亮太は、幼稚園では人気者だったという。帰り道、そんなご機嫌な亮太が、嬉しそうに奈々達と遊んだ感想を言った。

「今日のおねぇちゃん好き!」

 おぉ、何という直球……。

「二人とも?」

 すると、亮太は首を振りながら言った。

「ううん。優しい方」

優しい方とは、恐らく奈々のことを言っているのだろう。

「もう一人の方は? ほら、一昨日もあった」

すると、亮太は俯きながら一言。

「怖い」

崚馬はその一言に吹き出してしまった。この場に胡桃美がいなくて良かった、とほっと一安心。確かに、崚馬から見ても、胡桃美の狼のような吊り上がった目つきに、自信満々なあの雰囲気は若干怖かった。失礼なことを言ってしまったら、正拳突きをお見舞いされそうで……。しかも、男子を何人も相手にして、全員返り討ちにするなんて怖すぎる。

胡桃美と奈々の話に飽きた亮太は、今度はブタンメンが食べたいなどと、駄々をこね始めた。ブタンメンとは、子ども向けのカップ麺の一つで、カレー味と、とんこつ味があるが、カレー味にはなかなか出くわせない。

あまり亮太を甘やかすと、母にゲームを取り上げられてしまうから嫌なのだが、可愛い弟に強く言えなくて、いつも振り回されてしまう。

仕方がないから、近くのスーパーまで亮太を連れていくことにした。スーパーでは確実に亮太と手を繋いで離さないようにしなければならない。そうでもしなければ、やれミニモンパンだ、やれポコポココミックだとちょろちょろちょろちょろ動き回って、目を離したすきに迷子になってしまう。

 亮太と共にブタンメンを探していると、突然亮太が歓喜の声を上げた。どうやら、カレー味のブタンメンが目についたらしい。しかも、運がいいことに在庫が二つあった。これは流石に崚馬も欲しい。一旦亮太の手を放し、ブタンメンカレー味を二つ手に取り、一つを亮太に渡すと、再び崚馬は亮太と手を繋いだ。

崚馬が弟を連れて、レジに行こうとしたら、なんと人参を買っている母、広美を目撃した。どうせ、あのおっちょこちょいの母親のことだから、昼間に人参を買い忘れたことに、料理の工程の最中に気が付いたといったオチだろう。

 どうやら広美も、お互いにブタンメン片手に手を繋ぐ息子たちを見つけたようだ。二人に向かって手を振り、こっちにこいと手でジェスチャーした。

 崚馬は、促されたとおりに母の元へ歩いて行った。そして、母は嬉しい言葉を二人に言った。

「あら、珍しくブタンメンのカレー味があったのね。貸して。今日はお母さんが奢ってあげる」

 そう。何故か母は、とんこつ味のブタンメンは毎月の小遣いから出せと言うのだが、カレー味だと、珍しいからという謎の理由で奢ってくれるのだ。月に一個くらいしかお目にかかれないラッキーアイテムでもあるので、何となくお得に感じるのだろうか。まぁ、とにかくカレー味のブタンメンが二つも手に入った上に、母との偶然の出会い。どうやら今日はかなりついているらしい。亮太は、買ってもらったブタンメンを丁寧にランドセルの中に押し込んだ。

 帰りは母の車に乗って帰ることもできた。とはいえ、家から徒歩五分のスーパー。他に買うものがあるなら分かるが、たった人参を一袋買うために、車というのはどうかと崚馬は思う。少しくらいは運動しないと、毎年太くなり続けるウエストに歯止めをかけることは出来ない。体重計が風呂場から消えたのはいつからだったろうか。

家に帰りつくと、車庫に車を止め玄関へ向かうと、家の前に黒いワゴンが止まっているのに気が付いた。窓は車の内部が見えないように、黒塗りにされている。明らかに怪しい。広美は、その車が家に用がないことを祈りながら、玄関のカギを開けた。

すると、物騒な面立ちの男が二人、車の中から顔を出した。一人はガタイがよく黒スーツにサングラス。まるで、とある探偵漫画にでてくる組織の幹部を思わせる格好だ。もう一人はダメージーンズに骸骨の刺繍入りの黒いパーカー。真っ赤な髪を逆立て、耳や口には無数のピアスが着けられていた。こちらは、夜の街をうろつくチンピラのような男だ。明らかに二人とも、まともに話が通じる相手ではない。

 逃げるように、息子たちを家へ押し込み、玄関に鍵をかけようとすると、スーツの男がそれを邪魔した。

「ここ、黒川さんチで間違いないな?」

 関西弁のイントネーションが、広美の恐怖を際立たせる。

「ちょっと、あがらしもらうで」

 スーツの男に続いて、チンピラ男も家へ上がり込む。

「ちょっと、何なんですか!?」

 引き止める広美を無視して、二人は土足でズカズカと家の中に入り込んできた。

「ところで、龍一さんは、おらんの?」

「主人に何の用ですか!?」

広美は怯える子どもたちに、「ちょっと、奥に入ってなさい」と言い聞かせ、無理やりリビングへ向かわせた。

「期限過ぎてんねや。せやからこっちから取り立てに来とんねん」

「期限!? 期限って何の話ですか?」

 震える声を、精一杯張り上げて言った。そうしなければ、男たちの威圧感に負けて、ここから逃げ出しそうだったからだ。

「あんた、何も知らへんの? 貸した金の話やで」

 動揺しているとはいえ、今思い出せる限りの記憶では、龍一がお金を借りている話など、聞いたことがない。

「お金!? 主人はお金なんて、誰にも借りてません!!」

「あぁ、確かに借りてへん。借りてんのは、あんたの主人の親や」

「何で主人の両親の借金をウチが……」

「あんた、連帯保証人て知っとるか?」

 その言葉を聞いて広美は背筋が凍るほどの思いをした。

「ご存じのようやなぁ。あんたのご主人、自分の父親の借金の連帯保証人になっとんねん。で、その父親が金払わへんから、こっちに取り立てに来たっちゅう話や。ホレ」

 そう言って乱暴に投げ捨てられた紙を拾い上げて見てみると、借用書と書かれた紙の連帯保証人の欄に、確かに夫の名前と押印が確認できた。

そんな話を聞いたことがなかったため、広美はその場で膝の力を失ったかのように崩れ落ちた。

 保証人には二つの意味がある。普通保証人と連帯保証人だ。普通保証人とは、借金を取り立てられれば、先に借りた本人に請求してくれという権利を持っている。これを催告の抗弁権という。さらにそれに加えて、分別の利益というものがある。これは、例えば債務者が一千万円の借金を抱えていた時、普通保証人が二人いた場合、保証人は二分の一の五百万までしか支払わなくてもよくなる。三人いれば三分の一。四人いれば四分の一だ。

 しかし、連帯保証人になると、これらの権利を持たない。つまり、支払いを請求されても、「先に借りた人間に取り立てろ!」と追い返すことができない。さらに、保証人が何人いても、それが連帯保証人である限りは、全額支払う義務を負う。

 簡潔にまとめれば、普通保証人よりも連帯保証人の方が、圧倒的に重い責任を負うということだ。そして、その重い責任を請け負ったのが、崚馬の父、龍一ということになる。広美がスーツの男の言葉を聞いて、戦慄した理由はそこにあったのだ。

広美は今、かつてないほどの恐怖と絶望を味わっていた。なぜなら非常事態にも関わらず、意に反して、冷静な分析が脳内で繰り広げられていたからだ。それは、現状を正確に理解させ、これからの先の生活の危機をリアルに想像させた。

もし、連帯保証人という話が本当なら、先に債務者から取り立てろなどとは言えない。それ以上に気になるのは、龍一の父親が持つ負債額だ。その額によっては、確実にこの家は破綻する。さらに、どう考えても全うなところから借りた金ではない。この手の連中は、どんな手を使っても、金を支払わせるはずだ。それも法外な利子をつけて。

「さて、ワシら、あんたと話にきたんとちゃうねん。あんたの主人。はよ出さんかい」

「主人は、まだ仕事です!」

 それは事実だった。しかし、相手はそんな話を聞き入れるような人間ではない。

「なら、本当かどうか、試させてもらおうやないかい」

 そういうと、スーツの男はリビングの扉に手をかけた。息子二人が避難している場所でもある。

「ちょっと待って!」

 立ち上がりながら言い放った広美の声は、男のドスの効いた声により掻き消された。

「あんたと話すことない言うとんじゃか、やかましいやっちゃのぅ。おい、その女しばいたれ」

 そう命令されたチンピラ男は、広美を壁に押さえつけた。

「あんまり、抵抗しない方が、身のためだぜ」

 息子たちの名前を叫ぼうとしたが、口を塞がれているため上手く声が出せない。広美の精一杯の抵抗も、チンピラ男の力の前に捩じ伏せられた。

 広美にリビングに追いやられた崚馬と亮太は、台所の先にある裏口から外へ出ようとしていた。逃げるためではない。助けを呼びに行くためだ。幸いにも、崚馬が暮らしている町は、地域間の絆が極めて強い。故に電話で警察を呼ぶよりは、お隣さんへ助けを求めた方がよっぽど効率的だ。そう考えた崚馬は、一秒でも早く家の外へ出ようとしていた。

 しかし、裏口から逃げようとするときに、思わぬアクシデントが起きた。裏口の扉は玄関程広くなく、開いた状態で固定できないため、開けると同時に手を離せば、扉は直ぐにこちらに迫ってくる仕組みになっている。

俺は、安全のためまず亮太を外に出そうとしたのだが、ランドセルを背負った状態で外へ出ようとしたため、ランドセルが閉まるドアに引っ掛かり、身動きできない状態になってしまった。大人であれば簡単に開け閉めできる扉であるが、子どもにとって、それはかなり難儀な仕事になる。ドアの端の部分を持てれば、てこの原理により多少作業は簡単になるが、弟のランドセルが邪魔をして、端の部分に手が届かない。仕方がないから、ドアの真ん中あたりを両手で押すことで、なんとか亮太を自由にすることができた。

 しかし、亮太を逃がすのに手間取っていたその一瞬の時間は、スーツの男が台所へ忍び寄るまでの猶予を与えてしまった。崚馬を見つけたスーツの男は、自身が放つ不気味な眼光をサングラスで覆い隠しながら、ノシノシと怪物のように崚馬に近づいた。

背後から聞こえる足音に気付いた崚馬は、振り向くと、全身の血の気が消え失せるかのような感覚に襲われた。

「なるほど、父親はこっから逃げたんやな。姑息なやっちゃのう」

 あくまで龍一は家にいたと思い込んでいるスーツ男は、龍一を見つけられないことへの苛立ちを崚馬にぶつけた。

「貴様の親父は、金も払わんと、息子ほっぽりだして、トンヅラかいな? 薄情な親父持つと、息子は大変やなぁ。え?」

 クラスの男子と喧嘩したときも、先生に叱られたときも、これほどの威圧感を感じたことはなかった。殺気ともいえるほどの、禍々しい空気を発するスーツ男に、慄き、足の震えが止まらない。

スーツ男は、金縛りにあったかのように硬直した状態の崚馬に接近し、静かに頭の上に手を乗せながら言った。

「親父がケジメつけへんなら、息子にケジメつけてもらうしか、あらへんなぁ」

 スーツ男は、崚馬の胸倉を掴み、手を振り上げた。同時に、崚馬は咄嗟に目を閉じ、顔を背ける。

 家の外へ脱出することに成功した亮太は、ランドセルを背負いながら、一心不乱に走っていた。今のスピードなら、小学生に交じってでも、間違いなくかけっこで一等がとれるだろう。そんな亮太が向かった先は、隣の家だ。ジャンプすることで背伸びをしても足りない分の身長差を補い、インターホンを押した。「は~い」という声とともに、先日、犬の散歩をしていた松坂が顔を出す。

「あら、亮太君じゃないの!?」

 訴えかける前に涙が零れ落ち、上手く言葉を絞り出せない。そんな亮太から何かを察知した松坂は、亮太に目線を合わせるためにしゃがみ込みながら言った。

「ん? お兄ちゃんと喧嘩でもしたのかな?」

 首を振る亮太に向かって、さらに質問を投げかける。

「何でもいいから、おばちゃんに話してごらん」

 そう言われたことで、ようやく第一声をひねり出すことに成功した。

「助けて……」

「どうしたの?」

「怖い人が……ウチに……」

「怖い人? 空き巣かね? そりゃ大変だ! おばちゃんも一緒に行くから。さ! おいで!」

 松坂は、亮太の手を握り急いで黒川家へ向かった。裏口に行ってほしいという、亮太の指示で、玄関に行かず、真っ直ぐ裏口へと進んだ。そして、裏口を進み、扉を開けたとき、松坂は自分の目を疑った。

崚馬は、スーツの男に胸倉を掴まれた状態で持ち上げられたため、首が閉まり今にも窒息しかけていた。水泳の授業のときによくやる、潜水我慢比べのときに感じる苦しみの比ではない。そこには、確かな『死』の感触を感じられた。

 スーツ男の手を必死に掻き毟り、何とか手を放そうとするが、小学生の力では、大人の力に勝てるはずがない。激しく抵抗したことで、大量の息を消費してしまい、窒息すれすれの状態である。そんな崚馬を甚振るかのように、手の力を強めたり弱めたりしている。人が苦しむ様を見て、快楽を感じているかのようだ。

呼吸する術を失い、全身に酸素が行き渡らなくなった崚馬の意識は、もはや限界に近づきつつあった。そんなときに、扉を開ける音とともに、背後から聞きなれた声が、二つ、聞こえてきた。

「何してるんですか!」

「お兄ちゃん!」

 酸欠で意識が覚束ない状態の中で、崚馬は確かに声の主の正体を突き止めた。松坂のおばちゃんと亮太だ。

 その声と同時に、酸素が体中を巡るのを感じた。叫び声とも言える声量で放たれた二人の声に、スーツ男は怯み、おもわず手を放したのだろう。

 床に跪き、咳き込む崚馬に、二人が駆け寄る。

「オヤジがいねぇんじゃ、しゃあないのぅ。また来るわ。そう腰抜けのオヤジに伝えときぃ」

 肩に置かれた、亮太と松坂の手の震えから、二人の怯えが伝わってくる。崚馬は、怯える気持ちを抑えつけてまで、自分を助けに来てくれた二人の勇気に、今は感謝する以外の選択を持ち合わせていなかった。

「お母さんは!」

 声を震わせながら、必死に松坂は崚馬に問いかける。崚馬は、まだまともに声が出ないため、指で答えを示した。

「上がらせてもらうわね」

 そう言うと、松坂は玄関のほうへ向かった。崚馬と亮太は、お互いに身を寄せ合い、怯え続けることしかできなかった。

「おい、ズラかるぞ」

「へい!」

玄関へ足を運んだ松坂は、スーツ男とチンピラ男を警戒しながら、外に出ていく様子を見ていた。家から出るのを確認すると、床に生気を失ったかのようにへたり込んでいる広美に駆け寄った。

「広美さん! 大丈夫!?」

 動悸がこちらまで聞こえ来るのではないか。そう思わせるほど、広美は恐怖で身を震わせていた。

「大……丈夫……」

 単語ひとつ、まともに繋ぎ止められないその様が、言葉と心身のギャップを示していた。

「何があったの!?」

「何でも……ないんです……」

「そんなわけないでしょう!」

「大丈夫です……ご迷惑を……おかけしました」

「……」

松坂は、広美自身が大丈夫と言っている以上、家庭の事情にこれ以上関与するのは出過ぎた行いだと判断し、もう問い詰めることはなかった。しかし、こんな状態の広美を放っておくわけにもいかず、しばらく寄り添う意思を示したが「大丈夫」の一点張りで、半ば追い出されるかのように、松坂は黒川家を後にした。

松坂が自宅へ向かってから数分後、崚馬と亮太が疲弊しきった様子で、母のもとへたどり着いた。母はそんな二人を抱きしめ、「大丈夫だから」と繰り返していた。まるで、それ以外の言葉を、忘れ去ったかのように。

 そして、広美と息子たちは、死んだようにその場で眠りについた。

ほんの少しの間、仮眠を取ったおかげで、広美の精神力も随分回復した。いまだに眠りについている息子たちを玄関に放置するわけにもいかないので、抱きかかえて自室のベッドまで連れて行った。そして、今回の事件の中心人物である、夫、龍一から詳細を聞くべく、帰りを待つことにした。

  龍一が帰宅したのは、十時半だった。だいたいいつも、この時間に帰ってくる。いつもと違うことといえば、家に電気が灯っていないことだった。風邪を引いても、熱があっても、必ず家に明かりを付け、夫の帰りを待つ広美の習慣をよく知っているからこそ、嫌な予感が浮上した。しかし、広美も人間なのだから、早く寝たい時もあるだろうと、特に気にも止めずに玄関の扉を開いた。

 龍一は玄関を開けると同時に、嫌な予感は確信に変わった。広美は寝てなどいなかった。ただ、ぼんやりと、リビングの椅子に腰かけ、抜け殻のような状態で、テーブルを見つめていた。そんな広美に声をかけるのが躊躇われ、しばらく呆然としていると、広美のほうから語りかけてきた。

「どういうこと?」

 と、聞かれても、何の話をしているのか龍一には見当もつかない。

「今日ヤクザみたいな人たちが、乗り込んできたわ。あなたが、あなたのお父さんの借金の連帯保証人になってるって」

 龍一は、全身の血の気が失せていくのを感じた。一瞬にして青ざめたその表情から、広美への返答が放たれることはなかった。

「答えてよ」

 責め立てるような広美の声が引き金となり、反射的に言った。

「た、確かに、親父の保証人にはなった。しかし何でうちに……」

「あなたが、連帯保証人になってるからよ」

「それでも、先に親父のほうへ行くはずだし、こちらに取り立てに来ても、親父に支払いを押し付けられるはず……」

 龍一の弁明に、広美は深いため息をついた。

「何にも知らないのね」

 全く抑揚のない声で放たれた言葉に、龍一は暗く不気味な響きを感じざるを得なかった。

「連帯保証人って、その権利を失うのよ」

 「え!」という情けない声が漏れたと同時に、龍一の膝が震え始めた。どうやら、一家がおかれた状況をようやく理解したらしい。

「あなた、何にも知らないで、保証人なんてなったのね」

 その言葉に、返す言葉はなかった。

「とにかく、あなたの家庭の問題だから。そっちはそっちで対処してよね。息子たちを危険に晒すようなことは止めて」

 そう言うと、広美はノロノロと寝室へ向かっていった。

 広美の姿が見えなくなってなお、冷酷とも言えるほどの口調で放たれた広美の言葉が、脳内で反響し続けていた。まるで、黒川家の絆に生じた亀裂に、連続的な衝撃を加え続けるかのように。

柴崎胡桃美4 公園から消えた笑い声

放課後、崚馬達と公園で遊ぶ初めてから三日目。いつものように奈々と一緒に、公園に行くと、相変わらず崚馬と亮太が楽しそうに遊んでいた。だが、胡桃美は感覚的に気付いた。一見すると元気に遊んでいる兄弟の光景がそこにはあるが、僅かに兄の崚馬の活気がいつもよりない気がする。毎日二人の様子を見ている、胡桃美だからこそ気付くことである。

「おーい!」

 まずは胡桃美が二人に声をかけた。すると、こちらに気付いた亮太が、奈々を目がけて一直線に走り、奈々に抱きついた。この兄弟と遊ぶようになってから三日でこれだ。もはや、見慣れた光景である。

とりあえず奈々には亮太の相手をしてもらい、胡桃美は崚馬の方へ歩み寄った。すると、崚馬は「よ!」と手を挙げて、挨拶をしてくる。胡桃美も軽くそれに応じ、一緒にベンチに座った。会話の先手を切るのはいつも崚馬だ。

「亮太、毎日奈々ちゃんに会えるの楽しみしてる」

「ふーん。私の話は出ないんだ」

 すると、崚馬はどもってしまった。そんな崚馬に、胡桃美は追い打ちをかける。

「あ! やっぱ、私は無視なんだな? 全っ然懐かないし、嫌われてんのかって思うよね、ホント」

 すると、崚馬は言い辛そうに口を開く。

「ま、まぁ。『あのおねぇちゃん、怖い』とは言ってるね……」

「やっぱり」

 胡桃美は腕を組んで「あのヤロウ」と小さく悪態を吐いた。

「ごめん、ごめん。別に悪気はないんだよ、亮太にも」

「あっそ」

 そう言うと、胡桃美はそっぽを向いた。やれやれ、という具合で胡桃美を見る崚馬。すると胡桃美は、公園の先にある自分の家を見ながら、言った。

「ところで、あんた。今日体調悪いの?」

 胡桃美は、崚馬の驚きの表情を浮かべていることを、背中で感じていた。

「なんで?」

 急に核心を突かれた崚馬は、動揺を隠せずに言った。さらに、このタイミングで胡桃美が振り返り、目を合わせてくるものだから、崚馬の動揺はさらに加速した。

「なんとなく。家の方から見てて、元気なさそうだった」

 すると、崚馬は急に俯き、考え込む素振りをした。

「やっぱ、なんかあったんだろ?」

 黙り込む崚馬。その崚馬を中心に、重い空気漂い始める。そんな崚馬を、真っ直ぐに見つめる胡桃美。それとは対照的に、笑い声を上げながら活発に遊ぶ、奈々と亮太。公園内の世界が、完全に二つに分断された。

 そんな状況で、崚馬は重たい口を開く。

「実は、昨日……」

 胡桃美は崚馬を一心に見つめている。自分でも不思議なくらい、今、崚馬の話に耳を傾けようとしている。その気持ちは、胡桃美の瞳を介して崚馬にストレートに伝わったようだ。

 一瞬言うかどうか迷った崚馬は、胡桃美の真剣な眼差しに誘われるかのように言った。

「ヤクザみたいな人が家に押しかけてきた」

 驚きはしたが、あまり衝撃を受けなかった。父親に受けた仕打ちが、胡桃美の脳裏に浮かぶ。大人が誰かを傷つけることなど、胡桃美にとっては大して珍しいことなどではなかったのだ。

「暴力とか、されたの?」

 またも、崚馬の核心を突く胡桃美。崚馬は静かに頷き、呟くように言った。

「殺されかけた」

 心なしか声が震えている。思い出すだけで、恐怖心が蘇ってくるのだろう。胡桃美も、これ以上はやめた方が良いと、直観的に判断した。

「私もね、父親に、五日くらい前に、性的虐待を受けた」

 これには、崚馬も驚き、目を丸くした。

「自分のことしか考えない大人は、平気で子どもを傷つけ、お金儲けの道具にするの」

 崚馬の顔が少しずつ青ざめていく。崚馬は、驚愕や恐怖、感情の波に飲み込まれた哀れな少年と化していた。

「例え、それが自分の子供であっても」

 胡桃美が言った言葉は、これから先自分に起こる「何か」を予言しているような響きを帯びていて、崚馬は身の毛もよだつような戦慄を体感していた。

「だから私は、自分の身は自分で守るって決めた。大人なんか信じちゃいけない。あんたも、自分の身を守りたいんなら、強くなるしかないんだよ」

 崚馬は、ついに黙りこくってしまった。

目の前には、相変わらず楽しそうに走り回っている、奈々と亮太の姿。

 日も沈み始め、冷たい風が崚馬の髪を揺らした。空は茜色に染まり、そろそろ帰宅する時間だと告げていた。

 崚馬は無言でベンチから立ち上がり、亮太の名前を呼んだ。

「もうそろそろ帰る時間だよ」

 奈々と遊んでいた亮太は「はーい」と、声のトーンを下げて言った。

「奈々ちゃん、ありがとう」

「ううん。私も楽しかったよ。じゃあまたね」

「うん、また」

 そう言うと、崚馬は弟と手を繋ぎ、公園を後にした。胡桃美は、ベンチに座ったまま、二人の姿から伸びる影をジッと見続けていた。

 翌日の放課後、いつものように胡桃美と奈々は公園に向かったが、そこには誰もいなかった。その光景を見て、胡桃美の表情は曇る。

 昨日、崚馬と話した内容を思い返すと、崚馬の身に何が起きたのか、リアルに想像できてしまう自分の経験を恨めしく思った。本当かどうかも分からないのに、想像に歯止めが利かない。汚い大人が、子どもを利用する、光景が次々に脳内に映し出される。そして、あの言葉。

「自分のことしか考えない大人は、平気で子どもを傷つけ、お金儲けの道具にするの」

 昨日の自分の言葉が、頭の中で鈍く響いた。私の父親が、まさにそうだった。

胡桃美の父親が我が子を攫った理由は「お金」だった。かつては会社を起こし、大成功を収めたが、胡桃美が小学生に上がるころに倒産。多額の借金を背負い、弁護士である母が、家族の生活を支えていた。

一時とはいえ、成功を経験した人間が、急に破産することになれば、そう簡単に現状を受け入れられるものではない。挫折の後に来るのは敗北者としてのレッテル、元社員からの非難。自己破産をしたとしても、失敗し会社に貢献してくれた人たちを裏切ってしまったという罪悪感。それらからくる苦悩は、胡桃美の父の精神が許容できる範囲を、著しく超えていた。結果として、倒産のショックから立ち直れず、酒に溺れ、さらにはDVを繰り返すようになり、それに耐えかねた母は離婚を決意した。

しかし、戸籍上、娘との関係性は切れていないことを良いことに、胡桃美を攫い、性的虐待を加えた挙句、母である百恵に対しては身代金まで要求してきた。

大人なんて、自分の都合のために、子どもを利用するんだ。崚馬の家に押しかけたヤクザだってそうだろう。弱い立場の子供を痛めつけて、自分の欲を満たそうとするんだ。

崚馬を苦しめた、顔も知らないヤクザに対し、胡桃美は敵意を露わにしていた。そんな胡桃美に気付いた奈々が声をかける。

「クルちゃん、どうかした?」

「別に、なんでもないないよ。多分、あの兄弟のどっちかが、風邪でも引いたんでしょ。私、道場あるから、もう家に帰るね」

 一方的に別れを告げる胡桃美。実は、奈々も、胡桃美と同じことを懸念していた。あの日、亮太と遊んでいた時に、亮太がポツリと呟いた言葉。

「お家に、帰りたくない。お姉ちゃんの家に帰りたい」

あの時は、ただ単に亮太の愛情表現としか思っていなかった。いや、そう思いたかった。本当は、愛情表現なんかじゃなくて、助けを求めるような響きに近かった。それが気がかりだったから、そんなことはないと、自分を安心させたかっただけだ。あの言葉の裏には、それ以上の何かが隠されている。さっきの胡桃美の表情が、それを如実に物語っていた。

 なんでクルちゃんは、私に何も言ってくれないんだろう。佐藤君と戦ってくれたことも、お父さんのことも、今回のことも。なんで、そんなに一人で抱え込むんだろう。クルちゃんが強いことなんて、私だってよくわかってる。

でも……。でもね、クルちゃん……。クルちゃんが、苦しんでるって分かってるのに、何も教えてくれないと、すごく寂しい気持ちになるな。

私の存在って、何なんだろう……。って思う。

 翌日も、あの兄弟が公園に現れることはなかった。その次の日も。そのまた次の日も。学校の授業も終わり、春休みに突入してからも、公園に、あの元気な笑い声が木霊することはなかった。

黒川崚馬5 幸せとは小さなミスで崩壊するものだ

龍一の父、和夫は元々金遣いが荒く、借金に追われ、一度自己破産した経歴を持つため、銀行などのまともなところから金を借りることが不可能だった。それでも金を欲しがった和夫が、最後に手を出したのが闇金だ。しかし、和夫の支払い能力を懸念した闇金は、連帯保証人を要求。金に糸目を付けない和夫は、無理やり龍一を連帯保証人にさせた。

 当然、まともに働いていない和夫は、毎月の支払いもまともに出来ず、たりない金額を龍一が負担していた。龍一はその事実を、実家への仕送り程度にしか告げていなかった。

 和夫は、年を重ねると同時に、かつての過ちを悔いるようになり、倉庫などで働き始めたが、今までの不摂生が祟り、糖尿病を患った。

 病で床に伏したとなると、返済は滞る。そうなれば支払い義務は当然、連帯保証人である龍一が負うことになる。そのタイミングで、闇金関係者が黒川家を襲ったというわけだ。

 祖父が糖尿病で倒れた後、龍一が祖父の借金返済を余儀なくされたことで、一家の暮らしは途端に質素になった。広美は生活をなんとか支えるために、アルバイトをし始めた。そうなると、今までのように子どもたちに手が回らなくなり、家族内の会話も瞬く間に減った。それ以上に深刻なのは、夫婦間の関係だ。ほんの少しでも刺激を加えれば、完全に崩壊する建物のように、広美と龍一は張りつめた状態だった。

 そんな生活がさらに悪化したのは、ヤクザが家に乗り込んできた日から、十日が経った頃だった。ほんの二週間後には、亮太の卒園式を控えていたとき、和夫が他界した。同時に、父、龍一までも姿を消した。

 龍一は逃げたのだ。

自分の父の借金を支払いながら、生活を支えなければならないという現実から、逃げたのだ。

守るべき、家族を置いて。責任は残されたものに、投げやりにして。

龍一の失踪を知ったとき、崚馬はまず初めにそう思った。そう広美からも言われ続けたため、崚馬は自分自身の推測を信じて疑わなかった。

 さらに、父の裏切りから五日後。その日は借金の支払い日だった。その日に再び闇金は、黒川家を襲った。

 広美がアルバイトで、家を留守にしているとき、崚馬と亮太が家で遊んでいたときに、闇金は来た。

「邪魔するで~」

 あの時と同じ、二人組が家に入り込んできた。鍵は閉めていたはずなのに何故?

「龍一さんいる~」

 あの時と同じ、関西弁のイントネーション。そして、相変わらず土足のまま玄関に上がり込む。スーツ男が部屋に侵入すると、声を震わせながら崚馬は言った。

「鍵……。閉めてたはずなのに……」

 闇金に襲われて以来、崚馬の施錠の意識は異常とも言えるものだった。崚馬が問いかけると、スーツ男はポケットから鍵束を取り出して言った。

「これ、な~んだ」

 取り出されたのは、確かに家の鍵だった。見覚えのある東京タワーのキーホルダーに車の鍵。間違いなく龍一の私物だ。

――なんで闇金がそんなものを……。

 このとき崚馬の考えは一つしかなかった。

――龍一は逃げただけでなく、家族まで売ったんだ。

 龍一に対する恨みが急速に膨張していくのを感じる。それに比べれば、目の前の闇金に対する怒りなど端数のようなものだ。

 そんな崚馬の心の内部構造もスーツ男から吐き出された言葉により、一気に変貌した。

「にしても、今度はガキども置いて逃げたんかいな、両親は。二人そろって薄情なやっちゃのう」

 スーツ男は何かを企んでいるかのような笑みを浮かながら、手にした龍一の鍵束を弄んでいる。そして、鍵束のリングに指を通し、鍵を振り回しながら崚馬たちに近づいて来た。

そんな、闇金たちに向かって、崚馬は震える足を押さえつけながら言った。

「お母さんは、逃げてない! 仕事に行ってるんだ!」

 亮太は、崚馬の後ろに隠れ、ガクガクと全身を震わせている。

「ほう、つまりしばらくは、帰って来んのやな?」

ゆっくりとスーツ男が、崚馬のもとへ迫って来る。スーツ男との距離が縮まるにつれて、あの時、殺されかけた記憶が蘇り、恐怖が全身を支配した。今、崚馬が正気を保っていられるのは、背中に亮太を守らなければならないという、強い意志があるからだ。亮太がいなければ、崚馬は間違いなく、この場で発狂していただろう。

「おいお前。そこの生意気なガキ、黙らせんかい」

 そう、スーツ男がチンピラ男に指示を出すと、チンピラ男は崚馬の鳩尾を殴り、崚馬は意識を奪ってしまった。

「これで、ギャーギャーやかましいハエも、大人しゅうなるやろ。さーて、お次はっと」

 舌を出しながら、不気味な笑みを浮かべて、亮太にスーツ男は近づいた。そして、ポケットからハンカチを取り出し、無理やり亮太の口に当てた。

 途端に亮太の意識は無くなった。
バイトから帰宅した広美は、床に俯せに横たわっている崚馬を見て、顔をしかめた。

「もう、こんなとこで寝て。風邪ひくでしょ。崚馬、崚……」

 広美が絶句したのは、崚馬を仰向けにしたときに、捲れた腹に、大きな痣があったからだ。

 まさかと思い、亮太の名を呼んでみたが、返事はない。もう一度、崚馬を揺さぶると、目を覚ました。広美は、間髪入れずに崚馬に言った。

「崚馬! 大丈夫?」

 虚ろな目をした崚馬は、力なく呟いた。

「お母さん……。ごめん……」

 崚馬の第一声が謝罪であったことが、広美の悪寒をさらに強まらせた。

「何があったか説明して!」

「また、あいつらが来て……。鍵、閉めてたはずなのに……」

 このとき、広美には何故、闇金が鍵を持っていたのか、想像がついていた。

「でも、あいつら、家に入ってきて……。それで……」

「それで、何?」

 広美は、生唾を呑み込みながら、崚馬に問いかけた。

「亮太が……」

 広美の膝に抱えられながら、崚馬は悔し涙を流し、その先の言葉を綴ることは出来なかった。しかし、亮太の名前が出た時点で、自分がいない間に、家で何が起きたのか、リアルに想像できた。広美は自身の膝の上で嗚咽を漏らし続ける崚馬を、撫で続けていた。崚馬の体の温もりは広美の不安をほんの少しだけ緩和する役割を果たしていた。

 

ポケットの中の携帯のバイブがなると同時に、崚馬を愛撫し続けていた広美の手が止まった。

ポケットから携帯を取り出し、液晶画面を確認すると非通知と出ていた。おそらく公衆電話から電話しているのだろう。

相手は分かっている。

『広美さん、御機嫌よう』

 電話越しから聞こえるおどけた声は、スーツ男のもので間違えない。

「どういうことですか? お金なら……、全額支払ったはず」

 この言葉を、広美の膝元で聞いたとき、崚馬は一つの疑問を感じていた。

 ――借金を払ったのに、何故父は消えた?

『何言ってんの、あんた。まだ、支払われてへんよ。そんなことより、期日は今日までのはずやけどな~』

「そんな! 夫との約束はどうなったんですか!?」

 崚馬はこの言葉も気になった。約束という言葉がきっかけで、父の鍵束を持つスーツ男の姿が想起された。裏で、闇金と父との間で、どんな交渉が行われていたのだろうか。

『しゃあないやろ。まだあんたの通帳に支払われてへんのやから。あんたの息子、返すんは、今月の支払い終えた後や。一度目やないからな~。利子も高くつくで~。今日中に百万、支払ってもらおうか』

 広美の携帯電話を握る力が強くなる。怒りで、拳が激しく震えているのが分かる。

『さもなければ、息子の命は、保証せんで』

電話口から放たれた抑揚のない声を聴いた瞬間、広美の顔は青ざめた。

「ちょっと待ってください、息子の命だけは!」

『ほな、待っとるで』

 一方的に切られた電話に向かって、何度も広美は「もしもし!」と叫んでいた。悲痛な表情で叫び続ける広美の姿に、崚馬は涙が止まらなくなった。

 この時の崚馬は心の中で、自責の念に支配されていた。亮太が連れ去られた現場にいて、何もできなかった。自分はただチンピラ男に殴られ、気絶していただけだ。途方もない虚無感が、崚馬を襲った。

 闇金から電話がかかってきたのは、午後十一時ごろ。そんな時間帯に、金融機関が稼働しているはずもなかった。闇金はそれが分かったうえで、広美に電話をしたのだ。明らかに、人を弄んでいる。

母曰く、借金は支払ったはずなのに、亮太を人質に、さらに借金の返済が遅れているという屁理屈を並べて、身代金まで要求した。人を不幸のどん底まで突き落とす、人外極まりない行為に、崚馬は、幼いながらも言葉では形容しがたいほどの怒りを感じていた。それと同時に、家族を窮地に追いやった当の本人は、夜逃げする始末だ。もはや、拡散する怒りをどこに向けるべきか、分からなくなっていた。

 そして、この日借金を返済する術はなく、翌日の朝、家のポストの中に、亮太の手から切り落とされた小指を入れたビニール袋が投函されているのを、母が発見した。

 その後、亮太の姿を見ることはなかった。まもなくして、母の心は完全に崩壊した。

柴崎胡桃美5 繋がりは次々に消えていく

三月下旬。茜色に染まった、誰もいない静かな公園のベンチに、胡桃美は座っていた。つい最近までは、毎日のように遊んでいた「二人」の姿が見れなくなったことに、心が慣れ始めてきた。それでも、この公園を見るたびに思い返してしまう。汗で変色した灰色のシャツをなびかせながら、蝉取り合戦をしていたあの二人を。自転車の練習中に、フェンスに激突し、涙を堪えていた弟を。初めて兄と会話した日のことを。そして、最後に二人の姿を見た、あの日のことを。

 私は、いつも「あの二人」を羨ましく思っていた。あんな風に一緒に笑い合って、遊べる友達が欲しかった。崚馬に話しかけ、奈々と四人で遊ぶ日々が楽しかった。恥ずかしくて表に出せなかったけど、毎日の放課後が待ち遠しかった。

 一度できた繋がりが、切れるのって……、こんなに寂しいものなのかな……。

 こんな気持ちになるくらいなら、友達なんか、作るんじゃなかった。崚馬なんかに、こっちから話しかけなければよかった。

一筋の涙が、胡桃美の頬を伝った。

胡桃美は、ベンチの上で体育座りをして、額を膝の上に置く。今日だけは、この悲しみに浸らせて欲しかった……。

暫くそうしていると、微かに自分を呼ぶ声がした。

「クルちゃん?」

 久しぶりの呼ばれ方。声の主は、直ぐに分かった。よりにもよって、なんでこのタイミングで、コイツが私の前に現れるんだ。

「何してるの?」

何してるの? じゃねぇよ。空気読めよ、馬鹿。

「大丈夫?」

 うるさいなぁ。鈍感かよコイツ。あぁ、鈍感だったか。

「もしかして、寝てる?」

「寝てねぇよ!」

 胡桃美は咄嗟に顔を振り上げた。すると、ベンチの横には、奈々がいた。

「うわ、起きた!?」

「いや、だから寝てねぇって!」

「あ、ごめん。だってベンチで蹲ってたから寝てると思っちゃった」

「何が楽しくて、家の目の前の公園のベンチで、蹲って寝るんだよ! 家で寝るわ!」

「あ、そっか」

「普通に考えて分かるだろ! 何のコントだよ、コレ」

 一瞬の沈黙。我ながら見事なスベり様。怪我しても退場できない、この状況を何とかして欲しい。いや、相手がコイツじゃ無理か。せめて、傷だけは抉らないで欲しい。

「ところで、何してたの。こんなとこで」

 あぁ、悉く触れられたくないところを付いてくるスタイルね。何の悪びれもなく傷を抉ってくるその間抜けさ。わざとだったらぶっ飛ばす。

「別に何も。そんなことより、何しに来たの?」

「あぁ、うん。ちょっとクルちゃんに話があって」

「何?」

 よく見れば、奈々は何やら袋をぶら下げている。まさか、学校終わってからの作品をまとめて読めとか言うんじゃないだろうな?

「私ね、実は五年生から、転校するんだ」

「え?」

 ちょっと待ってよ。いや、いくらなんでも、言うタイミングってあるだろ。さっきまで、あの兄弟に会えない寂しさに浸ってた人間に暴露する。それ?

「本当は、四年生になった時から分かってたことなんだけどね。でも、クルちゃんと仲良くなるにつれて、言い辛くなっちゃって。それでもう……。私、東京に出発するの。だから……」

 いや、何で、アンタが泣きそうになってんだよ。泣きたいのはこっちだっての。何、一方的に言いたいこと言って、別れようとしてんの?

 私だって、言いたいことは山ほどある。なのに、「言い辛かった」って何?

 どいつもこいつも、どうして私に、別れを惜しむ暇さえも与えてくれないの?

「私、クルちゃんへの気持ちを、文章にまとめてみたの」

 結局、奈々の文章を読まされることは的中していたが、そんなことはどうでもいい。

「だから、これを、受け取って欲しい」

 すると、手からぶら下げていた袋を、胡桃美に差し出した。

「ちょっと、待ってよ」

「え?」

 胡桃美は、奈々を睨みつけながら言った。

「アンタ、自分で、自分のこと、ズルいって思わないの?」

 奈々は、胡桃美の目を見ながら、黙りこくっている。目を見合わせている最中に、胡桃美の家の前に、一台の車が止まっていることに気が付いた。おそらく、奈々の家の車だろう。

「自分だけ、私に言いたいこと言って、私の言う番はないわけ!?」

「それは……」

 奈々は、胡桃美から目を反らし、後ろめたさを露わにしている。

「私だって、アンタに言いたいこと、山ほどあるんだから!!」

「なんで……?」

「言いたいことがあるのが、アンタだけだと思ったら大間違いだからな」

 いつの間にか、奈々の両親が車から降りてきている。

「私は……」

 ダメだ。さっき、感傷に浸ってたから、感情が抑えきれない。

「奈々と……」

 上手く声にならない。

「友達になれて……」

 咄嗟に胡桃美は後ろを振り返った。もう、抑えきれなかった。目から流れる涙を。奈々とも別れる寂しさを。抑えられるはずがなかった。

 すると、奈々の父親らしき人物の声が聞こえてきた。

「柴咲胡桃美さんだね?」

 胡桃美は、後ろを振り向けなかった。地面を濡らす大粒の涙と、鼻を啜る音はバレても、泣き顔を晒すことだけはしたくなかった。

「奈々から話はよく聞いています。いじめっ子から守ってくださったり、奈々の祖父の宝物のために戦ってくださったり。柴咲さんのおかげで、ウチの子はいつも楽しそうに学校へ行ってました」

 やめてよ。ズルいよ、こんなの。

「引っ込み思案で、友達も出来なかった奈々が、友達ができたとはしゃぐ姿を見て、私自身も安心できました。毎日のように、柴咲さんの話題は尽きませんでした」

 やめろって言ってるだろ。私が知ってる大人の男は、こんなことは言わない。

「ウチの娘と仲良くしてくださって」

 人を傷つけはしても、感謝なんかは絶対に……。

「本当に、ありがとうございました」

 奈々の父親が、胡桃美の背中に頭を下げるのと同時に、母と、奈々自身も深々と頭を下げた。そして、奈々はゆっくりと胡桃美の元へ、歩み寄る。

涙が滲んで、前もロクに見えない。そんな中、後ろから背中を叩かれた。振り返ると同時に、突然、正面から抱きつかれる。

「クルちゃん、今まで、本当にありがとう」

「私だって……」

 やっぱり、声にならない。それでも、伝えたい。これだけは。

「いつも。私の、傍に居てくれて……ありがとう」

 胡桃美の肩に乗せられた奈々の顎が上下に動く。

「私の、友達になってくれて、ありがとう」

 胡桃美は、奈々の腕の中で、初めて自分の本音を語った。今まで経験もしたことない、優しい感覚だった。

友達って、こんなにも暖かいんだ。ずっと、包まれていたい。この感覚を忘れたくない。一生、大事にしていたい。私にとっての、宝物だから。

 最後に胡桃美は、奈々から袋を受け取ると、そのまま両親とともに車に乗り込んでいった。

 家に帰ると、奈々から受け取った、袋を開けた。そこには1冊のノートがあった。胡桃美はノートを手に取ると、表紙のところに『柴咲さんへ』と書かれていた。

 まさかとは思うけど、このノート丸々、私へのメッセージじゃないだろうな?

 恐ろしいような、嬉しいような気持ちでノートをパラパラとめくると、やはり予想は的中していた。だけど、ノートに紙を張り付けた形跡がある。そうやら、自分が書いた日記をコピーして貼り付けているようだ。さらにその下には、一言コメントが書かれている。

4月5日

 あ~、いじめっ子で有名な佐藤君と一緒のクラスになってしまった……。

新しい学年でやって行けるか不安だよ~。誰か助けて~。

PS:でも実は、佐藤君以上に、柴咲さんの方が怖かったりする……。

初めの頃は、本当にクルちゃんが怖かった。常に他人を寄せ付けないようなオーラ出てたし、「絶対大人になったら、犯罪者になりそう」とか思ってた。ごめんね(笑)

5月16日

あ~、なんか佐藤君グループがどんどん大きくなってて、怖いよ~

いじめられないように大人しくしておこう。

PS:今日も柴咲さんは男の子と喧嘩して勝ったらしい。

クラスの喧嘩問題の大半(てか全部)は、佐藤君かクルちゃんだったね。

この時期は毎日、「佐藤君と柴咲さんに目を付けられませんように」って毎日祈りながら登校してた。

6月24日

ついに、柴咲さんと佐藤君が喧嘩したらしい。

やっぱり、佐藤君の方が強かったみたい。でも、柴咲さん一人相手に、佐藤君グループ全員で襲いかかったみたい。

柴咲さんは、佐藤君に負けて欲しくないな~。喧嘩しないのが一番なんだけど……。

この時期から、いつも一人なのに強いクルちゃんが、カッコよく見え始めた。

7月21日

明日から夏休み。何とか、佐藤君に目を付けられないで済んだぞ!

一学期が終わる頃には、クルちゃんのことが怖くなくなってた。

9月1日

二学期始まって早々、柴咲さんの隣の席になってしまった。

柴咲さんの方から喧嘩を仕掛けてるわけじゃないって分かっているけど、やっぱり柴咲さんの近くは怖い……。

ごめん、やっぱ怖かった(笑)

9月5日

うわ~~~~~。

ついに、佐藤君に目を付けられてしまった~。

でも、筆箱を取られそうになったのを、柴咲さんが助けてくれた。

佐藤君をやっつけた時の柴咲さん。すっごく、カッコよかったなぁ~。

でも、お礼を言ってもムスっとしてるし、一緒に帰った時も、突き放すような感じだったし。

やっぱり、柴咲さん……。怖い。

本当に、嫌われてるのかなって思ってた。でも、私、友達いなかったから。どうしても、クルちゃんと仲良くなりたかったんだよね。

 

9月6日

この日、私は確信しました!

ズバリ、柴咲さんは、実はものすごくいい人だと。

相変わらず怖いけど、私の宝物のために、一人で佐藤君グループと戦ってくれた。

ダメだ……。柴咲さん、カッコよすぎるよ……。

なんで、あんなにカッコいいんだろう?

どうすれば、柴咲さんみたいになれるんだろう?

私も、空手すれば、柴咲さんに近づけるかな?

私も、柴咲さんみたいになりたい!!

ねぇクルちゃん、今しかめっ面してるでしょ?

でも、この日からクルちゃんの追っかけと化したと思う、私。

PS:ちゃんと、自覚はあります。

10月9日

【宣言】

明日は、柴咲さんのことを、胡桃美ちゃんと呼ぼうと思います!

PS:柴咲さんの反応は「勝手にすれば?」だと予想。

ごめん。クルちゃんの反応ってだいたい「あっそ」か「勝手にすれば?」だから、予測して遊んでた。

 10月10日

 今日は胡桃美ちゃん記念日!

 初めて、柴咲さんを名前で呼んだ日!

 有言実行!!

 PS:胡桃美ちゃんの反応は、深いため息の後に「好きに呼べば?」でした。

 外しちゃった。あの頃の私は、まだまだ甘かった(笑)

11月3日

今日は、胡桃美ちゃんの空手の大会を見に行った。

やっぱり胡桃美ちゃんはカッコよかった。

そして、結果は優勝!

 決勝戦前に不安になっちゃった私に、「私が負けるわけないじゃん」って言って試合に向かった胡桃美ちゃんは、言葉にならないくらいカッコよかった。

 しかも本当に勝っちゃうなんて……。

 私が、泣いてしまいました……。

 でも、対戦相手の志賀さんも、胡桃美ちゃん並みに強かった。

 すごい人って、いっぱいいるんだなぁ~

 あ~私じゃ、天地がひっくり返っても柴咲さんにはなれないんだろうな~

 今、あの時の試合を思い返しても、目が潤んでくるよ。

 1月9日

 席替えで、クルちゃんと離れ離れになってしまった。

 寂しいな~

 でも、同じクラスだし、今日も一緒に帰れるからかいいかな~

 実は、この日、家で泣きました。

 この日から、クルちゃんに呼び方が分かっている。そういえば、気付けばクルちゃんって奈々に呼ばれてたな。私が奈々のことを。「光武」って呼ばなくなったのって、いつからだっけ?

 本人も日記に書かないくらい、自然な流れで呼んだんだろうな。

 3月1日

 この日のことは思い出したくないな。

 クルちゃんの強さの秘訣が分かった日。同時に、自分自身の弱さを知った日。

 3月2日

 (空白)

 この日は、前日のショックで寝込んでしまいました。

 3月3日

 今日は、クルちゃんの家の前の公園でいつも遊んでる兄弟と、初めてお話をしました。

 亮太くん可愛かったな~

 

 クルちゃん、崚馬くんと話してて、楽しそうだったな~

 実は、崚馬君に少し嫉妬してる自分がいました。だって、クルちゃん、私の時は、たったの二日であんなに仲良く話してくれなかったし。だから、崚馬君って凄いなって思うと同時に、クルちゃんのお父さんのこともあったばかりで、心の整理もつかなくて。どうやってクルちゃんと関わればいいかわからなくて、ちょっとクルちゃんに人見知りしてた。

 3月12日

 今日、亮太くんに「お家に帰りたくない。お姉ちゃんの家に帰りたい」って言われました。

 嬉しかったけど、なんか助けを求めてるようにも聞こえたな。

 クルちゃんと崚馬くんは何の話をしてたんだろう?

 一緒に遊んでて、どこか活気がなかったんだよね。亮太くん。まさか、あの日が亮太君と遊ぶ最後の日になるとは思ってなかった。元気にしてるのかな? 亮太君。

3月13日

珍しく、あの二人が公園に来なかった。

クルちゃんは「風邪ひいたんじゃないの?」って言ってたけど、私はそうは思えないな。

クルちゃんも何か隠してる気がした。

ねぇ、クルちゃん。クルちゃんは私のこと、ただの鈍感で、間抜けな奴とか思ってるかもしれないけど、クルちゃんのことに関しては、誰よりも敏感だからね。私に余計な心配かけないようにする時って、必ず私を突き放すよね?

佐藤君と戦った日も、お父さんと会った時も、この日、「風邪でも引いたんでしょ?」って私に言ったときもそうだった。

そうやって、最後まで一人で抱え込んで、私に何も言ってくれないのは、凄く寂しかったな。私って、必要とされてないのかな? って思っちゃった。そんなつもりはなかったかもしれないけどね。

もっと、私に本音を言って欲しかった。

でも、もうそんなことはどうでもいいの。結局私がクルちゃんに思っていることは「感謝」しかないんだから。

次のページを開くと、そこには感謝のメッセージが綴られていた。

 ~最後に~

私は、クルちゃんがいなかったら、誰も友達がいなかった。クルちゃんがいなかったら、ずっと佐藤君にいじめられてた。

そうやって、人を救う力を持っているのに、一人でいるのって、私はもったいないことだと思うな。

私は、クルちゃんならもっと多くの人を救えると思ってる。だからもう、無理して一人でいようとするの、やめない?

 どんなに強い人でも、一人でいるのは辛いと思う。私は、これ以上クルちゃんに無理をしてほしくない。無理して一人でいるくらいなら、私みたいな人を助けてあげてほしい。

 クルちゃんは、私にとって、一番の友達だから。絶対に幸せになってください。私も幸せになります。

 

 私は、東京に行っても、クルちゃんとの縁を切りたくないからさ、また、クルちゃんの家に手紙を送るかもしれない。だから、ちゃんと読んでね。

 私はクルちゃんみたいに強くないから、これからも沢山迷惑かけると思います。じゃあ、これからもよろしくね!

奈々

胡桃美はノートを閉じ、自身の机の引き出しの中にいれた。大切な友達との別れは、これからの胡桃美自身を大きく変える程の影響力を持っていた。

黒川崚馬6 荒んだ居場所

日が沈み、空は光を失った。一日の終わりを告げるようとするその暗い空間が、崚馬の居場所だった。

店の前で何分も立ち往生し、大きな声でくだらない話をする、迷惑極まりない学生たち。ハデな姿で路上キスを繰り広げる、一夜限りのカップル。風俗店から出てくる、欲求不満なサラリーマン。道路に散らばる無数のゴミ、さらには電柱の横には吐瀉物がまき散らされている。

本来あるべき夜の静けさが、傲慢不遜な俗衆により汚される様が垣間見れる。だが、この治安の悪い街の独特な空気が、崚馬の荒んだ心を落ち着かせた。やっぱり、濁った心に平静をもたらすのは、同じく濁った世界だった。

そんな空間は、次第に崚馬の瞳の奥底まで、無慈悲な黒色へと染め上げていった。そう、この暗くて重たい、善意が疎外されていくような感覚。ここでは、違法で非道な行いすら、憎悪を根拠に肯定される。そう思い込めるこの空間が、崚馬に非日常的な安堵感を与えていた。

学校には行きたくない。いや、正確にはいけないと言うべきだろう。今の俺には、あんな親切と希望を押し付けるようなところは、場違いだ。眩しくて長くは居られない。もう、光に溢れたその場を羨む感情すら、消え失せてしまった。暗闇に目が慣れてしまった、今の俺じゃ、光から目を閉ざす自分を止められない。

止めたくても止められないんだ……。あの日以来。

家に闇金が襲って来てから4年が経った。中学生になった今でも、あの日のことが俺の記憶にベットリと纏わりついている。全てアイツの言う通りだった。

「自分のことしか考えない大人は、平気で子どもを傷つけ、お金儲けの道具にするの」

 闇金に襲われた次の日に、アイツに言われた言葉。今でも一言一句、違わず思い出すことが出来る。父親は結局逃げた。家族を置いて。そのせいで、俺は弟を失い、母は心を失った。

その日以来、私利私欲に支配された、醜い大人に対し、悪意に満ちた感情を向けるようになっていた。あの日から蓄え続けた、恨みを発散させることが、今の崚馬が生きる糧となっていた。

何故崚馬が、夜の街を一人で徘徊しているのか。それは、恨みを晴らす相手を探すためだ。私利私欲に駆られた傍若無人な大人を探し、恨むべき対象の身代わりにしていたのだ。当然、身代わりなどでは、崚馬の気持ちが晴れることはなかった。しかし、無尽蔵に高ぶる苛立ちを抑え込むにはそうするしかなかった。自分が自分を見失わないために。社会のクズが一人、犠牲になるくらい、大した代償ではないだろう。

不意に、店の横で小便をしている男が、崚馬の目についた。次第に、崚馬の目が冷たくなる。

 ――よし、今日はコイツに決めた。

柴崎胡桃美6 空手部主将柴咲胡桃美

八時二十八分。遅刻ギリギリに登校した胡桃美。明らかに全力疾走してきたとしか思えない、荒い息で教室の扉を開けると、教室内から、胡桃美を冷やかす声が聞こえてきた。

「クルリン、また遅刻スレスレじゃ~ん」

 周りにいた友達も、笑い始める。小走りでその輪に入り込む胡桃美。

「いや~昨日の夜、絵美と長電話しちゃってさぁ~」

「あれ、当の絵美さん十分前には登校してたけど」

 その、声に絵美と呼ばれた生徒は「あれ~」と合わせる。

「いや、絵美、家近いじゃん。私、家から30分かかるんだからね!」

 言い訳をし始める胡桃美を「はいはい」といった具合で、友人たちはいなす。

「ところで、胡桃美は今週末の練習試合出れるの?」

「もちろん。足の捻挫も治ったし、調子も万全だよ!」

「じゃあ、これでベストメンバーがそろうね」

「おぅ、嬉しいこと言ってくれるじゃん」

 チャイムが鳴ると同時に、教室のドアが開き、先生が入室してきた。

 朝礼が終わり、授業が始まると同時に、胡桃美は眠り姫と化した。さっきまで友達とおしゃべりをしていた元気は、一体何処へいったのだろうか。授業開始五分で、首を上下に揺らし始めた胡桃美を見て、絵美たちはクスクス払い始める。

「胡桃美、もう寝てる」

「一限から、開始五分で寝るとか、ヤバい」

「さすが眠り姫」

 胡桃美が寝ている間にも、絶え間なく国語の授業が展開されている。授業開始15分後には、胡桃美の意識は完全に夢の世界へと飛び立った。ちょうどその時、先生が眠り姫の天敵とも言える発言をした。それは……。

「じゃあ、教科書105ページから、誰かに音読してもらおうと思います」

 国語の授業では恒例の教科書の音読。これは、クラス中に緊張が走り、全員が先生から目を反らす。しかし、そんな努力もこの教師の前じゃ意味をなさない。

「じゃあ、今日は12日だから~」

 この教師は、その日の日付で発表者を決めるのだ。

「出席番号12番の人、お願いします。12番は~、」

 この瞬間、絵美とその友人たちが噴き出す。そう、出席番号12番とは、現在は別世界に魂を移住させている、某眠り姫。

「柴咲さんですね」

 もちろん、意識が「ここ」にはない胡桃美が、教師の言葉に反応を示すはずがない。しかし、これはいつものことであった。

「また柴咲は居眠りか?」

 そういうと、先生が胡桃美の席へと歩いて行く。胡桃美の方に、クラス中の視線が向く中、絵美たちは顔を見合わせて、笑っている。

「柴咲!」

 胡桃美の席に着いた先生が胡桃美の名を呼ぶと、うつろな表情で先生を見上げた。

「教科書105ページから、音読だぞ」

 胡桃美は、寝ぼけて状況を把握し損ねているといった具合だ。

「ふぁい」

 情けない応答を示すと、よだれの跡が付いた教科書を捲り、音読を始めた。結局六限まで眠そうな顔で授業を受け、ショートホームルームを経て、長すぎる学校もようやく終わりを告げた。

今日の授業が終わり放課後になると、胡桃美は授業中の負抜けた顔とは一変し、生き生きし始めた。部活が楽しみでならないらしい。

 胡桃美は、中学校に入学すると、空手部に入部した。小学校から空手の経験があった胡桃美は、仮入部の段階から、上級生にすら勝ってしまうほどの腕前で、一年で団体戦のレギュラーを勝ち取り、空手部のエースとして活躍していた。

 前回の大会で、試合中に足を捻挫し、医師からしばらくの間、練習を禁止されていたが、ようやく怪我から回復し、練習に参加できることになった。

中三に上がった胡桃美は、実力もさることながら、人望も厚かったため満場一致で空手部の部長を務めることになった。副部長の関口絵美とは、毎日のように空手の話を熱く語る仲である。

部活を開始時間となると、顧問の先生からの招集がかかった。その右手に部長の胡桃美、左手に副部長の絵美が立つ。

「柴咲。連絡事項」

 顧問に指示されると、毅然とした声で「はい!」と応答し、話し始めた。その表情は、授業中とは比べ物にならない程、引き締まっている。

「今週末には、昨年の県大会優勝校の、次郎丸中学校との練習試合があります。この試合は団体戦レギュラーメンバー以外の人も、試合に出る機会があると思いますので、そのつもりでいて下さい。そして、団体戦レギュラーメンバーも、向こうのレギュラーメンバーと試合をすることになると思いますので、相手選手の観察、そして自分との比較を通して、今の自分の力と、これからの課題を客観的に把握することに努めて下さい。以上です」

 胡桃美が言い終わると、顧問は頷き、補足を加える。

「柴咲からもあった通り、中体連まで一カ月と迫ったこの時期に、去年の県大会の優勝校と練習試合ができるというのは、非常に貴重なことで、受け入れて貰った相手に対しても、礼儀礼節を忘れずに、全力で練習試合に臨みなさい」

 顧問の後ろには、『礼儀礼節』と書かれた部旗が掲げられている。その文字を目に刻んだ部員達の緊張感が増す。

「じゃあまず、ストレッチから。その後は柴咲から指示が出るから、それに従うこと。以上」

 部員達は返事と共に、走って速やかに体操ができる体形になった。

 この日の練習は、準備運動をした後、正拳突きと回し蹴りをそれぞれ20分ずつ行い、残りは練習試合に備えた試合を行った。

 怪我から復帰したばかりの胡桃美は、まだ本調子ではなかったが、訛った体には丁度いい練習となった。練習が終わると、空手部だけではなく、全部活が一気にグラウンドに招集をかけられた。そこには生徒指導部長の鶴田がおり、全員揃うと話し始めた。

「え~、今回全体集合をしてもらったのは、ここ一週間くらい、午後十時前後に香椎の方で、30代~40代の男性が暴行を加えられ、財布を盗まれるという事件が続いてます。で、もう三年生の生徒は塾などに通ってる人が多いですよね。それで千賀の方に行く人が多いと思うんですが、原則九時までに帰宅っていうのを徹底して頂きたいと思います。もし、その時間を過ぎる場合は、保護者の方に迎えに来て貰ってください。明日、全校集会でも言いますが、同じ塾に通ってる友達にも、このことを教えてあげて欲しいので、ご協力の方をお願いします。以上です、練習お疲れ様でした」

 部活帰りになると、胡桃美は仲間達とお喋りを楽しむ。練習後のこのラフな時間が、胡桃美は好きだった。分岐点に差し掛かると、一人一人と別れの挨拶を交わすこの日々も、今年で終わりなのだ。最終的には、胡桃美は、絵美と二人きりになる。

「ヤバい私、今日この後、塾なんだけど」

 絵美が、胡桃美と二人きりになるや否や言った。おそらく、招集の時に、鶴田に知らされた事件のことを言いたいのだろう。

「あの、暴行されてるってやつ?」

「そうそう。今日、授業十時とかまであるんだよね~」

「まぁ、絵美なら返り討ちにできるでしょ?」

 会話が完全に女やめてるとは思うが、絵美ならそこいらの男くらいは簡単に返り討ちに出来ると、胡桃美は本気で思っている。

「まぁ~ねぇ~」

 肯定してしまうあたり、流石は空手部員だ。

「なら大丈夫っしょ」

 すると、いつも胡桃美と絵美が分かれるY字路に差し掛かった。「じゃあ、またね~」と言い合って、二人は別れた。

 絵美は、言葉では不安を吐露したが、表情的にも、口調的にも言うほど気にしている様子も見受けられなかったため、胡桃美は軽く受け流した。しかし、他人事だから気にせずにいられるが、あんな知らせがあって、自ら千賀に行こうとは到底思えない。それを加味しても、油断さえしなければ、絵美なら安全だと信じて疑わないのは、空手部を引っ張っている者同士に生まれた、絶対的な信頼の証であった。なにしろ、絵美の実力は、全国クラスの強さを持つ胡桃美と、唯一肩を並べると言われる程、部内でも群を抜いていたのだから。

そんな絵美が、危険な目に合うとは、胡桃美には到底思えなかった。

黒川崚馬7 依存心が作り上げた避難所

夕暮れ。沈みゆく太陽に誘われるかのように、崚馬は「あの街」へと赴いた。自らの居場所と称したその地へ近づくにつれ、まるで慈悲を無に帰すかのような意趣遺恨が、崚馬の暗く歪んだ心の底から湧きあがる。

相変わらず、腐った大人の俗物的な行いが目に映る。今日は、パチンコ屋の入り口の地面で寝転んでいる、ギャンブルに魂を奪われた哀れな男に、異性を手招きしているとしか思えない、露出度の高い服装でうろつく痴女。こんな人間の陰に潜んで表に出ないが、裏では麻薬の取引や援助交際も頻繁に行われている。

普遍的見解では、こんな光景からは一刻も早く遠ざかりたく思うのが正解だろう。しかし、今の崚馬にとっては、ここが唯一心安らげる場所だった。

こんなドブのような世界から抜け出そうなんて、この期に及んで思うことはない。この世界が、自分にはお誂え向きとさえ思う。一般的な世界に、戻る資格すら、俺にはない。自分で自分にそう言いかせるのは、この地にしがみついて離れまいとする、無意識的な心の所作。悔しいがそれは依存である。

昼間の明るい日常が、崚馬の心を締め付けた。未だなお自分の中に残り続ける、良心という名の常識的見地。そこから呼び起こされた、残酷なほど強烈な罪悪感。それは、崚馬の精神が許容できる範囲を著しく超えていた。張り裂けかけた心に、もがき苦しみ、溜め込まれた圧倒的濃度の自責の念。

崚馬はそこから逃げる以外の選択肢を持っていなかった。これ以上、まともな思考が働くのであれば、たちまち崚馬は自分を失うであろう。やっと見つけた避難所こそ、この腐敗した世界だった。

ここで生きている自分だけが、俺自身を受け入れてくれる。俺が俺自身を責めずにいられるのは、この場所だけ。もう、抜け出せないんだよ。

自らの道義心が俺を破滅に導く。自分の中の敵から逃げるために、ここでありったけの怨讐に身を任せ、烏合の衆を狩り取る。そうすることで、その場しのぎの自己肯定に浸りつくす。しかし、現実逃避と八つ当たりの繰り返しが、日常に拘束されたときの苦しみを悪化させていることなど分かり切っている。でも、もう、そんな生き方しかできなくなった。

 葛藤を繰り返す心から意識を反らすために、今日の獲物を見つけなければならない。社会のクズに制裁を与えれば、少なくとも英雄的な自己満足感を得ることが出来る。

そんな時に、タクシードライバーに怒鳴り散らす、相撲取り並みの恰幅の男性を見つけた。

「なんで、○■★×が、☆△$%△×、高いんや! ぼったくりも大概にせぇよ、貴様、#◇*」

呂律が上手く回っていない。意味の分からない言葉混ざりに、「ぼったくり」のレッテルを張ろうとしていることは理解できる。

 すると、タクシーの中から、女が二人下りてくる。二人は、男の両脇に立ち、腕に手を回している。

 他に女がいたとなると、一人になる可能性は薄い。こんなデブが女を二人も連れまわせるのは、金で女と過ごす時間を買っているからに違いない。仕方がないから他の獲物を見つけよう。

崚馬は、暫く口論の様子を伺い、踵を返し場所を移そうとすると、パトカーが近づいてくるのが見えた。おそらく、さっきから喚いている男を取り押さえに来たのだろう。

 警察がこの街に来たとなると、なかなか行動がしにくくなる。全く、面倒なことしやがって、あの百貫デブが。今日は、出直した方が良いのかもしれない。

 獲物探しを諦めた崚馬は、比較的秩序が維持された大通りの方へと足を運んだ。そこには、大手予備校や、会社の本社などのビルが乱立している。どうやら、塾の下校時間に居合わせたようで、制服を着た中高生がごった返していた。

 次第に物足りなさが心に溜まっていく。欲求が満たされず、発散のしようのないイラつきが沸き上がる。日常のもどかしさを払拭しに、この地を訪れたと言うのに、むしろ不満が増している。仕方がない。この、普通の生活を送っている学生たちの波にのまれながら、帰宅しよう。

柴崎胡桃美7 一匹狼は卒業した

翌日、胡桃美はいつものように学校へ行き、いつものように爆睡しては、先生に怒られを繰り返し、放課後には部活に精を出した。部活が終わり、いつもの帰り道。最後に絵美と二人きりになると、絵美が話を切り出した。

「昨日さぁ~、塾帰りめっちゃ怖かったんだよね~」

「昨日のこと?」

普通に考えて、昨日鶴田が言っていた事件のことだろうな。と胡桃美は思った。

「もあるんだけど、昨日、塾帰りに警察がウロウロしてた」

「そりゃ、連日被害が出てるって言ってたし、パトロールくらいはね、やるよね。警察も」

「それなら良いんだけどぁ~、対応遅すぎない? だって、一週間続いてるって言ってたじゃん」

 絵美は警察の動きの鈍さに、しかめっ面をしている。

「あの辺は、もう犯罪を見て見ぬ振りしてる感あるよね。そもそも治安最悪だし。私のお母さんから聞いたけど、あそこ性犯罪とか麻薬の売買とか、とにかく犯罪の数が多すぎて、警察も対処しきれてないんだって」

「はぁ~、なんでこんなに物騒なんだろう、世の中」

 絵美は、不安とやるせなさを溜息に込めて吐き出した。

「物騒なのはあの街だけだよ。少なくともここは平和じゃない?」

「まぁ~ね~」

 そんな会話をしていると、二人が分かれる分岐点に差し掛かった。絵美との別れを交わすと、胡桃美は一人になった。

 物騒な世の中か。

 胡桃美は、小学生の時、自分が性的虐待を受けたこと。そして、ヤクザに襲われた崚馬の記憶が頭に浮かんだ。

 確かに、物騒な世の中だ。しかし、それを実際に体感したものと、そうでないものとでは、感じ方も、受け止め方も全く異なる。体感しないものは、軽々しく不安を語り、体感した者は黙して事実を直視する。自らの身に危険が降りかかった時、そう簡単には他者にその経験を語れるものではない。噂と現実とでは、言葉に込められた重みが決定的に違う。無残な背景が付随すればするほど、聞き手は圧倒的な現実に戸惑うだろう。聞き手も話し手も、覚悟を要する。

それが分かって、誰が好んで自らの経験を、軽々しく言葉にできようか。

自宅に着くと、胡桃美は奈々に電話をかけることにした。奈々が転校したことになってからというもの、毎週のように手紙のやり取りをすることが日課となっていた。今では、お互いにスマホを所持しているので、小学生時代よりもはるかに連絡も容易になった。便利になれば、その便利さに甘えてしまうのが人間だ。胡桃美はお互いにスマホを所持するようになってからは、毎日LINEのやり取りをしていた。離れていても、奈々は胡桃美にとって、一番の友達なのだ。ワンコールで繋がる辺り、流石は大親友と言える。

「あ、奈々? お疲れ~」

「おつかれ、クルちゃん」

 奈々が引っ越して約五年が経つと言うのに、奈々の呼び方は相変わらず「クルちゃん」だ。今では、「クルリン」などと呼ばれていることもあり、「クルちゃん」という名前で呼ばれるだけで、かつてのなつかしさに浸ることができた。

「怪我、治った?」

 三週間ほど前に行われた、関塚中学校との練習試合で、胡桃美は脚を捻挫してしまっていたのだ。

「うん、もう完治したよ」

「そっか。今週って確か、凄く強い学校と、練習試合だったよね?」

「そうそう! 次郎丸ってこと。去年の県大会優勝校」

「うわ!? それ、滅茶苦茶強いじゃん。勝てそう?」

 奈々は、語尾に不安を込めて言った。

「私と、もう一人、私と同じくらい強い子がいるんだけど、その子は勝てるね」

「クルちゃんと同じくらい強いとか……。要は、クルちゃんが二人いるってことだよね?」

 奈々は、先程よりもさらに不安そうな声で言った。

「だったら何よ?」

 胡桃美は、冗談交じりに声に凄みを持たせた。どうせこいつのことだから、また変なボケをかまして、茶化してくるに違いない。

「危険人物が二人も……」

「誰が危険人物や!」

 胡桃美はお笑い芸人の如き瞬発力で、奈々にツッコミを入れた。

 ホラ見ろ。奈々はなにかあればすぐにこうやって私のことをからかってくる。電話越しに、奈々の笑い声が聞こえてくる。堪えることもなしに、「アハ」とか「キャハ」とか大声を出しているのも腹が立つ。目の前にいれば、拳骨の一つでもくれてやるところだ。

 奈々の笑いもひと段落着いたところで、奈々は続きを話し始める。

「まぁ、とりあえず二勝行けるんだったら、勝てるってことじゃない? 女子の団体戦は三人だけだったよね?」

「そうだね。多分行けると思うよ。私ら基準のめっちゃ厳しい練習に、レギュラーメンバーは、血反吐吐きながら、着いて来てるし」

 すると奈々は、棘を含んだ言葉を、サラッと言った。

「やっぱ鬼が二人もいると練習もそうなるよね」

「いや、鬼じゃねぇわ!」

 またも胡桃美が突っ込む。五年の時を経て、胡桃美は一匹狼から、いじられキャラに変貌したのだ。
「私は、愛を持って皆と接してるから」

「うん、それは分かってる。勝つために心を鬼にしてるんだよね。まぁ、クルちゃんに関しては元から鬼だけど」

「いや、だから鬼じゃないって!」

 またも、奈々が笑い転げる。見事なツッコミだった。小学校の時から、人の反応見て遊んでいた節があったが、中学になって、それがより顕著になった。

 胡桃美は、奈々の呼吸が落ち着くまで待っている。

「いや、ごめんね。クルちゃん、ハイキングの大峠並みにツッコミ上手いから、ついつい遊んじゃう」

 言われてみれば、確かに中学の友達からも、ツッコミのタイミングが完璧と言われて、良くいじられている。だからと言って、『いじられキャラの殿堂入り』扱いされるのは心外である。

「でもさ、クルちゃんがそうやって、皆の人気者になって良かったなって思うよ」

「いや、人気かどうかは知らないけど」

 胡桃美は、突然の話題の変化に戸惑い、照れ隠しにそう言うしかなかった。

「小学校の時は、あれだけ周りに馴染もうとしなかったのに、今ではキャラまで確立させて」

 いや、それに関しては、一言物申したい。私は、断じて、いじられキャラなどではない!

 しかし、奈々は胡桃美に物申す暇も与えず喋る。こいつも、中学生になって随分と太々しくなったものだ。

「でもね、私は今のクルちゃんの方が好きだよ」

 途端に胡桃美は言葉を失った。奈々の言葉に意識を集中させることに、意識を奪われたからだ。

「最後に渡した手紙に、『無理して一人でいるのやめて欲しい』って書いたけど、いつも友達と一緒に帰って、どんなことしたとか、そういう話聞くと、私も安心できた」

 確かに、あの時の私は、人の輪に入ることを諦めていた。本当は、それが弱味で、コンプレックスだったのに……。そんな自分から逃げて、一人でいることを正当化できる、一匹狼になろうとした。そんな私に奈々は、あの頃から気付いていた。そう思うと、いじめから救たのが奈々で良かったと本気で思えた。

 すると、電話越しから、奈々を呼ぶ声が聞こえてきた。おそらく、母親に呼ばれているのだろう。それに返事をした奈々は、慌てて「あ、じゃあ、とにかく練習頑張ってね! また明日」といって電話を切った。

……LINEの通話が落ちる音がした。あの頃の記憶が蘇ってくる。奈々を救うために、佐藤を殴り飛ばした自分。そういえばおじいちゃんから貰った、フクロウの刺繍が入った筆箱と、万年筆が奈々の宝物だったっけ。相変わらず、奈々はその文章力で多くのコンクールで優勝しているらしい。その話を聞くたびに、自分も負けていられないと思えた。必ず、中体連で全国制覇を成し遂げたい。そう、決意した。

人間関係が下手糞な私は、沢山奈々を傷つけた。それでも奈々は、私から離れることはなかった。

今でも、私にとって、最も大事な友達は間違いなく奈々だ。いや、友達なんて軽いものじゃない。私に「友達」という存在の暖かさを教えてくれた恩人であり、最高の大親友だ。奈々に出会えたことで、私は今まで持っていなかった物を手に入れることが出来た。奈々と過ごしてきた日々で、次第に私達の間に生まれたもの。人との関係を断ち続けていては、得られない。しかし、人間関係において最も大事なもの。

……ねぇ、奈々。私ね、人を信頼できるようになったよ。自分以外の人を、信じられるようになったよ。

信頼。それこそが、胡桃美を変えた最大の理由だった。父親からの性的虐待により、地の底まで失墜した、他者への信頼。奈々に出会ったことで、胡桃美は自分以外の誰かを信用する感情を会得した。もしそれを持ちえず、ここまで生きていたらと思うとゾッとする。

自分を変えることができて本当に、良かった。胡桃美は、奈々の存在を意識するだけで、そんな気持ちに浸ることができた。

黒川崚馬8 昔の自分を取り戻せる場所

今日はやけに心が落ち着いている。三カ月に一度くらいは、何の混じり気もなかったあの頃に戻れるような感じがする。そんな時に必ず来るのが、昔、亮太と遊んだあの公園だ。

静寂な住宅地に作られたこの公園は、夜になると、木の葉が揺れる音が鮮明にきこえるほど、静かで平和な日常を過ごせる、

岩場に座って、星を眺めていると、あの時の思い出に浸ることが出来た。

汗で変色したTシャツをなびかせながら、蝉取り合戦に明け暮れていた夏。初めて自転車に乗って、喜びを全身で示していた亮太の姿。いつの間にか胡桃美や奈々と遊ぶことが当たり前になってたっけな。家に帰れば、母が笑顔で迎えてくれて、俺の誕生日には親父と遊園地にも行った。

夜風が崚馬の髪を揺らす。吹き向ける風が心地よく思えることが、崚馬にとっては貴重だった。普段は、淀んだ心に相応しい環境を求めて、無秩序な世界へ足を運んでいた。しかし、三カ月に一回とはいえ、安寧の地をこうして味わえる自分が、まだ残っていることが、崚馬にとっては嬉しくもあった。

こんな気持ちになれるのは、この一瞬だけなんだ。この一瞬だけ、幸せだったあの頃の記憶に浸らせてほしい。壊れて朽ちた現実だからこそ、心の中に後生大事にしまっておきたい。

そんな静寂を破ったのは、一組のカップルだった。声のトーンかが荒々しい。どうやら口論の真っ最中のようだ。

何も、ここを喧嘩の場に選ばなくても良いだろう。折角久しぶりに感傷に浸れていたというのに。

「どーせ、私のことなんか、タダの遊び相手にしか思ってなかったんでしょ?」

 暗くて顔は良く見えないが、声には相当な怒りが込められている。

「お前みたいな薄汚いメスブタと、遊んでやっただけでも、ありがてぇと思えや、このドブスが」

 傲慢な態度に、人を弄ぶような口調。この男、崚馬が忌み嫌うタイプそのものだ。

「その気にさせておいて、大好きだった人まで振って、アンタに着いて行ったのに……」

「甘い言葉に騙される程度の恋愛だったんだろ? 所詮お前がやってんのは、単なる惰性の恋愛ごっこ」

「そんなんじゃない!」

「そうだろ! 愛されてる実感が欲しいだけの、エゴの押し付け。元カレの愛に慣れて、退屈して、満たされなくなったから、他の奴に優しくされたい。愛されてる実感さえ得られれば、誰でもよかったんだろ?」

「うるさい、黙れ!」

「お前みたいな、満たされない惨めな女なんか、いくらでもいる。チョロいんだよ、男なしじゃ生きていけねぇ、依存体質丸出しの、自称可哀想な女一人、掌で躍らすくらい」

女の荒い息が聞こえてくる。今にも男に掴みかかりそうだ。

「現にお前は彼氏まで振って、俺に纏わりついて、病気になって、はい人生終了。お愁傷さまでした~」

「殺してやる」

 女は鬼の形相で、男を睨み付ける。

「あ?」

 男は、殺意の込められた眼光を浴びせられて、なおも見下した態度を改めず、余裕の表情を浮かべている。

「どうせこのまま終わる人生なら、恨みを晴らして死んでやる」

「やってみろよ」

 その言葉を合図に、女は男に殴りかかった。しかし、いとも簡単に避けられた挙句、男は、女の脇腹に思い切り蹴りを入れた。痛みで蹲る女を、さらに蹴り飛ばす男。女は、公園のフェンスに倒れ込む形になった。

「女が、男にタイマンで勝てると思ってんのかよ、頭湧いてんじゃねぇの?」

 男は、害虫でも見るような目で女を見下ろし、高笑いしながら、女の太ももを思い切り踏みつぶした。女は金切り声とも言えるほどの叫び声をあげ、悲痛の表情で太ももを押さえている。

 始め、崚馬の敵意は二人に向いていたが、今は男へ一直線に向かっている。大切な時間に水を差した挙句、たくさんの思い出が詰まったこの地で、胸糞悪い喧嘩を繰り広げる、この傍若無人さは、あの町の光景を形どっていた。

 せっかく浄化に向かっていた崚馬の心は、一瞬にして元の穢れを取り戻していた。今日の獲物が決まった。今までで、最大の憎悪がこみ上げてくるのを感じる。崚馬の心は、完全に怒気に支配された、抑制の効かない憤慨の傀儡と化していた。

 女に唾を吐きかけ、公園から去って行く男を目で追う崚馬。静かに立ち上がり、音を殺して、男の背後を取る。住宅地を抜けたところで崚馬は、歩く速度を上げる。影の位置を確認しながら、男の真後ろまで来た。崚馬は、殺意を存分に込めた拳を握り、男の首筋を思い切り殴った。前のめりに倒れる男に足払いをかけると、仰向けに地面に這いつくばった。その状態から後ろを振り返る男の顔に、崚馬は容赦のない蹴りを入れた。地面に男の鼻血が飛び散った。そして、男のズボンのポケットから財布を抜き取り、崚馬は気が済むまで男に暴行を加え、その場を去った。

柴崎胡桃美8 善意の一方通行

その頃、女の悲鳴に気付いた胡桃美が、家から出てきていた。恐る恐る公園に向かうとフェンスに倒れ込んでいる女性の姿。気付けば胡桃美は、女性の元へ駆け出していた。

女性の元へたどり着くと、その悲惨な状態に言葉を失った。服には血液の入り交ざった吐瀉物が付着している。女性の顔は、本当に人間なのか疑うほどの、青ざめていた。恐怖か、絶望か、憤りか、無気力か。この世のあらゆる負の感情が凝縮されたかのような表情。

背筋が凍りつくほどの寒気が胡桃美を襲った。物静かな空間のせいか、女性の吐息と、自分の心臓の高鳴りがはっきりと聞こえてくる。

「大丈夫ですか……?」

 そう問いかける自分の声が震えている。

「放って置いて……、貰っても良いですか……」

 荒い息で、女性は胡桃美の問いに答えた。

 そう言われても、放って置けるはずがない。昔から、虐められている少女一人、放って置けない質なのだ。

「救急車、呼びますね!」

「待って! 余計なことしないで」

 即座に女性は、胡桃美のスマホを握る手を掴んだ。その時に、不意に見えてしまった。女性の手首に浮かぶ、無数の線状の傷跡。それは、明らかにリストカットをした跡だ。その瞬間、胡桃美は、この女性の心理を悟った。

 安易に救急車なんか、呼ばない方が良い。状況から考えると、内科、あるいは外科の治療を受ける方が先決。しかし、リストカットの痕跡が見られる時点で、この女性は、自分を傷つける程、追い詰められた状況にある可能性がある。数十にも上るその傷跡が、女性の心理状態の深刻さを物語っている。ここまで来ると、内科や外科では役不足。心の専門家に見てもらった方が良い。

もしリストカットに理解のない医師から、自傷行為を責められようものなら、最悪だ。自傷を繰り返す者に、最も言ってはならないことでもある。

そもそも、他者に明かしたくはないであろう、その傷ができた経緯。自傷行為は、追い詰められた心、過度のストレスが背景になっていることが多い。目には見えないが、自分に精神的苦痛を与える心の中に潜む「何か」を、自分を傷つけることで、痛みと共にそれを視覚化している。あるいは切ることで、一瞬とはいえ張りつめた心から解放される。次第に、追い詰められた心から逃げるため、または相対的な快感を得るために自分を傷つけるようになる。

リストカットに依存する人間にとって、自分を傷つけることを否定されることは、せっかく命がけで見つけた、辛い日々を乗り切る手段を奪われたことに等しい。

胡桃美には、その理解があった。性的虐待に起因する、逃れようもない精神的苦痛を耐えるには、「何か」を傷つけるしかなかった。自分を含めた「何か」を。崩壊に向かう精神を、何とか食い止めるために、胡桃美は目に映ったあらゆるものを壊した。壊せるものを壊してなお、破壊衝動を抑えきれず、壁を殴り、自らの人差し指を骨折させた経験もある。

この女性の場合、傷つけた対象が、「人」や「物」ではなく、「自分」であったことが、まず称賛に値する。胡桃美が女性のリストカットの跡を発見した時の、率直な感想がそれだった。
胡桃美は、全てを配慮した上で、女性に声をかける。

「私は、あなたを放っては置けません」

 胡桃美は、女性に寄り添いながら言った。女性は、俯き、黙りこくっている。

「あなたは……。多分、今。凄く緊迫した状態にあるのかもしれません。逃げ場のない環境に、凄く苦しんでいる。私には、そう見えます」

 今までにない話し方に、胡桃美自身が不思議に思っていた。

「しかし、そんな状況でも、他人や、物を傷つけず、全て自分一人で抱え込み、そして……」

 女性の腕が一瞬、ピクリと動いた。

「あなたは、自分を傷つけ始めた」

 女性の顔が、胡桃美の方へ向いた。そして、女性は口を動かす。

「よく見れば子どもじゃん」

 胡桃美と女性の目が、初めて合った。女性は二十代後半だろうか。

「こんな子どもに、心を見透かされてるなんてね。もしかして、あなた、かなり壮絶な過去があるんじゃない?」

 まるで、女性の問いに吸い寄せられるかのように、自然と胡桃美は声を発した。

「小学校の時、父親から性的虐待を受けてました」

「そう……」

 数秒の沈黙。風が胡桃美の首筋を撫でた。風はそのまま女性の髪を押しのけて、遠くへ去って行った。今まで髪が覆っていた部分が、顔を覗かす。黒真珠のような眼が、こちらに向けられている。

「あなたも、可哀想な少女なのね。でも、なんでそんなに澄んだ目をしているのかしら?」

 胡桃美は、その質問に迷いなく答えた。

「救われたからです」

「誰に?」

「親友に」

 またも沈黙が訪れる。そして、深いため息と共に、女性は話し始めた。

「私も……、友達がいれば変わってたのかもね」

 少し女性の雰囲気が変わった気がする。胡桃美は、女性の話に、黙って耳を傾けた。

「いつも、私の周りには人がいなかった。そりゃ、そうよね。こんな陰気な人間と、友達になろうなんて、私だって思わない。友達なんかできるわけないから、男をとっかえひっかえして、性欲を満たしてた。そんな日々を送ってたら、自分のことしか頭にない、最低な男に引っかかった。それも、一人じゃなくて何人も。自分が滅茶苦茶にされて、結局、用が無くなると捨てられるのに……。それでも、そんな男を選んじゃう。私だって分かってる。自分の欲を満たすために、優しさを利用してることくらい。心にもない愛情だって分かってるのに。分かってるのに……」

 そして、女性は力なく叫んだ。満身創痍のその体で。破裂しかけたその心で。

「それに縋りつくしかないんだよ! 嘘でもいい。一瞬でもいい。詐欺でもいいから、私の心を満たして欲しい。お願いだから!!」

 言い終わると同時に、女性の肩がストンと落ちた。そして、小さな声で呟く。

「でもね……」

 不気味な笑顔を浮かべながら、まるで心も、内臓も、魂さえも、どこか遠い所に飛んで行ったかのような……。そんな空虚な表情が一直線に胡桃美へ向けられた。

「結局そんな自分がみじめで仕方なくて、自分を責めて、責めて、死にたくなるほど責めた結果、死ぬために自分を切りつけた」

胡桃美の背筋に、まるで害虫が這いずり回るかのような悪寒が走った。

「死ねない自分すらも責めた。同時に、この世から逃げ出そうとしてる惨めな自分も責めた。何を考えても自分を責めることしか思いつかない。眠れなくなるくらい自分を責めた。だんだん切っても切っても何も感じなくなってきた。死ぬ勇気もない私には、それからが地獄だった」

独り言のように淡々と話していた女性だが、急に呼吸が荒くなり、胸を押さえて苦しみ始めた。それでもなお、女性は喋り続ける。

「手首を切ってそのまま眠りに落ちるように、死ねればいいなって……。それが無理なら、私を知ってる人がいない、どこか別のところに消えてしまいたい。何事もなかったかのように、私の記憶を消して欲しい」

胡桃美は、急に罪意識に押しつぶされそうになった。

私がやったことは、この人に消したい記憶を、余計に植え付けただけなのではないだろうか? 善かれと思ってるのは私だけで、正義感とか善意とか、聞こえだけは良い感情に浸って、優越感を味わいたかっただけなのではないか?

そんな思いが、次から次に生じてきて、胡桃美は気分が悪くなってきた。軽く吐き気を催している。

女性は過呼吸が続く中、またも不適に微笑み、光を失った目を胡桃美に向けて言った。

「ワタシモ、トモダチガ、ホシカッタナァ」

その瞬間、胡桃美は女性に対し、激しい拒絶反応を示した。それは、生理反応とも言えるほど、抗いようのない本能的な拒絶。

一体何年間、満たされず枯渇した生活をしていたら、これほどの邪気を放つことができるのだろうか。あまりにも、住む世界が違い過ぎる。

怖い……。逃げたい、殺される、死にたくない。助けて!!

 気が付けば、胡桃美は自宅の玄関で、荒い息を整えていた。まだ全身が震えている。

 あの人はもう、心が死んでいた。命は確かに「ここ」にある(ように見える)。でも……、その命に、輝きを持たせ得る、全てのものが抜け落ちていた。それはまさに、人の形をした「喋るぬけがら」だった。

胡桃美は、これ以上長くあの場にいると、自分の心を吸い取られるかのような、恐怖を体感していた。

黒川崚馬9 妄想の世界に移住した母

崚馬が自宅の扉を開くと、そこには母の姿があった。微笑みながら、明るい声色で元気よく「おかえり」と迎えられた。ここまでは、亮太がいた頃と何も変わらない。ここまでは……。

「今日も、亮太はお泊り?」

「うん、そうだよ」

 唯一変わった点は、母が妄想の世界で生きるようになったこと。母の頭の中では、亮太は今、小学校のお泊り会でしばらく家に帰らない。そういう「設定」になっている。亮太が闇金に攫われてから一か月後、母はまるで魂が抜かれたぬけがらと化していた。しかし、半年程の月日が流れた時、突然まるで羽化した成虫が舞い戻ったかのように、元気を取り戻した。

 だがそれは本来ならば起こるはずもないことが母の中で起きたということだ。当然、辻褄の合わない何かがそこにある。その何かとは……。

 亮太が小学校のお泊り会に行っているという「設定」だ。幸せな環境が突如地獄と化し、さらに愛すべき弟まで失った。悲しみの極地とも言えるこの状況を打破するために、母の潜在意識の中で行われたのが、現実逃避だ。あまりに辛すぎる自身の記憶を消去し、妄想の世界を作り上げたのだ。しかし、自分に都合の良いように作り上げられた、妄想の世界は、現実と相いれないことも多々ある。それを母が実感した瞬間、無意識の底に沈めた記憶が浮かび上がり、心に空いた穴を塞いでいる蓋をこじ開け、現実世界に引き戻す。そうなると、虚偽で固めた心の安定もあっけなく崩れ去る。

 崚馬は、例え妄想の世界で生きていても、母の元気な笑顔さえ見られればいいと思う。だからこそ、母を現実に戻さないために、細心の注意を払っていた。しかし例え崚馬が、母の心の安定を守ろうとしても、予期しないことで亮太を思い出し、現実に帰ってくることがある。それが、崚馬にとっては、耐え難い苦しみだった。

 崚馬が、妄想の中で生きる母と一緒に近くのスーパーに行ったとき、カレー味のブタンメンの在庫が丁度二つあった。たったそれだけ……。たったそれだけのことで母の心は崩壊した。おそらく、家に闇金が訪れた日のことがフラッシュバックしてしまったのだろう。だから、崚馬は母とスーパーに行かなくなった。亮太のランドセルも捨てた。なぜなら、母の生きる世界では、亮太は小学校のお泊り会という設定であるにも関わらず、家にランドセルがあれば、学校に行ったという辻褄が合わなくなり、母が壊れてしまうからだ。

 崚馬の日常は、ほんのわずかな刺激で崩れ去る、何よりももろく繊細な母の心に振り回されていた。母が、いつまた現実を思い出し、発狂し、悲しみに打ちのめされるか。その瞬間が訪れることを、日々恐れていた。同時に、こんな日常に自分を追いつめた、汚い大人への憎しみは増加していくばかりであった。その憎しみを少しでも払拭するために、千賀の街に出向き、社会のクズを身代わりに、気休めの安定に身を委ねるしかなかったのだ。

「そういえば、亮太も来年から中学生かしらね?」

「そうじゃない?」

「そうじゃない? ってあなたお兄ちゃんなんだから、ちゃんと把握しとかないとダメじゃない。崚馬は、今中学三年生だったかしら?」

 学校は全く行ってないから、自分が何年にあたるのかよくわからない。でも、亮太が死んだ時から、五年が経ったことは分かっている。年齢で言えば、今は十五歳だ。中学三年生の年で間違いはないだろう。

「そうだね」

「てことは、亮太とは五歳差だから、後二年後かしら? てゆーか、その前に崚馬が高校生になるじゃない! 制服買わないとね」

 高校なんかに行くつもりはない。しかし、話を合わせないとまた発狂されるかもしれない。

「まずは高校を決めないと」

「そうね。どこ受験するの? なるべく公立校にしてね。ウチ、私立出すお金ないから」

 心配しなくても、高校には行かないから、学校にお金を払う必要もない。しかし、本音をいうわけにもいかないので、一応求められている回答をしておく。

「ちゃんと公立に行くよ」

「その方が助かるわ。ところで、崚馬は勉強の調子はどうなの?」

 いちいち痛い所を付いて来る。現実を知れば、自分が一番傷つくクセに。

「まぁまぁかな」

「そんな曖昧な返答じゃ分からないでしょ? この時期なら模試とかも受けるでしょ。その時の成績も全く見せてくれないし、どうなってるの?」

「まだ、結果が返ってきてないだけだよ」

「そうなの? 返ってきたら見せなさいよ、ちゃんと」

「ハイハイ」

「ハイは一回!」

「分かったよ」

 母は、俺が中学に行っていないことは知らない。学校からの連絡も全て祖父の自宅にしてもらっている。俺が中学に行っていないことを、母が知れば確実に母は悲しむ。そうなれば、悲しみが更なる悲しみを呼び、亮太の記憶を蘇らせる可能性がある。故に崚馬は、母の前では毎日学校に通っているふりをするしかなかった。
平日は制服と、スクールバッグ(中身は教科書や筆記用具ではなく、近くのスーパーのトイレで着替えるための私服。それとゲームと漫画本)を持って、朝八時に家を出た。そして、適当な場所でゲームや漫画を嗜み、暇を潰していた。そして、日が沈むと千賀へ向かい、日々ため込んだ大人への恨みを晴らしに出かけた。

 自分がこんな卑劣なことをしていることを、母に隠しながら生活をしているだけでも、心が痛んだ。母の顔を見るといつも、自己嫌悪に苛まれる。だから、崚馬は極力、母の存在を認知せずに済む場所を好んだ。

「ところで亮太はいつ帰ってくるのかしらね。帰ってくる日は、亮太の大好きな肉じゃがでも作ろうと思うんだけど」

……恐れていた質問が来た。それはいつも唐突に、何の前置きもなしに訪れる。

この質問が来るたびに、崚馬は様々な言い訳をしてきた。一カ月に一回くらいの頻度で、この質問が来るが、崚馬の経験上、恐らく何を言っても無駄だ。

二泊三日の予定だったけど、バスの手違いで一日延びたらしいよ。と言った時には、「それなら、何で連絡の一つもこないのかしら?」と言った次に、突然顔が青ざめ、その場で泣き崩れた。分からないと告げると、「何で知らないの?」と責められた次に、同じ現象が起こった。一カ月に一度の発作のようなものだ。

きっと今回も同じだ。何を言っても無意味だ。崚馬の力では、母の発作は不可避の現象だ。人類の英知を結集しても食い止められない、自然現象のようなものだ。

なら、もういちいち嘘を考える必要もない。そっちの方が楽だ。どうせ遅かれ早かれ母は自分で気付くのだから。

崚馬は感情を込めず、無機質で機械的な口調で、母に現実を突きつけた。

「亮太はもう帰らないよ」

 怪訝な顔をする母。しかし、即座に何かを思い出したかのような表情に変わった。

「あぁ、そういえば亮太はおじいちゃんの家に預けたんだったかしらね?」

どうやら母の妄想世界に新たな「設定」が付け加えられたらしい。もういい。これで、母の心が平和であり続けるなら、それでいい。崚馬はホッと胸を撫で下ろした。

「でも何で、おじいちゃんの家に預けることになったんだっけ?」

 そんなことを、崚馬が聞かれても分かるはずがない。妄想世界の辻褄合わせは、崚馬が出来得る範囲外である。

「覚えてないよ」

 崚馬は、再び機械的に応えた。風呂に入ろうと、母に背を向けると、ため息とも囁き声ともとれる母の声が聞こえた。

「そう……」

 崚馬はその声に耳を傾けず、そのまま風呂場の扉に手をかけた。そして、服を脱ぎ、蛇口を捻り、シャワーを浴びた。

 風呂から上がり、リビングへ行くと、そこには茫然と佇んだ母の姿があった。嫌な予感が崚馬の五体を撫でた。

 ……そうか、結局こうなるのか。安堵したのも、ぬか喜びに過ぎなかった。あの質問が来たら、もうどうあっても逃れられやしないんだ。

『亮太はいつ帰るのか』

この質問は、定期的に起こる母の精神崩壊を予告するサイレンに等しい。

 どう頑張っても電気ショックからは逃れられないと知った犬は、その後、電気ショックに対し、一切の回避行動を起こさなくなる。学習性無気力感。今の崚馬はまさに、それと同じ境遇に立たされていた。どうあっても、母の精神崩壊を食い止める方法はない。それならもう……、何もしない方が良い。食い止めようのないものは、何をしても徒労に終わる。崚馬は、そのことを深く実感し、学習した。

「亮太はもう……、帰ってこないのね?」

 母は、独り言のように呟いた。崚馬には、母の言葉に返答する(つまり崚馬自身が無意味と悟ったことをする)気力も残されていなかった。

 黙する母の表情はあまりに虚ろで、視点は何処にも定まっていなかった。現実を遮断する結界の役割を果たしていた、母の妄想は破られた。

 突然、母の膝が折れ、床に倒れ込んだ。帰らぬ者となった我が子の記憶が完全に蘇ったらしい。

 母は本能的に知っていたのだ。亮太の死を受け入れた瞬間、自分で我が身を亡ぼす結果になることを。しかし生きるという、相反する意志も完全に消えたわけではなかった。生きるが正解か、死ぬが正解か。母は数カ月もの間、その二律背反に苦しんだ。生き地獄にも等しい長きに渡る心の葛藤の末、出した答えが妄想世界で生きる事であった。

 崚馬にとっては、何をしても過酷な現実である。弟の死。生きるか死ぬかの瀬戸際の状態にある母。これ以上、家族を失いたくない。しかしこんな状況で生きるくらいなら、いっそ安らかな永眠という選択を取った方が、幸せなのかもしれない。崚馬も、母同様、苦渋の選択の狭間を揺蕩う、悲劇の主人公そのものだった。

「亮太は、今、どこにいるのかしら……」

 母が発した言葉に、一切の生気が感じられなかった。

「どうすれば、会いに行けるのかしら」

 誰に向けられたのか分からない、母の問い。仮に崚馬に向けられていたとしても、答えられるはずもない。何をしても亮太に再会できる補償なんてないのだから。

 すると突然、母が立ち上がり、寝室へと足を運んだ。崚馬は、母の姿から目を背けた。これから母が何をしようと、止める術はないとすでに悟ってしまったから。ただ一つだけ、崚馬は心の中で、形を持ちえない想像上の存在に祈りを送った。

「……どうか、母が、亮太と再会できますように……」

 そして、崚馬もまた自室へ向かった。
歯を磨き、布団も整え、寝る支度をしても、相変わらず全く寝付けない。適当に漫画を読み漁り、ゲームをしていると、いつの間にか午前四時を回っていた。このタイミングで、崚馬はふと母の様子が気になった。怖いもの見たさに、母の寝室へ足を運んだ。

 母の寝室の扉を開けると、吐瀉物と思しき異臭が、崚馬の鼻を刺激した。近くにあった洗濯バサミで、鼻を塞ぎ、寝室に上がり込んだ。すると、第一に崚馬の目に飛び込んできた物は、空になった無数のPTP包装だった。山積みになった空のPTPを見る限りでは、目算だが百錠以上を一度に飲み干したと思われる。そして、ベッドで眠りに着く母の姿。

 母は、亮太を失ってから、不眠に悩まされていた。それだけではなく、精神科医によれば、うつ病と統合失調症の併病もあると診断され、毎月多量の錠剤を処方されていた。毎食、十錠を超える薬を服用し、崚馬も見る度に不安に駆られていた。

 崚馬は、救急車を呼ぼうとはしなかった。何故なら、以前も母は同じような過剰摂取を行ったが、大事には至らなかったからだ。様々な精密検査を受けた挙句、医師に告げられたのは、「胃腸に損傷は見られたものの、安静にしておけば命には別状はない」という診断と、五万を超える医療費の請求だった。オーバードーズは自分の意志で行われるため、保険の適応外。つまり、不覚にも医療費を満額支払う義務を負ってしまったわけだ。

 母は無職なので、そんな額を請求されても支払いは不可能。中学生である崚馬に稼ぎがあるはずがない。そうなれば、連帯保証人として、支払い義務を負うのは祖父だった。

 崚馬は父、龍一の一件で、「連帯保証人」という言葉に、過剰に反応するようになっていた。崚馬が病院側からの請求書を見た瞬間、瞬く間に良心はドロドロに溶解され、その中から沸々と憎悪が沸き上がってくるのを感じた。それは、目の前の医師に対するものであった。しかし、仮にも命の危機を救おうとした病院側を責めることは、筋違いである。崚馬は恨みに取りつかれそうになる寸前で気が付いた。

 医療費に関しては甘んじて受け入れ、千賀に蔓延る身代わりを一人制裁することで、帳尻を合わせた。そうしなければ、崚馬の気が済まなかった。

 結局、病院に行っても「命に別状はない」という診断と、多額の請求を受けるだけなら、このまま放っておいた方が良い。仮にこれで母が命を落としても、唯一、亮太に会える可能性がある手段なのだから、不本意ではあるが仕方がない。崚馬の思考の終着点は、そこに落ち着いた。

 崚馬は、母の吐瀉物をタオルで拭き取り、消毒を過剰に振りまき、自室に戻った。自室に戻ると、めったに通知が来ることのないスマートフォンにメッセージが来ていた。送信者は母方の祖父である義弘だった。どうやら、明日の夜七時くらいに、この家に来るらしい。

柴崎胡桃美9 胡桃美と琴葉

胡桃美は部活が終わり、絵美と二人きりになった帰り道で、いよいよ明日に控えた、次郎丸中学校との練習試合にかける想いをぶつけ合っていた。試合前は必ず二人でミーティングを行うのだ。何故なら、試合のオーダー決めは、全て部長と副部長の間で決めなければならないからだ。顧問は、その決定をした根拠を聞き、「イエス」か「ノー」の答えしか出さない。「ノー」と言われたら、また二人で考え直す。毎回その繰り返しである。

二人は、いつもの分岐点では話しがまとまらず、胡桃美の自宅の前の公園で気が済むまで語明かすことにした。

「やっぱ、私ら二人で二勝するってのが一番話が早いよね」

 公園の木の下のベンチに座り、会話をリスタートさせたのは絵美だった。

「そうね。ただ、私らで間違いなく勝てると言えるほど、簡単な相手じゃない」

 胡桃美は深く頷きながら答えた。

「問題は、次郎丸にも全国クラスが二人いるってこと」

「槇谷美穂と、大将の志賀琴葉ね」

 阿吽の呼吸で、胡桃美は絵美の脳裏に浮かんだ二人の姿を言い当てた。特に大将の志賀琴葉の名前を強調した。

「そう。あの二人は、明らかに動きが違う。私達でも勝てるか分からない」

「私もそう思う。私達じゃなきゃ、まず相手にならない」

 絵美と胡桃美は、常にお互いを尊重していた。それは、常に切磋琢磨しあった仲間だからこそできる事でもあった。絵美は、選手の実力を正確に測ることができ、客観的な勝率を導き出す力が優れていた。胡桃美は、その絵美の分析を基に、最善策を選択する決断力を持っていた。絵美と胡桃美は、お互いに長所を引き出しあい、ないものは互いに補い、空手部をまとめ上げてきた。

「絵美の分析では、私らと槇谷、志賀が試合した時の勝率はどう見てる?」

 胡桃美が率直に聞くと、絵美は少し考えてから言った。

「まず逆体の志賀と、同じ逆体の私がやると、多分私が負ける確率が高い。逆体を相手にした経験の差は、部員数が圧倒的に多い向こうが有利だから」

「なるほど。私が志賀とやったら? 正直に言っていいよ」

 胡桃美は、絵美が胡桃美と志賀の実力を客観的にどう見ているか知りたかった。

「勝率六十%ってところかな。逆体潰しは、私をずっと意識してたクルリンにとってはお手の物。状況は相手も同じだけど、毎回毎回、本気で私を潰しにかかるクルリンの方が、気持ち、てゆーか直観的な差が大きく出ると思う。特に、瞬時に私の前足の位置を特定して、外を取る技術は絶妙。もはや常に脊髄反射で動いてるんじゃないかって思うくらいの、反応の速さ。私がどう動いても、前足の小指を狙いやすい位置を取られてしまう。逆体潰しの基本が完璧。逆体にとっては鬼だよ」

 昨日、奈々と電話をしていても鬼のレッテルを張られたことを思い出した。やっぱり私は、鬼なのだろうか?

 絵美はさらに分析を続ける。

「欠点は、攻撃が直球過ぎて読みやすい。本能と直観で攻撃しているから、戦術なんか合ったもんじゃない。志賀の方が心技体、全てにおいて上手。クルリンの反射神経が無かったら、まず勝ち目はないね」

 絵美の言葉は、胡桃美の心にグサグサと刺さった。「それ以上私を貶すな」と目で訴える胡桃美に、絵美は応じて話題をすり替えた。

「槇谷と試合した場合だけど、これは私に分があると見てる。七対三ってところかな」

「随分強気ね。その心は?」と胡桃美が問う。

「まず、槇谷の分析から行くけど、あの子は相当バランスが良い。特にカウンターが得意。相手の出方を冷静に見極めて、どんな選手にも満遍なく対処できるスキルを持ってる。対逆体は、志賀の存在で隙と言える弱点もない。多分、総合力なら私が負けてる」

「なのに、どうしてそんなに強気なの?」

「私の土俵に確実に持って行ける自身があるからよ」

ここで胡桃美の頭が絵美の推理に追いついた。
「蹴り技勝負に?」

「そういうこと。唯一、槇谷の隙と言えるのは、後の先に対する自信。そのせいで、槇谷が自分から攻撃することは少ない。長身を生かした堂々とした佇まいで、ジリジリと間合いを詰めて、プレッシャーをかけてくる。当然、自分がいつでも攻撃に転じられる間合いだから隙がない。プレッシャーに負けて槇谷の間合いに入り込んだ敵は、カウンターの餌食になる。それが槇谷の得意とするスタイル」

「確かに。私が一番相手にしたくないタイプ」

「クルリンは短気だもんね」

「うるさいわね」

 胡桃美のツッコミは相変わらず完璧。絵美にとっては何度でもイジりたくなるユニークな反応だった。

「それでも、相手のカウンターを見てから反応できる、その瞬発力があるから、受け身が取れてるんだけどね。私にはそんな常識外れな芸当はできない」

 絵美の言葉を聞いて、胡桃美は鼻高々といった具合だ。胡桃美のドヤ顔に目を向けず、絵美は話を本題に戻した。

「それは置いといて。私はクルリンみたいな、超人的な瞬発力を持ってない。でも、蹴りのスピードがある」

 自信満々の絵美に対し、胡桃美の反応は極めて薄いものだった。

「確かに、絵美の蹴りのスピードは凄い。でも、相手はカウンターの名手、槇谷よ。どんなに早い攻撃も、通じるのは序盤だけで、後半は目が慣れてきて、確実に合わせられて、逆転されると思う」

 絵美は、百八十度を超える開脚を難なくこなせるほどの、股関節の柔軟性の持ち主だった。さらに、立ち幅跳びの記録は、校内の女子では、ダントツ一位の二m二十㎝。男子の平均すら超える、女子の中では破格の数値である。特筆すべきは、柔と剛の二つを併せ持つ足から生まれる蹴り技だ。『神速の回し蹴り』とも言われる、特出したスピードから繰り出される回し蹴りは、並の中学生では反応すらできない。ただでさえ手に負えない程の蹴り技に、華麗なフェイントまで加えられると、もはや何をされたかも分からず、ポイントを取られる選手も多い。

「その通り。だからこそ、敢えて初めは遅く蹴る」

 胡桃美は絵美の戦術に、黙って耳を傾けていた。

「相手の目を慣れさせないために、徐々に蹴りのスピードを上げていく」

「それでも、絵美が槇谷に勝てるとは思わない」

 胡桃美は、先程の仕返しと言わんばかりに、率直な意見を言った。

「それだけじゃないよ。槇谷は回し蹴りを確実に警戒してくる。だからこそ序盤は、それを印象付けるために、敢えて回し蹴りとフェイントで挑む。勝負は後半から。槇谷が私のマックススピードに慣れた時。万策尽きたと思わせて、前蹴りで攻める。前蹴りもあると思わせてからが、本当の勝負。蹴りの態勢に入ってからの、技の読み合いに持ち込む。でも、回し蹴りを印象付けられた槇谷は、読み合いの最中、一瞬迷う。その隙を突けば、確実に勝てる」

「なるほど。前蹴りか回し蹴りかフェイント。三つの技の読み合い。最後は心理戦に持ち込むってことね」

 それなら、分析力に長ける絵美が有利かもしれない。

「そゆこと」

「それなら、志賀は私がやって、槇谷は絵美がやる。これがベスト」

 胡桃美の判断に絵美は大きく頷いた。そこで、絵美は新たな問題点を指摘した。
「でも、私達の思い通りの相手と戦えるとは限らない」

 空手の女子団体戦は、一チーム三人で行われる。胡桃美が通う梅崎中学校空手部のオーダーは、先鋒の絵美がまず一勝し流れを作り、大将の胡桃美が抑えると相場は決まっていた。だがそれは市内で梅崎中学校よりも格上の相手がいなかったから、その作戦で敗北することはなかった。しかし、今回の相手は昨年の県大会王者の次郎丸中学校。梅崎中学校は昨年県大会四位。明らかな格上相手。しかし、次郎丸程の強豪が、格下との練習試合だからと言って、何も策を練らずにのうのうとするとは思えない。おそらくこちらのオーダーと、レギュラーメンバーの分析も怠らないはず。

 今回の練習試合は、一戦目は県大会三位決定戦の体でオーダーを組み、残りはレギュラーメンバー全員とそれぞれ対戦できるように、総当たり戦を予定している。九州大会に進めるのは上位三校のみ。つまり、第一戦のオーダーで勝てなければ、九州大会以降には勝ち進めない試合設定となっている。

 次郎丸中学校のオーダーは、相手校によって変わるが、中堅に槇谷が来ることが多く、大将は志賀で固定だ。しかし、そのオーダーを変えてくる可能性は十分にあり得る。

もうすでに心理戦は始まっていたのだ。次郎丸が今まで通りのオーダーで来るなら、大将は志賀が務めることは必至。そうすると、絵美の分析を基にすれば、今まで通り胡桃美を大将にするのがセオリー。しかし、今回は次郎丸側もセオリーを敢えて外すことも考えられるのだ。だが、胡桃美はその可能性に真っ向から異を唱えた。

「私は、間違いなく志賀が大将に来ると思ってる」

「なんで?」

「次郎丸の志賀が何故、必ず大将になるか知ってる?」

「知らない」

 まるで、答えを急かすかのような口調だった。早くその答えが知りたい。絵美の表情がそれを物語っていた。

「実はね、私、小学校の頃から琴葉のことを知ってる」

 絵美は大きく目を見開いた。特に、急に呼び方を変えたことに驚いているらしい。

「別に言う必要ないと思ってたから黙ってたけど、小学校四年生の時、私、空手の大会の個人戦決勝で琴葉と戦ったことがあるの。その時、奈々って私の親友が応援しに来てたんだけどさ。その子に良い恰好見せたかったから、どうしても琴葉に勝ちたかったのね。結果は私が勝ったんだけど、本当に今まで戦った子の中でもダントツで強くてさ。その大会から、なんかいいライバルみたいな関係だったんだよね」

胡桃美は、その頃の思い出を想起した。

 それは、県内の空手道場を交えた、かなり大きな大会だった。小学校三年生以下の部と、四年生以上の部で分かれた大会で、優秀な成績を収めたものは新聞に名前が載り、学校でも大きく表彰された。胡桃美が優勝することとなったその大会は、歴史上最も異例な決勝戦が行われていた。

今まで、四年生以上の部で、決勝の舞台まで勝ち上がるのは、主に五、六年生であった。小学校四年生同士が、優勝の座を争うことなど、今まであり得ないことであった。例年よりも、明らかに身長の低い二人による決勝戦は、大会事情を知らない素人ですら目を疑うような光景だった。
試合が終わると、号泣した光武奈々が胡桃美に抱きついてきた。

「なんで、アンタが泣いてんだよ」

「だって、胡桃美ちゃん……。本当に勝っちゃうんだもん。私、感動して……うえ~ん」

 流石の胡桃美も、ここまで泣かれると、いつもの刺々しい態度は取れなかった。

「だから言ったろ! 私が負けるわけないって」

「うん、信じてたよ。勝つって」

「だったら何で泣いてんの?」

「試合が凄すぎて、感動したんだよぉ~」

「とか言って、さっき『本当に』勝つなんて。とか言ったろ? それって、負けるかもって思ってたってことだよなぁ。えぇ?」

 奈々は鼻水を啜りながら、呼吸を整えている。てか、いつまで抱きついてんだ、コイツ。流石に恥ずかしいから、さっさと離れろよな。全く。

「だって、途中まで、ずっと負けてたじゃん! ずっと、負けてたのに、いきなり逆転しちゃうからビックリしたもん!」

 確かに胡桃美は途中まで、志賀に手も足も出せずに負けていた。ポイントは最後の最後まで一対四で負けていたが、試合終了間際で、胡桃美の足払いが琴葉に決まり、有効打を与え同点。そのまま、胡桃美の勢いは止まらず、延長戦で上段突きが決まり、五対四で逆転勝利をしたのだ。

「試合は最後まで分かんないんだよ。アイツは最後の最後に油断して、隙を作った。上段回し蹴りか、倒されたら追いつかれるってのに、詰めが甘かった。そんな奴に、私が負けるかよ」

 そう言うと、表彰式のアナウンスが流れた。

「てか、表彰式始まるから、いい加減離れろよ、このバカ!」

 奈々が離れると、胡桃美の道着には、若干濡れて染みになっている部分があった。どうやら、奈々の涙が付着したらしい。

 胡桃美が表彰台に立つと、周りの大人から次々に写真を取られた。その写真の内の一枚が、後にスポーツ紙の表紙として、デカデカと使われることなど、この時の胡桃美は思ってもいないことだ。その写真は胡桃美の母、百恵の宝物として、今でも大切に保存されている。

 一位の表彰台よりも少し低い、二位の表彰台に立つ、志賀琴葉は胡桃美の隣でずっと泣いていた。

 表彰式が終わり、表彰台から降りると、胡桃美は琴葉に話しかけられた。ひどく充血した眼が、一直線に胡桃美の心を射抜いた。そして、悔しさを露わにしながら、琴葉は言った。

「次は、絶対に負けないから!」

 琴葉は、胡桃美にとって同年代で唯一、敵わないと思った相手だった。自分が井の中の蛙であると、思い知らせてくれたもの琴葉だった。だからこそ、胡桃美も琴葉と、また試合をしたかった。その思いを、何とかして声にした。気持ちを伝えるのは苦手だけど。

「来年、またここで会おう」

 照れくさくて目が合わせられなかった。しかも、恥ずかしくなって、直ぐにその場を離れてしまう始末だ。

 それから胡桃美と琴葉は、何度も大会で顔を合わせ、激戦を繰り広げた。そして、小学校六年生になり、小学校最後の大会で、琴葉が一位、胡桃美が二位の表彰台に上がった時に、二人は人知れず誓いを立てた。

黒川崚馬10 崚馬の本音

母が処方された薬を過剰摂取した翌朝、何事もなかったかのようにパンを食べる姿が見受けられた。二回目までは、崚馬も母の命を案じていたが、三度目からは慣れてしまい放置するようになっていた。例えオーバードーズで母が命を落としても、それはそれで良いとさえ思っている自分がいる。母の妄想世界を維持するように気を遣うことも、母が苦しむ姿を見るのも、もう疲れた。

 ただ、母の死を心から望んでいるわけでもないから、母がまだ生きていると知った時は、ホッとした。嘔吐をしていたため、顔色はあまりよくなく、体調も悪そうだったが、妙なことはしそうにない。崚馬は、いつものように学校に行くふりをして、家を出た。

母のいってらっしゃいの声を背に玄関を出ると、近くのスーパーで制服から私服に着替え、図書館で漫画やゲームをして暇を潰した。もう何度も読み返した漫画に、何度も全クリしたRPGゲームだ。毎日同じことの繰り返し。友達とも遊ばず、一人で暇を潰す孤独な毎日。夜になれば、モヤモヤする気持ちを晴らすために、非行を繰り返す。家に帰れば母に気を遣うことで神経をすり減らされる。

こんな日々はもう、うんざりだ。

家族の死に直面したあの日から、「死」というものがあまりにも身近に感じられた。できることならば、夜に眠りについたとき、そのままこの世とあの世の敷居を跨いで、亮太に会いに行けないだろうかと何度思ったことか。

苦しみながら死ぬのは嫌だ。今の崚馬にとって、首つり自殺をすることや、ビルから飛び降りて死ぬくらいなら、生き続けた方がよっぽどマシだった。そこまでして死のうとは思わないし、そんなことする勇気もない。しかし、眠りに落ちるかのように、安らかに死ぬ方法があるなら、迷わず死を選ぶ。死ねばまた亮太に会える。死ぬなら母と一緒に死んで、また幸せだったあの頃に戻りたい。そんな夢のような淡い期待を帯びているのが、「死」であった。

 今日は、一九時に祖父が来るとのことなので、千賀に行くわけには行かなくなった。崚馬は、周りの大人を一切信用していないが、祖父だけは違った。崚馬の生活費や学費は全て、祖父である義弘が支払っていた。定年退職した祖父は、身を削ってまで自らの年金を崚馬のために与えてくれていた。そして、崚馬もそんな祖父の気持ちを理解していた。恩を受けたことから目を背ける程、崚馬は人でなしにはなりきれない。崚馬にとって、祖父は唯一負の感情を向けずに済む、特別な大人だった。

 自宅に帰ると、祖父が母の介護をしていた。畳の匂いが香る居間の布団で、眠りについている母に、祖父は毛布をかけていた。そんな祖父の背中に崚馬は声をかけた。

「じぃちゃん」

 すると、祖父の聡明で穏やかな顔がこちらに向いた。白髪の混じった髪からは、やはりの年を感じざるを得ない。しかし、他者の気持ちを慮る暖かさは、人格者として慕われていた教師時代を彷彿とさせる。

「崚馬か」

「うん。今日はどうしたの?」

「いや、ちゃんと食事は取れてるのか気になってな。年を取るとどうもお節介焼きになってしまって」

 義弘は頭を掻きながら、恥ずかしそうに笑っていた。

「ありがとう。仕送りで何とかやってるよ」

「そうか。母さんの様子はどうだ?」

「昨日、また発作が起こったね」

 義弘は、崚馬を憐れむように見つめ、崚馬の苦労を労った。

「そうか、そうか。それは、大変だっただろう。今日は、俺が家事とか面倒なことはするから、ゆっくり休みなさい」

「うん、そうするよ。ありがとう」

 義弘は、崚馬が全く学校に行っていないことを知っていた。それにも関わらず、崚馬を責めることも、学校に行くように促すこともしなかった。崚馬が学校に行きたくなった時にいつでも行けるように、学費だけは払い続けた。

そこまでの恩恵を受けているにも関わらず、学校へ行かず、自分の恨みを晴らすことばかり考える自分が情けなかった。そんな自分と向き合うのが怖くて、目を背ける自分も嫌いだ。しかしそれもこれも、全て父が巻き起こした不手際だと思えば、少なくとも精神の安定は保たれた。

 崚馬はいつも、義弘の自分に対する対応に感謝をしている反面、何故自分のためにそこまでしてくれるのか、不思議で堪らなかった。でも聞けなかった。祖父の本心を聞くことが怖かったのだ。祖父の想いや願いに、全く答えられていない現状は確かに感じている。しかし、答えようにも答えられないことも自分で分かる。おそらく、義弘もそれが分かった上で、何も指摘しないのだ。

 その優しさが、崚馬を苦しめた。

 祖父から離れ、自室に戻ろうとすると、祖父は静かに言った。

「崚馬」

「何?」

「せめて後悔しない人生を送りなさい」

 何故だろう。その言葉を祖父から聞いた瞬間、目から大粒の涙が零れ落ちてきた。

 多様な感情が一つの有機体として出現した。まとめられた感情を一つずつ要素分析することすら叶わず、崚馬の心に唐突に現れた。まるでアメーバのように絶えず形状を変えながら、崚馬の心の中で暴れている。現状に適切な言葉を探そうにも、感情の糸が余りに複雑に絡まりすぎて解けない。その感情は、余りにも巨大すぎた。ただひたすら、その巨大さに浮足立った崚馬の脳は、訳も分からず「泣け!」という命令を下す。

 跪き、嗚咽を漏らす崚馬に気付いた義弘が、崚馬に寄り添った。義弘は何も言葉を発せず、ただ崚馬を、穏和な眼差しで包み込んだ。

 それからは、崚馬はひたすらに泣いた。心に現れた得体のしれない巨大な感情を、全て涙として放出するまで、泣き続けた。そして、泣き終えた後、最後に収縮した、堅くて小さな一つの感情が残っていることに、崚馬は気が付いた。

……このまま、終わりたくない。絶対に。

柴崎胡桃美10 試合は最後まで分からない

胡桃美が朝起きると、今年最高に目覚めが良いのではないかと思うほど、すがすがしい気分だった。ベッドから起き上がり、『思い出記念館』と称した棚に目を移した。奈々や崚馬との思い出や、それ以降に出来た友達との思い出の品々が飾ってある。亮太と遊ぶ崚馬の姿が、今日は特別に見えた。そして、そこには小学四年生の頃、初めて志賀琴葉と戦った時の表彰台の写真もあった。二位の台に立っている、悔し涙で目が真っ赤に充血している琴葉。

当時、胡桃美は同年代の子には、誰にも負けない自信があった。しかし、小学四年生の時に、決勝で戦った琴葉は、自分が井の中の蛙であったことを教えてくれた。初めて、同い年に敵わないと思わされた。そんな琴葉と二年半ぶりの再戦。小学時代の最大のライバルでもあり、一番の戦友でもある琴葉と戦えることに、胡桃美は確かな高揚感を覚えていた。

次郎丸中学校は梅崎中学校から、かなり距離が離れているため、部員全員で電車に乗って行くことにしていた。

次郎丸中学校の体育館に到着すると、胡桃美は真っ先に志賀琴葉を探した。二年半ぶりの琴葉に、早く会いたい。そんな気持ちを他所に、顧問の先生が招集をかけた。

部員全員の返事が合わさり、かなりの声量となる。胡桃美にとっては、焦る気落ちに横やりを入れられた気分だ。

「次郎丸中学校は、県大会を突破する時に、必ず立ちはだかる強豪です。これが中体連本番のつもりで、気を抜かずに戦うように。それじゃあ、ストレッチしていつでも試合できる準備を整えなさい」

 再び、部員の返事が一つになる。

梅崎中空手部一同が、次郎丸中学校の武道場に入ると、すでに次郎丸中学校の生徒は正拳付きを始めていた。やはり、空手の名門校なだけあり、一人一人の突きにかなりの気合が案じられる。

 双方の準備運動も終了し、さっそく練習試合が開始された。ここで負けた方が、4位となり県大会で消える試合設定。まず、先鋒は、梅崎中学校、関口絵美と、次郎丸中学校、槇谷美穂の対戦。この時点では、絵美の予想通りの采配。まずはここで勝って流れをこちらに傾けたい。そんな思いを秘めて、絵美は立ち上がった。

 一礼と共に試合はスタートする。全国レベルのこの二人の対決に、周りの視線が集中する。

 槇谷は相変わらず、ジワリジワリと間合いを詰め、カウンターを狙う作戦。しかし、逆体潰しもぬかりなくやってくる。だが、これは初めから分かりきったこと。先に攻撃に転じたのは絵美。素早く自分の間合いに入り、前足に足払いをかけに行く。

 瞬時に反応しそれを避ける槇谷。しかし足払いは次なる攻撃の布石。絵美は足払いをフェイントに、上段回し蹴りを繰り出した。

これも槇谷はなんとか反応。しかし体勢を崩した。絵美はそこを見逃さず、上段突きを繰り出す。流石の槇谷も、それは避けられず、先取点は絵美のものとなった。カウントは1-0。

 だが、槇谷の身体の動きから、全力を出していないことが分かる。まだ様子見といったところだ。絵美のクセや攻撃の起点を細かく分析している。カウンターを得意とする選手の特徴だ。油断はできない。だからこそ、絵美は序盤から手の内を全て晒すことは控えた。初めはあくまで、回し蹴りとフェイントだけで攻める。

 絵美と槇谷の実力はほぼ同格であった。絵美が全力に近づくにつれ、槇谷もそれに合わせて対応してくる。カウンターの名手である、槇谷の対応は早い。足さばきや蹴りの速さを急に上げて、相手を惑わそうとしても、槇谷は全く動きを変えない。一貫して、ジワリジワリと間合いを詰め、プレッシャーを与えてくる。通常の選手なら、ここでプレッシャーに押され、自分の技が全く通じずに、カウンターの餌食になることを恐れてしまう。

 しかし、絵美は槇谷のプレッシャーに全く動じてはいなかった。絵美支えていたのは、自分の蹴りに対する圧倒的な自信と、その技の豊富さと対応力。絵美が回し蹴りから前蹴りに、攻撃の起点を変えた時、試合の流れが変わった。
今までは絵美がどんな動きをしても、槇谷はその堂々たる佇まいでプレッシャーを与え続けていた。しかし、前蹴りを加え始めてからは、少しこちらの動きを警戒する色が見られた。

空手は、前蹴りであろうが、回し蹴りであろうが、必ず膝を体の前方に出す。それにより、前蹴りか回し蹴りか読まれにくくするのだ。絵美の蹴りのモーションは、上段、中段、下段、さらに前蹴り、回し蹴りに関係なく全く同じ。槇谷の警戒は、その中のどれを繰り出して来るのか、ほんの一瞬、判断に迷いが生じたために起きたものだった。しかし、一瞬の判断力が問われる空手では、それが命取りになる。そこを見逃すほど、絵美もお人好しではない。

絵美の作戦通り、序盤に回し蹴りを過剰に印象付けたことで、突然の前蹴り起点の攻め方に、槇谷は対応しきれていない様子だ。ただでさえ絵美の回し蹴りは、あまりのスピードに、蹴りの軌道を見極める事すら難解と言える。それは、槇谷が全集中力をそこに注がなければ、カウンターに転じられない程のもの。それにも関わらず急に全く同じ構えから来る、前蹴りまでフェイントに加えられると、直ぐに対応はしきれない。

これが、絵美が勝つために考えた、作戦であった。カウントは4-1。試合時間が残り一分を切るまで、完全に絵美が主導権を握っていた。

だが、これで終わる槇谷ではなかった。

絵美が前足で蹴りに行こうと、脚が地面から離れた刹那、槇谷の上段付きが絵美の顎の下あたりにヒットしていた。カウントが4-2となる。

格闘技において、隙が生じやすくなるのは攻撃に転じるその瞬間である。その瞬間だけ、相手の様子ではなく、自分の攻撃に意識が集中する。それは、時間にして0.1秒にも満たないだろう。槇谷は、絵美が蹴りを繰り出すために、意識を自分に向けたその瞬間の隙を突いて来たのだ。まさにそれは、先の先によるカウンター。

今まで後の先を貫いてきた槇谷が、初めて見せた先の先。絵美の心に僅かな動揺が走る。隠し玉を持っていたのは、絵美だけではなかったと言うことだ。絵美が「前蹴り」という武器を隠し持っていたように、槇谷も「先の先」という武器を隠していた。

槇谷は絵美の蹴り技に、後の先だけでは対応できないと、試合前から悟っていた。だがどんなに早過ぎる回し蹴りを持っていても、攻撃する前に潰せば勝てる。そのために槇谷は、死に物狂いで先の先を磨いてきたのだ。試合中、後の先に応じながらも、槇谷は絵美が蹴りを繰り出す際のクセや、醸し出している空気、上半身の動き、表情など、あらゆる視点から絵美の行動を分析していた。そして今、槇谷は掴み取ったのだ。絵美が攻撃に転じる瞬間に出る、ほんの些細な感覚を。

それからは完全に槇谷のペースとなり、カウントは4-5。試合終了間近で、絵美は逆転を許してしまった。

絵美が攻撃に移る瞬間の動きに、隙と言えるほど致命的欠陥などありはしない。では、何故槇谷の先の先がこれ程までに通じているのか。もはやそれは、槇谷の「天性の才覚」としか言いようがない。槇谷が見切ったのは、絵美のクセでも心理でもない。

長い時間を共有した親友同士なら、状況によってその人がどんな行動を取るか予測ができる。そこにあるのは理屈ではなく、時間に裏付けされた絶対的な経験と信頼。槇谷は、この試合の数分の中で、絵美のそれを見切った。それは試合の中で絵美から受けた、数百にも及ぶ攻撃、技の読み合いの最中で培った経験と、絵美の強さに対する信頼。

どんな条件が揃えば、絵美は蹴りを繰り出してくるのか考え、その条件を前もってこちらから提示すれば、確実に絵美はそれに応じて攻撃に移る。それを、槇谷は直観的に自分に落とし込んでいた。

まるで、エサを見せつられた犬のように、絵美は槇谷によって攻撃をさせられていた。さらにまずいことに、絵美はその事実に気付いてすらいなかった。

突然、自分の技が通用しなくなった絵美の攻撃は慎重になる。だが、それは完全に相手のペースに飲み込まれている証拠。結局、試合終了まで槇谷のペースを崩すことは出来ず、カウント4-5のまま、絵美は敗北した。
試合終了後、絵美と槇谷は、互いに一例をし、中堅へと試合を繋いだ。中堅は、梅崎中学校、吉田萌と、次郎丸中学校、市村佳恵の対決。これは吉田が勝利し、団体戦での勝敗は同点となった。

続く大将戦が全てを決める。学校の勝敗を背負い戦う最後の一人は、もちろん、梅崎中学校の柴咲胡桃美と、次郎丸中学校の志賀琴葉である。

胡桃美と琴葉が試合場に立つと、二人の間の、今にも燃え盛らん限りの熱い闘志が、武道場を巻き込んでいた。練習試合とはいえ、本番さながらの緊張が辺りを巻き込む。お互いの学校のレギュラーメンバーも、顧問も固唾を呑んで、二人の試合が始まるのを待った。

 二人が一礼をした瞬間に試合はスタート。先に仕掛けたのは琴葉だった。胡桃美が構えると同時に、琴葉が前拳を繰り出す。しかし、胡桃美は尋常ではない反射神経でこれを交わし、さらに中段前蹴りのカウンターをお見舞いした。これが琴葉の溝にヒット。琴葉は蹲ったままその場を立てなくなってしまった。相手チームの顧問が琴葉の元へ行き、琴葉の状態を確認する。琴葉の攻撃の勢いと、胡桃美の攻撃の勢いが合わさりかなりのダメージをおってしまったようだ。

 胡桃美は、そんな琴葉を見下ろし、仁王立ちをしている。「こんなんで棄権とかするんじゃねぇぞ」と、胡桃美は目で語っていた。

そして、その数秒後琴葉は起き上がった。琴葉は、殺気とも言えるほどの威嚇的な目線を胡桃美に向けた。一方、胡桃美は、周りで応援している人すらも委縮するほどの、威圧感を放っている。

そう。これがこの二人の闘いなのだ。周りで見ている観客ですら声を失うほどの気迫のぶつかり合い。小学四年生の初めての対決以来、この二人が試合をすると、あまりの激しさに周りの者を釘付けにするのだ。

カウントは2-0になったが、胡桃美の蹴りは怪我に繋がると判断され、忠告を喰らってしまった。だが、この二人にとってはそんなことはどうでもいい。今、この試合を全力で楽しめればそれでいいのだ。

次は、琴葉の猛攻が続いた。鳩尾に深いダメージを負っているとは思えない程の攻撃の嵐。反応して交わすのがやっとな胡桃美。空手の実力では、圧倒的に胡桃美よりも琴葉の方が上手であった。

胡桃美は技の読み合いはしない。相手の出方を伺うこともしない。戦術など考える気すらない。ただ目の前の攻撃を避けながら、攻撃することの繰り返し。これは、胡桃美が持つ、人間離れした圧倒的な直観力と反射神経があってこそなせるものだ。

 琴葉のスコールのような猛攻を、反射神経だけでかわす胡桃美。その最中、胡桃美は直観で攻撃に転じた。相手の上段前突きを右に交わし、中段突き。完璧な技ありとみなされ、カウントは3-0。

 胡桃美の直観にやられた琴葉は、さらに闘志をむき出しにする。琴葉も胡桃美も、ひたすら攻めるスタイルだ。それは、昔から全く変わっていない。だが、琴葉は胡桃美と違って、何も考えずに攻めているわけではない。そこにはしっかりとした「攻めの論理」があった。
ポイントを取られてでも、攻撃した時の相手の反応を見て、相手の好む型と好まない型を分析しているのだ。琴葉は、それらを見極めるために、とにかく序盤は多少ポイントを取られてでも、ひたすら攻めに行く。攻めて攻めて攻めまくることで、相手から搾り取れる反応の絶対数を稼ぎ取り、好む型と好まざる型をあぶり出しにかかっているのである。それらが分かれば勝つのは容易。

人は無意識的に好む方に意識が傾く。例え、好まない方を選んだ方が有利だったとしても、気付かないうちに好む方に手が伸びる。人の好みとは、得手不得手を克服した強者に立ちはだかる、高さの見えない不可避の壁なのだ。

相手の好む型を見極め、好まざる型の可能性を消し、攻撃に転じる。それが、琴葉の常套戦法であった。琴葉のこの戦術は、絵美の見立ての範疇を大きく超えるものであった。

一方胡桃美に戦術など一切なし。攻撃が来たら避けて、攻めやすそうなところを直観で見極め、狙い撃ち。ただそれだけである。胡桃美は何も考えずに、感覚で戦っているため、何をしてくるか全く予測が付かない。おそらく、槇谷ですら攻撃に転じる瞬間を見切ることができないであろうし、毎日組み手をしている絵美ですら予測不能だ。

 そんな空手をする胡桃美だからこそ、好む型と好まない型が明確に現れることを、琴葉は今までの戦歴から知っていた。そして、その型が小学校の頃から、ほぼ変化してないことも、試合開始からほんの二分で見抜いた。三点負けているこの状況だが、胡桃美が避けて通っている攻防の型を導き出せた。後は、胡桃美の好む型では、防御不可能な攻撃を繰り出すだけ。

琴葉の策にハマった胡桃美は、気が付けばカウントは6-3と、逆転されていた。

 試合終了間近、胡桃美の直観は、琴葉の戦術の核に迫っていた。

何だろう。何となく向こうのペースに乗せられてる気がする。てか、琴葉と戦うといつもそうだ。攻めたいように攻めて、避けたいように避けてるのに、何故かポイントを取られてるのは私。何でだろう? やりたいようにやってるのに負けるってどういうことなの? なら嫌いな攻め方してみたらいいのかな? 絵美みたいにフェイントとかかけて。なんか、真っ向勝負じゃない感じがして嫌いだし、そもそもフェイントに引っかかったことなんか、私はないから本当に有効なのかも分かんない。でも、やり方は絵美がやってるの真似ればそんなに難しいとは思わない。フェイントとかじれったくて面倒だからしないだけで、やろうと思えばやれる。

 この胡桃美の直観は的を射ていた。余りにも反射神経が良すぎて、見てから行動できる胡桃美には、フェイントは通じない。フェイントを意識せずとも完封できるからこそ、フェイントの有用性が分からないのだ。

 琴葉が見抜いた胡桃美の好まざる型は、正しくそれだった。フェイントがないからこそ、目に移る攻撃だけ見ればいい。そして、どうせ見抜かれるなら、琴葉もフェイントなんかしない。その代わり単純な攻撃に意識を集中できた。つまり、技の読み合いではなく、純粋に空手の技術勝負に持ち込むことができる。胡桃美の技術では、琴葉にどうあがいても叶わない。

 胡桃美は、勝つために自分の好みを捨てた。

フェイントを起点とした攻撃。それは絵美の見様見真似だから、回し蹴りに限るがそれだけでも、十分に琴葉のペースを乱すことに成功。フェイントの選択肢のない琴葉は、あっさりと胡桃美に上段回し蹴りを決められた。カウントは6-6の同点となる。この瞬間、試合終了となった。

 この後総当たり戦を行うため、時間の都合上、練習試合では延長戦はない。これで団体戦の勝敗は中体連に持ち越しという形になった。

 最後の最後に、琴葉の戦術を直観で破った胡桃美。悔しさを露わにする琴葉は、胡桃美に言った。

「何で……。フェイントかけるの、昔から大嫌いだったじゃない」

「試合は最後まで分かんないんだよ。相変わらず、詰めが甘いね。嫌いだからフェイントをかけないと決めつけてるから、対応できなくなるの」

 それは、小学校の頃に胡桃美が琴葉に感じていたことでもあった。だが試合中に、何のためらいもなく、自分が嫌う型を取るなんて、普通はあり得ない。少なくとも琴葉は経験もしたことがない。嫌いな型を行うには、ある程度の感情的な負荷をかけることになる。躊躇いや違和感、自信のなさなど、その負荷は一瞬のせめぎ合いにおいては致命的なはず。それを恐れずに、嫌いな型を取る。胡桃美の行動には、琴葉の論理は通用しなかった。

総当たり戦の結果は、胡桃美は予測不能な動きで槇谷を翻弄し勝利、一方絵美は琴葉と引き分けた。練習試合終了後、胡桃美と絵美は、胡桃美の自宅前の公園で、十時過ぎまで反省会を行った。

柴崎胡桃美11 繋がりを結ぶ公園

練習試合が終わった翌日の夜、胡桃美は大親友の奈々に電話をかけていた。LINEの呼び出し音が鳴りだしたかと思うと、直ぐに奈々の声が聞こえてきた。

「あ、奈々! おつかれ~」

 話したいことが多すぎて、声が勝手に弾みだした。

『おつかれ、クルちゃん。何か今日、やけにテンション高くない?』

「うん。昨日、琴葉と試合したから報告しようと思って」

『ん? 琴葉って確か、小4の時、私が試合見に行った時に、クルちゃんが決勝で戦ってた子?』

「そうそう。その子が次郎丸の大将だったの」

『マジ!? そんな偶然ある? で、勝った?』

「いや、引き分けだった。やっぱ、琴葉は強いよ」

 すると、胡桃美は、電話越しに奈々が微かに笑う声が聞こえた。

「何で、笑ったの?」

『いや、やっぱ昔に比べて、クルちゃん、本当に素直になったなって思って』 

「どこが?」

『相手のことを強いって認めるところとか。昔のクルちゃんだったら、考えられないもん』

 そこまで言われる程、私は突っ張っていただろうか?

「まぁ、実際に強いからねぇ。負けん気も」

 今度は電話越しから『キャハ』と派手に笑う声が聞こえてきた。奈々が楽しそうで何よりだが、笑いのツボが余りに浅くて、たまに置いてけぼりを喰らってる気分になる。

『それ、クルちゃんが言う?』

「まぁ、私も負けん気強いけど……」

『うん。試合中の威圧感とか、本当に鬼なのかな?って思うもん』

 それを言われると、前回鬼呼ばわりされたことにも納得がいく。

「そりゃ、負けたくて試合なんか出てもね」

『それもそうだね』

 沈黙が訪れた。そろそろ話題の変え時だ。そう思って、最近よく公園で絵美と話すって話題を出そうとしたら、奈々も同じく公園の話題を出した。

『あ、そういえばね。昨日私、クルちゃん家の前の公園に行く夢見たよ』

「そうなの?」

 まさか、絵美と私が話すっていう正夢じゃないだろうな?

『うん。あの頃みたいに、崚馬君と亮太君と私達の四人で遊んでた』

 絵美のことじゃなくて、あの二人か……。今、どうしてるんだろう。最後にあった時のことは今でも鮮明に覚えている。忘れられるはずもない。あんな話を打ち明けられた後に、会えなくなったんだから。本当はずっと心の隅っこに棲み付いて、離れてくれなかったんだから。そして、それは奈々も同じだったようだ。

『クルちゃん、私ね。五年前に渡した手紙にも書いたけど、未だにずっと気になってたんだよね。あの兄弟のこと』

「私もだよ」

『あの日の亮太君、どうしても助けを求めてたような気がしてならなくて。五年経っても、最後にお別れした時の亮太君の顔が、頭から離れない』

 私は、亮太君が奈々に助けを求めた理由が分かる。家に帰ると、ヤクザに襲われるからだ。真実を話せば、奈々は怒るだろうか。「何で今まで教えてくれなかったの?」って。

 でも、いくら奈々でも、人の家庭の深刻な話を軽々しく口にできない。崚馬の気持ちを考えると、口外することすら重い。

 ――だからごめんね。やっぱり教えられないよ。

「私だって、今でもあの公園見る度に思うよ。また、仲良く、元気に公園で遊んでる姿が見たいなって。二人が突然いなくなっちゃったから、嫌なことばっかり頭に浮かんでくるだけだよ。もしかしたら、奈々みたいに引っ越しただけかもしれないじゃん。きっと元気にやってるよ」

『うん、そうだといいな』

 奈々の言葉に、力を感じなかった。どうやら、あまり心は晴れてないみたいだ。そして、明るい話題に話を移し、少し話して電話を切った。

自分でも、奈々が感じている不安の方が正しいと思っている。引っ越しなんかじゃないし、もしかしたらもう……。二度と、二人で遊べない環境にいるのかもしれない。

奈々に対して言った言葉は、奈々を励ますためにかけた言葉じゃない。事実を知っているからこそ、嫌な想像を自動的にしてしまう、自分を止めたかっただけだ。

でも、止めないと自分が傷つくから。自分が悲しくなるから。会えないってだけで、寂しいのに……。

自分の想像の中に事実がある。何故かそんな確信だけが心にあって、ずっと朽ちてくれない。分かんないじゃん。ヤクザに殺されたんじゃないのかとか、酷い生活を強いられて、苦しんでるんじゃないのかとか……。そんなこと考えても、自分が苦しいだけじゃん。何で、やめたくてもやめられないの?

胡桃美は、公園に誘われるかのように外に出た。五年前に、奈々が転校を告げに来た日の時のように、あの兄弟と会えない寂しさに浸りたい。そんな気持ちになった。

今日は、やけに月明りが明るかった。ふと空を見上げると、今夜は満月だった。星も、いつもよりもくっきりと見えるような気がする。陰りのない円形の月が形作る木の影が、その下にあるベンチを綺麗に覆っていた。胡桃美は、そこには社会から分断された、特別な世界があるように思えた。その影に包み込まれたら、静寂の中で、絶え間ない寂寞に浸りつくせる気がした。

あの時同じように、胡桃美は木の下のベンチを求めて、ゆっくりと歩いて行った。木の影でよく見えなかったが、そこに先客がいると分かったのは、ベンチの正面まで来た時だった。

 先客は、胡桃美が正面に立ってもずっと俯き続けている。「彼」は、公園の雰囲気に完全に溶け込んでいた。ベンチの目の前に来るまで、全くその存在に気が付かなかった。風景の一部だと錯覚するほど、この公園と調和していた。

胡桃美は、そんな人物を一人だけ知っていた。骨の髄まで染みついた感覚と、心の最深部に刻まれた記憶が、胡桃美にその答えを与えた。答えにたどり着いた胡桃美は、次第に公園の一部と化していった。そして胡桃美は、「彼」が創生している空間へと飛び込んでいった。

黒川崚馬12 二人の変化

崚馬の隣には、いつの間にか胡桃美がいた。五年間、よく一度も会わなかったなと思う。さて、何から話せばいいのか。とりあえず、何も言わずに姿を消したことは、謝った方が良いかもしれない。

何を話せばいいか分からなくて、話すことを考えている間に、胡桃美が話し始めた。

「五年ぶりだね」

 一言めで分かる。胡桃美も、五年間で大きく変わったことが。あの当時のような、人を避けるようなオーラを感じない。むしろ、弱いものを守り、包み込む衣のようなオーラをしている。今の胡桃美なら、亮太も怖がらなかっただろう。

「そうだな」

 単調なやり取り。五年前とは真逆。あの頃は、俺が会話を回していたはずなのに。

「ずっと、待ってたよ」

 これが、あの胡桃美なのだろうか? こんなに、優しく寄り添う胡桃美の姿など、俺の記憶にはない。

「ごめん……」

 俺の謝罪を聞くと、胡桃美の顔がこちらに向いた。俺を見つめる胡桃美の目からは、色んな気持ちが読み取れた。ここまで生きたことへの慰労、過酷な環境に追い詰められたことへの憐憫。そして、思い出溢れるこの場所で再開できたことへの愉悦。その全てが、俺に居場所を感じさせた。

「別に責めてないよ。私が、今感じてるのは、崚馬君にもう一度会えて嬉しい。それだけだから」

「まだ、そんなこと言ってくれる奴が、いたんだな」

「当たり前じゃん。ずっと、会いたかったんだから」

 人間、心が真っ黒に濁りきると、人の優しさが心に痛く突き刺さるものなのだろうか。俺の身を案じる人間なんか、祖父くらいしかいないと思っていた。いっそのこと、そんな人間、誰もいなくなった方が良いとさえ思う。故意に傷つけるよりも、人の善意を踏みにじる方がよっぽど痛いんだよ。

何で、こんな俺に、そんなにも優しくできるのか分からない。突然、俺がこの公園から姿を消して、胡桃にはかなりの心配をかけたはずだ。もしかしたら、傷ついたかもしれない。

俺なんか、責められてしかるべきだ。それだけのこともしてきた。本来なら虐げられて、蝮でも見るような目で見られても文句を言えない人間だ。なのに、何でそんなに、俺との再会を切望してくれていたんだろう。

気付けば俺は、無言になっていた。止まってしまった会話を、胡桃美が繋ぐ。

「さっきね、奈々とも崚馬君のこと話してた。奈々なんか、昨日、あの頃みたいにここで崚馬君や亮太君と遊ぶ夢、見てたんだって」

 亮太か……。今となっては、夢ですら遊べなくなったというのに。

「じゃあ、これからは奈々に迎えを頼もうかな」

「いや、それはお兄ちゃんが行かないと」

 胡桃美に諭し方は、とても暖かかった。

「もう、迎えに来なくていいって言われたんだよ」

 反射的に胡桃美は目を見開いた。昔は狐みたいに真一文字だった目つきが、大きな楕円形になっている。だが、胡桃美の顔は、直ぐに俺を気遣う表情に変わった。

「一体、あれから何があったの?」

 いずれは聞かれると分かっていた、胡桃美の疑問。だが、なかなか声にならない。沈黙が、二人の空間の空気を変えていく。言おうとしても言えない葛藤に巻き込まれた崚馬。胡桃美はいつまででも崚馬を見守り、答えを待ち続けるだろう。

 言葉を忘れたわけじゃない。言葉にならないんだ。あまりにも重過ぎて。心に残っているだけの場合と、言葉にするのとでは、現実味がまるで違う。今まで、現実から目を背けてきたせいで、より一層現実を実感させられる言語化から、逃げ出す自分がいた。

 傍で寄りそう胡桃美から、親身な言葉がかけられた。

「無理して言わなくても大丈夫だよ。ごめんね、私が無神経だった」

 いや、本当に無神経と言うべきは、その気遣いの方だ。その優しさが、俺の心を締め付ける。綺麗な心に触れることの方が苦しいんだよ。

 だが、何も言わないのも胡桃美に申し訳ないので、言えることだけでも言おうと思った。
「今まで……」

 崚馬が語り始めると、胡桃美の意識が崚馬に集中した。

「俺は、ずっと、非行を繰り返してきた。千賀に行ってオヤジ狩りをし始めたのは、二年位前だったかな?」

 胡桃美は、オヤジ狩りという言葉を聞いて、何かを思い出したかのような表情をしていた。何か、オヤジ狩りに心当たりでもあったのだろうか。だが、直ぐに胡桃美は崚馬の話に集中した。それを確認し、崚馬は続きを話すことにした。

「俺は、大人を恨んでいた。あんなに幸せだった家庭を、汚い大人に奪われたから」

 胡桃美の記憶は、ヤクザに襲われたことを話した日から止まっているはず。これから話すことは、胡桃美の知らない真実。それだけに、胡桃美の傾聴の姿勢は、より深いものとなった。

「最後に胡桃美と会った日から、九日後。また、ヤクザは俺の家を襲った。父親は、借金取りから逃げ出す始末。亮太はヤクザに攫われ、母は心の病に侵された」

 こんなことを言えば、胡桃美はショックを受けるに違いないと思っていたが、そんな様子は微塵もない。同情も憐れみも感じない。ただ俺という存在と、その人生の全てを受け入れようとしている。胡桃美はそんな覚悟を秘めた表情をしていた。崚馬は、そんな胡桃美の気持ちを支えにし、自然と心を胡桃美に預けることにした。

「それからは、父とヤクザのような汚い大人に報復することだけを考えて生きてきた。そんな奴らがこの世に蔓延って、のうのうと生活していることが許せなかった。『自分のことしか考えない大人は、平気で子どもを傷つけ、お金儲けの道具にするの』。あの日、胡桃美に言われたこの言葉は、間違ってなかった。闇金は自分の利益のことしか考えてない。父親は、自分の身を守ることしか考えてない。そのために、亮太も母さんも犠牲になった。絶対に許せなかった。何で、あんな奴らのために亮太が死なないといけないんだ! 何で、母さんが壊れないといけないんだ! 何で、俺がこんな生活を強いられないといけないんだ! 俺が、一体何をしたって言うんだよ!!!」

 初めて、心にあるものを押さえることもせず吐露することができた。それでも、まだ足りなかった……。崚馬の心を蝕んでいるのは、恨みだけではなかった。

「でも、自分の不遇感に振り回されて、八つ当たりをしても、結局自分に跳ね返ってくる。非行を繰り返して、誰かを傷つけた自分を責める時が来る。精神のバランスを取ろうと思って、誰かを傷つけても、その時だけは良くても、後で苦しいんだよ。こんなことやってる俺を支えてくれる祖父のことが頭に浮かぶと、胸の中に潜んでる何かが暴れ出す。自分でも分かる。おかしくなってるなって」

 胡桃美はずっと、話を聞いてくれていた。まるで言語理解能力と共感能力を持ったぬいぐるみのように、ただ崚馬の話を受け入れるためだけにそこにいてくれた。隣にいたのが、胡桃美ではなかったら、俺は一生の心のわだかまりを発散することは出来なかったかもしれない。

 崚馬の心から溢れ出た言葉は、新たな感情を呼び寄せた。どんなに世の中を恨んでも、自分の行いを後悔しても、最後に行きつく収束地点は常に一つだった。

 このまま終わってたまるか……。絶対に。

柴崎胡桃美12 胡桃美の誓い

「このまま終わってたまるか……。絶対に」

 崚馬の口から呟かれたその言葉は、まるで吐息の如く小さく、微かに胡桃美の聴覚を刺激しただけであった。しかし胡桃美の直観は、その言葉こそが、崚馬の本質であると確信した。

 自分を変えたい。環境に負けたくない。今を乗り越えたい。

 胡桃美は、崚馬が放った言葉の裏にある、感情を読み取った。そして、強く共感した。共感は、胡桃美に新たな意思を呼び起こした。絶対に私が変えて見せる。そんな、強く揺るぎない意志を。

 胡桃美は、崚馬から絶対に離れないと、この場で自分の胸に誓った。

ふと胡桃美の頭に、先日ここで出会った女性の姿が頭に過ぎった。何年もの間、心に潤いを与えられることもなく、乾ききった生活を続けていた、あの女性の姿が。このままじゃ崚馬もあんな風になってしまう。私も、奈々がいなかったら、今頃どうなっていたか分からない。

 人を奈落に導くのは孤独なのかもしれない。そして、人を奈落の底から助け出すのは、孤独を排する信頼の置ける他者の存在。胡桃美は崚馬の中で、そんな存在になりたいと、強く思った。

 あの日の憧れが私を変えた。毎日この公園で弟と遊ぶ崚馬を見て、私もあんな風になりたいと、切に願うようになった。

 しかし、思うようにいかない現実を前に、私は孤独に逃げた。一人でも強くなりたいと、願いをすり替えて、本当の自分から逃げた。そして、私は孤独に固執した。そんな私を救ったのが奈々だった。

 崚馬も今、孤独に固執しようとしている。そんな崚馬を助けるためには、再び奈々の力が必要だった。奈々とお別れをしたあの日に受け取った、奈々の気持ちが凝縮された手紙。そこには確かにこう書かれていた。

 無理して一人でいるくらいなら、私みたいな人を助けてあげてほしい。

 それが奈々の願い。その願いを叶えるのが今だ。どんなに強い人でも、孤独には打ち勝てない。それを身をもって知っているからこそ、私は崚馬を救って見せる。私から決して離れなかった、奈々と同じように、私も絶対に崚馬を見捨てない。

 そんな決意を言葉に込めて、胡桃美は言った。

「終わらせないよ。絶対に」

 ずっと俯いていた崚馬の顔がこちらに向いた。曇りがかった崚馬の目を真っ直ぐに見つめて、胡桃美は言った。

「私がついてる。これからやり直そう」

 再び崚馬は俯いてしまった。そして、吹き抜ける風に攫われる程小さな声で、崚馬は呟いた。胡桃美は、口の動きでその言葉を読み取った。

「もう、無理だよ……」

「そんなことはないよ」

「お前に、何が分かんだよ!」

 崚馬は、先程とは異なり、悲痛な声で叫んだ。それを、胡桃美は真っ向から受け止めた。

「分からないと手を差し伸べちゃいけないの?」

 叫んだ後の崚馬は、胡桃美の目には、あまりにもか弱く映った。五年間、私は、崚馬が苦しんでいる間に何もしてあげられなかった。もう、絶対に遠くに行かせない。

「何も分からなくても、傍に居て見守ることは出来る。崚馬の話を聞くこともできる。何よりも……、崚馬の味方になることができる」

 崚馬は何も言葉を発さない。何の反応も示さなければ、目すら合わせることもない。だが、言葉は確かに聞こえているはずだ。

「それじゃダメなの? このまま終わりたくないんでしょ? 無理だって決めつけて、何もしなかったら、何も変わらないよ。私は、いつでも崚馬の味方になる。今、私はそう、覚悟を決めた。だから崚馬も、今、覚悟を決めない?」

 胡桃美の誠心誠意が伝わったのか、崚馬は、ようやく胡桃美の言葉に応答を示した。

「何で、そこまで言ってくれるんだよ」

 その問いの答えを探すために、胡桃美は少しだけ間を置いた。少し考えれば、明確な答えは直ぐに頭に降りてきた。
「憧れてたから、ずっと。崚馬に」

「何で?」

 言うのは少し恥ずかしいけど……。でも、崚馬ばかりに本音を吐かせて、私は隠すっていうのも、筋違いだよね。胡桃美は、今となっては微笑ましい、五年前の自分を思い出しながら言った。

「崚馬がいつも、亮太君と遊んでいたように、私も誰かとそうして遊びたかった。でも、できなかった。初めて崚馬に話しかけたあの日、多分、私は崚馬に助けを求めてたんだと思う。まずは、見慣れてる存在で、好感も持てた崚馬と仲良くなって、少しずつ友達を増やして行こうって。崚馬ならきっと仲良くしてくれるだろうなって思った」

 今までずっと重苦しかった崚馬の雰囲気が、少しだけ和らいだ。同時に、胡桃美の心に、安堵感が生まれた。

「実際に仲良くなって、四人で遊ぶのが当たり前になって、いきなり崚馬と会えなくなった。その時に初めて、崚馬の存在の大切さを思い知った。それだけ、大事なんだよ。私にとって、崚馬君は」

 赤裸々に、崚馬への気持ちを告げたのに、崚馬は再び悲痛な表情に戻ってしまった。しばらくは、崚馬に自分と向き合う時間が必要なのかもしれない。自分が伝えたいことを言うだけでは、本当の意味では、相手のためにならないから。

 暫くの沈黙の末、崚馬は語り始めた。

「怖いんだよ……。優しくされることが。優しくしてくれた人すら傷つけるんじゃないかって。俺はもう、何にもできないからさ。恩を仇で返してしまうんじゃないかって。そう思うと、人の優しさが俺の心を痛めつける。今この瞬間だってそうだ」

 これ以上優しくしないでほしい。間接的にそう暗示させる崚馬の発言。だが、そこに胡桃美は、崚馬の核となるものを見た。

「それって、崚馬の心の中に、まだ良心がしっかりと残ってるってことだよね?」

「そうかも知れない」

 崚馬は恐らく気付いていない。自分の心の本質を。そして、状況を打開する突破口がそこに隠されていることを。

 第三者としての胡桃美は、いち早くそこに気付き、崚馬をそこに導く意思を言動に示した。

「好きでオヤジ狩りなんかしてたわけじゃない。本当は普通の生活が送りたい。違う?」

 崚馬は強く頷いた。何度も首を振ることが、言葉以上に崚馬の本音を表していた。

 胡桃美は、「やっぱりね」と心の中で呟いた。

「ありがとう。本音を話してくれて。これで私も、崚馬のことを信じられる」

 俯いていた崚馬の顔がこちらに向く。「何故、信じられるのか。こんな自分を」不思議そうに私を見つめるその表情から、崚馬の心は筒抜けだった。

「少しずつ変わろうよ。自分のペースで」

 今度は、軽く頷いた。でも、表情の強張りがかなり緩んでる。心の氷塊が溶け始めた証拠だ。

「多分、大人は信じられないよね?」

 かつて、大人を信じられなかったからこそできる、胡桃美なりの配慮の言葉。それは、崚馬に「自分を分かってくれている」という実感を与えた。

 今、崚馬に対してすべきことは、「どうしても救いたい」という、一方的な善意を向けることではない。今、崚馬の心は、分厚い氷の膜に覆われて、身動きすら取れずに孤独へ向かっている。まずが、そこから解放すること。崚馬に、私を受け入れて貰うこと。それが、今の私にできる最善策。

「うん。祖父以外」

「そうなんだ。一人でも、信じられる人がいてよかった」

 祖父の名が出たことで、希望が見いだせた。誰か一人でも、信頼できる人がいるのと、いないのとでは天地の差だ。

 崚馬は何かを考えていた。何かを決断するには、自分とよく対話し、自問自答する時間が必要となる。今が、崚馬にとってのその時なのかもしれない。

 私は、崚馬が答えを出すのを待っていた。その間に、どんな言葉を崚馬から告げられても受け入れる、心の準備を決めることに集中した。

「あのさ……」

 崚馬の第一声が発せられると同時に、私は全ての感覚を崚馬に捧げた。次に発せられる言葉が崚馬の決断。どんな決断であれ、信じて受け止めるのが、私の誠意。

「今の俺は一人じゃ何もできないから、支えてもらえないか? このまま、終わりたくないんだ」

「もちろん!」

 力強く胡桃美は頷き、決意した崚馬への労いを言葉に込めた。

『このまま終わりたくない』

きっと、ここにまた行きついてくれると信じていた。そして、そのための手段として、私を頼ってくれた。それが何よりも嬉しかった。それは、崚馬が私を受け入れてくれたことを示していたから。

この日を境に、崚馬と胡桃美は頻繁に公園で会うようになった。胡桃美が部活で忙しい時は、携帯で近況を報告し合った。

黒川崚馬と柴咲胡桃美

崚馬と再会してから一か月後。部活を終えて自宅に帰ると、胡桃美の携帯にLINEの通知が来ていた。受信した時間は15時37分。それを見た瞬間、胡桃美に表俵が一変した。風呂に入って、早く汗を流したいという欲すらも消え失せた。

 スマートフォンの画面に表示された、崚馬からのLINEにはこうあった。

『自分が、生きていても良いのか、分からなくなった』

 メッセージをそのままスワイプし、崚馬のトーク画面に移る。そして、崚馬に電話をかけた。だがいつまでたっても、電話越しから崚馬の声は聞こえてこない。胡桃美の危機感はみるみるうちに上昇していった。

 ここ最近の崚馬は、少しずつ安定へと向かっていた。まだ学校へ行ける程ではないとはいえ、祖父との会話も続くようになり、母のことを相談しあうようにもなっていた。確実に、崚馬自身も、環境も変わり始めていた。

 なのに、どうして……?

 その謎を知りたくて、胡桃美は一旦制服を着替えて、崚馬の家へと走った。その間も、何度か崚馬に電話してみたが、やはり応答はない。不安は加速していくばかりだ。

 崚馬の家の前に着くと、ダメ元で電話をしてみた。やはり崚馬は電話に出ない。時間的に無礼と知りつつ、胡桃美は黒川家のインターホンを鳴らした。すると、玄関の扉が開き、崚馬の母、広美の姿が現れた。胡桃美は直ぐに名乗り、要件を告げた。

「柴咲です。崚馬君はいませんか?」

「あら、もう学校から帰ってる時間だけど、分からないわね」

 胡桃美は、何度か崚馬の家にも行ったことがあり、広美とも会ったことがあるので歓迎された。崚馬の家に行くときは二つの留意点がある。広美の妄想世界を壊さないために、亮太が死んだことには触れないこと。そして、崚馬は学校でよく一緒にいる友達という設定を崩さないことだ。

「さっきから連絡してるんですけど、通じなくて」

「ちょっと、確認してみるわね」

 そういうと広美は二階上がり、崚馬の様子を見に行った。その間も、胡桃美は崚馬が無事かどうか、気が気ではなかった。

広美が玄関に戻ると、結果を胡桃美に告げた。

「いなかったわ。もしかしたらおじいちゃんの家にいるのかもね」

 祖父義弘は、崚馬が今、唯一信頼している大人だ。そこにいる可能性は十分にある。

 胡桃美は、広美に義弘の家を教えてもらい、スマホのナビ機能を頼りに、そこへ駆け出した。この時ばかりは、空手で鍛えぬいた自分の身体を褒めた。体力が持ってくれればそれだけ長く走ることができる。そして、走る時間が長ければ、その分崚馬の元へ早くたどり着ける。

 少しでも早く崚馬の元へ行き、少しでも長く一緒にいたい。いつでも傍にいて、崚馬が航路を見失ったときの、灯台のような存在であり続けたい。

送られてきたLINEは、一見すると死の暗示に思える。だが、「このまま終わりたくない」と生にしがみつくことを決断した崚馬が、そんなに軽々しく、命を投げ出すとは思えない。それは、生きたいのに生きるという選択肢を奪われた、亮太に対する侮辱であると知っているから。亮太の兄であるという自覚が、未だに崚馬を支え続けていたのだ。

 崚馬は、迷っている。突然進む先に現れた霧が、今の崚馬を悩ませた。光すら射さぬその濃厚な霧。その霧を払うことこそが、私に与えられた使命。

 ――ありがとう。今の迷いを恐れずに私にぶつけてくれて。

 義弘の家に着くと、胡桃美は迷わずインターホンを鳴らした。すると、白髪交じりの温厚な老人が姿を現した。乱れた息を整えながら、胡桃美は言った。

「黒川崚馬君は、こちらにいらっしゃいませんか?」

 崚馬の名を出し、胡桃美がこの家に来た時点で、義弘は状況を察したようだ。

「もしかして、君が小学校からの崚馬のお友達かな?」

「そうです!」

「話は聞いてます。中へ来なさい」

 失礼しますと言い、胡桃美は義弘の家に入った。玄関で靴を脱いで、用意してもらったスリッパに履き替えると、義弘は話し始めた。

「最近の崚馬は、かなり調子が良かった。特に柴咲さんの話をするときはな」

 そんなことを言われると、流石に照れ臭い。

「ただ、その代わり。自暴自棄になることが増えてきた。今日もそれで、家を尋ねてきたみたいだ」

 やっぱりそうだったんだ。今の崚馬は、変わろうと決めて実際に行動に移し始めた。でも、自分を変えるためには、常に自分と戦い続けないといけない。時に、精神が耐えかねることもあるだろう。今がその状態なのかもしれない。
義弘に居間に連れていかれると、そこにはベッドに座っている崚馬の姿があった。その姿を見て、義弘は言った。

「崚馬の元へ、行ってやってください。ちょっと私は用事で二時間ほど留守にするので、後はお願いします」

「分かりました」

 義弘がその場を去ると、胡桃美は今に入って行った。こちらに気付いた崚馬と目が合う。

「LINEを見て来てくれたのか?」

「うん。何があったの?」

「特に何もないよ。俺は、少しずつ全うな道を歩み出してる。その自覚もある」

 それは、胡桃美自身も、これまで向き合ってきた中で感じていたことだった。

「でも、全うな道を歩こうと思うほど、昔、俺が傷つけてきた人達への罪悪感が大きくなる」

 ここ一カ月で、崚馬は確かに変わった。まず、非行をしなくなったのだ。それだけでも、目覚ましい成長と言える。だが、全うな生き方を意識すると言うことは、全うなものの考えも身につき始めたということ。その変化が今の崚馬を苦しめていた。

 人を傷つけることで、自分を落ち着かせていた過去を持つ崚馬。そこから足を洗うと決めたら、今度はかつての過ちに対する罪悪感に打ち勝たなければならないのだ。

「人を傷つけたから、今度は自分が傷つこうとしているの?」

「そうじゃないと、何の理由もなく理不尽に傷つけられた人たちが、報われないだろ?」

「自分が傷つけば、その人たちは報われるの?」

「分からない。でも、犯罪を犯したら罰せられるのは当たり前だろ。だから、俺は罪を償うべきだと思う」

 崚馬の考えには間違いはない。胡桃美は続けて崚馬に問うた。

「償うために崚馬は何をするつもり?」

「警察に自主でもしに行くよ」

「一か月前のオヤジ狩りを、今さら自首しても、警察は仕事しないと思うよ」

 胡桃美は、千賀という街の状況について、それなりの理解があった。何故なら、弁護士である母から、千賀で起きた事件を何度が聞いたことがあるからだ。それは、胡桃美の父親、敦が関わる事件だった。

敦は、自身が経営していた会社が倒産した後、多額の借金を持っていたが、決して返せない額ではなかった。会社が倒産したとはいえ、敦は、手元に数千万もの金を隠していた。自分に金があることが分かると、それで借金を返さなければならない。それを避けたかった敦は、その金を裏社会に回し、表では自己破産を申告。そして、借金を帳消しにしたのだという。

 そこで行われた取引は、百恵はもちろん、警察の上層部ですら手が出せない。何故なら、裏には日本の政治を動かしている人物がバックに着いているからだ。まさかそんな人間が裏に着いているとは知らない敦は、利用されるだけ利用され、今では刑務所での生活を強いられている。

 そういう理由で千賀には、警察が強く踏み込めないことを知る者たちは、麻薬や性犯罪などの取引を行っていた。その他にも、千賀には、警察が対処すべき案件が山ほどある。警察からすれば、中学生が起こすオヤジ狩りなどに、構っている暇はないだろう。しかも、相手は未成年。更生さえすれば、警察としての職務は完了している。

 考え込む崚馬に、胡桃美は声をかけた。

「必死に償おうとしてる時点で、もう一ヶ月前の崚馬じゃないよ。確実に変われてる」

苦悩し、息が荒くなる崚馬を、胡桃美は見守り続けた。さらに胡桃美は、崚馬の隣に座り、背中に優しく手を乗せ、崚馬を落ち着かせた。しばらく、崚馬の背中を摩り、息が整うのを待っていると、崚馬は囁き声で言った。

「変われても……、朽ちてくれないんだよ」

崚馬が話し出すと同時に、傾聴の姿勢を示す胡桃美。これから話すことに、崚馬の苦悩の核となるものがあると、胡桃美は直感的に予感していた。
「俺が今まで傷つけて来た人たちのことが。何度も期待を裏切って、悲しむ祖父の顔が。亮太を守れなかった後悔が! 考えないようにしようと思えば思うほど、意識してしまう。夢にまで出て来て、魘されて起きることもある。もう、どうすればいいかわかんないんだよ!」

少しずつ更生し始めた、崚馬を思い悩ませているのは、大別すると二つの回避行動だった。もう二度と、あんな空虚な生活には戻りたくないという、過去からの回避。そして、過去の過ちからくる罪悪感からの回避。

前者から逃げれば、今の罪悪感に蝕まれる。そして、後者から逃げれば、また同じことを繰り返す恐怖に苛まれる。

だが、今は両方の回避行動が同時に起こっているが故に、二つの苦しみを同時に背負うことになっている。逃げたくても逃げられない、その行き場のなさが崚馬を追い詰めた。

胡桃美に導かれるように選んだ「変わる」という道も、見果てぬ先まで「罪悪感」という茨が続いていた。どこまで傷を負い続ければ、この茨を掻い潜れるのか分からない。そんな不安が、崚馬の精神力を弱めた。

胡桃美は状況を変えるために、話を初心に戻すことにした。

「今でも、このまま終わりたくないって思ってる?」

「終わりたくない!」

即答だった。やっぱり、今の崚馬は「このまま終わりたくない」って強い気持ちによって支えられていることが、確信できた。

胡桃美の直感は、直ぐにそこに突破口があると、見立てていた。

「どうしてそう思うの?」

――このまま終わりたくない

その気持ちを深く掘り下げて、崚馬自身で自分の心の本質に気付かせる。胡桃美は意識していないが、そうすることがベストだと胡桃美の本能が知っていた。

「じいちゃんにも申し訳ないし、亮太もこんな俺の姿は見たくないと思う」

この答えから、崚馬の中では、『恩を仇で返したくない』ということと、『亮太の兄である』という自覚。この二本の揺るぎない軸から、『このまま終わりたくない』という気持ちに至っていることが分かった。

胡桃美は、まずその気持ちに共感を示す。

「そうだよね。だからこそ、私もこのまま終わらせたくない」

崚馬の表情が僅かに明るくなった。この反応から、崚馬の心がこちらに向けられたことがわかった。それを確認して、胡桃美はさらに続けた。

「私は、崚馬のこのまま終わりたくないって気持ちは、物凄く大事なものだと思う。何事においても。大抵の人は、辛くなったら気持ちが折れて諦めてしまう。でも崚馬は……、心が折れそうになっても、必死に、『このまま終わりたくない』って気持ちにしがみついて、自分を変えようとしてる」

「でも罪悪感には勝てない」

「でも、まだ、負けてもない!」

崚馬の反論に、間髪入れずに胡桃美は答えた。

一瞬、崚馬の表情がハッとなり、胡桃美の方に視線を向けた。胡桃美はその心の動きが知りたくて、ジッと崚馬の目を見つめていた。

「まだ……負けてない?」

胡桃美は、崚馬の言葉に答えを求める響きを聞いた。

「まだ戦ってる。自分の中の罪悪感と。そうじゃないの?」

崚馬は小さく、しかし確信を込めて頷いた。

「でも、一人じゃ勝てそうにない」

胡桃美の言葉に、崚馬は、今度は大きく頷いた。

「だからこそ、私がいる。一人で不安や罪悪感に勝てる人間なんていないんだよ。だから、皆、友達を作って、恋人を作るんじゃないの?」

「そうかもしれない」

「私はそのことを、奈々と崚馬に教えられた。一人じゃないって思えた時の心強さを、崚馬は知ってる?」

「今の俺には、想像がつかない」

「だったら今度は私が教えてあげる。孤独の弱さと、繋がりの強さを」

崚馬は何か、納得していない様子だった。真剣な場で齟齬が起きるのは避けたい。だから、胡桃美は発問を試みた。

「何か、モヤモヤしてることがあったら言って欲しい」

「いや。胡桃美の言ってることはその通りだと思うよ。でも、俺が変われないと、胡桃美の時間が無駄になる。それが嫌なだけだよ」

――祖父、亮太ときて、その次は私に対する申し訳なさということか……。

胡桃美は崚馬の肩に両手を当て、真っ正面から向き合った。そして、崚馬の目を真っ直ぐに見ながら言った。

「そんなこと考えなくていい。私は崚馬が変われないなんて、一度も思ったことがない。だから崚馬も自分を信じて」

言い終わると目をそらされた。私の覚悟が通じなかったのだろうか……。

「信じろと言われても、自分が罪悪感に勝てなくて、誰かに失望されるのが怖い……」

 人が離れていくことへの恐れ。人として当たり前の恐怖だ。その恐怖を消せば、崚馬はまた立ち上がれる。でも、ここでその恐怖を拭えなければ、崚馬はこれからも、また同じ恐怖に悩まされるだろう。

 だから、今、私がその恐怖にケリを付ける!

「私は失望なんかしないし、何があっても崚馬に寄り添う! 今の崚馬は、一人じゃないんだよ? 私がついてる! だから、何も怖がらなくてもいいんだよ!!」

言い終わってから気付いた。相当な力で崚馬の肩を握りしめていたことを。だが、そこに本気の気持ちが現れたのか、再び崚馬は胡桃美に向き直った。

そして、何かを決意したように、崚馬は語り始めた。

「まだ、時間はかかるかも知れないけど……。今を乗り越えるまで、ずっと俺のそばにいてくれるか?」

 答えは決まっている。言葉だけではなく全身で、胡桃美は自分の覚悟を示した。

「もちろん」

すると、不安や罪悪感から解き放たれたのか、一気に崚馬の表情が軽くなった。気付けば胡桃美は、そんな崚馬を、強く抱きしめていた。崚馬はよそよそしく、胡桃美に応じた。そして、胡桃美の肩に顎を乗せ、一言呟いた。

 ありがとう……。

黒川崚馬13 真相

ある日、崚馬が家に帰って来た時に、唐突に祖父、義博に実家に来るように呼ばれた。実家に着くとまず先に渡されたのは、一つの封筒だった。

「これは?」

「お前のお父さんの、遺書だよ」

「遺書!?」

 崚馬は自分の耳を疑った。

「黙ってて悪かった。お前は、龍一さんについて、誤解している」

 義博の言葉の意味は理解できた。しかし、突然の言い放たれた言葉は、今まで自分が抱いていた過去の記憶と、大きく矛盾するものであった。そんな言葉をそう簡単に受け入れられるはずがない。

「今まで疑問に思わなかったか? なぜ急に、龍一さんが姿を消したのか」

「それは……!」

「逃げたんじゃない」

 崚馬が語る前に、義博により否定されたその事実は、確かに崚馬の心を、五年もの間、揺さぶり続けていたことでもあった。

「お前のお父さんは、家族を守って死んでいった」

 あの時、母に父の安否を問うも、毎度毎度帰ってくる言葉は「逃げた人のことなんて、知るわけないじゃない」というものだった。しかし、その母の言葉の中に、はぐらかすかのような響きを確かに感じていた。その不信感は拭われることもなく、母は精神を病み、記憶を失った。

もはや、真相を確かめることは不可能となったが、あれから約五年の月日が経った今、この時に、祖父により解き明かされることになるとは思ってもいなかった。

 だが、龍一が家族を守ったとすれば、亮太の件はどう説明するつもりなのか。そんな疑問に、義博は間を置かずに答えた。

「それは、闇金業者に嵌められたんだ」

「どういうこと?」

「話は後だ。先ずは、龍一さんがお前を守ったという事実を確かめなさい」

 そう言うと、義博は崚馬に封筒を手渡した。その中には古びた紙が一枚入っていた。

 明らかに何回も読み返された形跡のある、その手紙にこう書かれていた。

 

 

   広美へ。

  私は、広美に謝らなければなりません。結婚を決めたとき、私は、父の連帯保証人になっていることを隠し、実家に仕送りをしなければならないと言いました。あの時の私は、連帯保証人も普通保証人も変わらないものと感じており、何の考えもなしに、書類に藩を押しました。しかし、そんな私の軽率な行いが、一家崩壊を招くとは思ってもいませんでした。

   誤っても許されないことは分かっています。でもせめて、償いだけでもさせてください。私は、家族の幸せを願っています。それを、態度で証明させて欲しいのです。私は、現状を打開するために、ある方法を考えました。私が、やることを黙って見守っていて下さい。そして、この遺書に書かれたことは、誰にも見せてはいけません。子どもたちにも、あなた以外の他に誰にも。そうなった瞬間、作戦は台無しになってしまいます。だから、この手紙を読んだ後は、この手紙を燃やして灰にしてください。

 

単刀直入に言うと、私は明日、死にます。

事故にあって死にます。そして、私が事故死した際の死亡保険で、借金を返済します。これは闇金業者と契約したことでもあります。やつらの指定の場所に、指定の時間に向かうことで、私は事故で死ぬことになります。

明日以降、広美にはやるべきことがあります。それは、私の死亡保険金を受け取ることです。所得税を支払うことで、受け取りは完了します。受け取る際の手続きなどは、保険業者に聞いてください。おそらく、私の事故死が断定されて、一週間もすれば、私の通帳に保険金が振り込まれるはずです。そのお金で、闇金に借金を返済してください。

 

最後に、私の尻拭いをさせるようなことをさせて、申し訳ありません。しかし、私の手取りでは、確実に一家は崩壊するのも時間の問題です。それに、この件は、私の家庭の問題ですので、私にけじめをつけさせてください。

 

私が愛した家族と、幸せに暮らしてください。息子たちを、頼みましたよ。

黒川 龍一

 

 

ところどころ、シミになっているのは、母が遺書を読みながら流した涙によるものだろう。そして、そのシミの数は、崚馬の涙により、さらに増やされることになった。

父親の死の真相を知った崚馬は、亮太が何故、殺されたのか、察しがついた。

「亮太は……、闇金の強欲さに殺されたんだね?」

 その問いかけに、祖父は静かに答えた。
「そうだ。龍一さんの死亡保険金により、借金は完済させるはずだったが、保険金を支払われるまでにかかった日数は、月々の返済期日に間に合わなかった。それは、闇金業者の陰謀だ。そうなるように計算して、龍一さんを殺害したんだ。そして、返済期日の遅れを理由に亮太君は、攫われた」

「闇金が家の鍵を持ってたのは」

「おそらく、龍一さんを事故に見せかけて殺害したときに、鞄の中からくすねたのだろう。広美がいないときを見計らって、亮太という人質をとるためにな」

義博の言葉が、ゆっくりと脳内に染み込んできた。同時に、言い表しようもないほどの、闇金業者に対する憎しみが湧き上がる。

 そんな様子の崚馬から、確かな殺気を感じた義博は、崚馬の肩に両腕を乗せ言った。

「気をしっかり持て、崚馬! あいつらとはもう終わったんだ。妙な気を起こすな!」

 決死の義博の説得も、今の崚馬の怒りを掻き立てるだけだった。

「あんたは、所詮関係ない人間だからそんなことが言えるんだ。自分の、弟の命を悪戯に奪われてみろ!! 自分の母の精神を壊されてみろ!! あんたに、この気持ちの何が分かるんだ!!!」

 崚馬の叫び声を全身に受けた義博は、図らずもその攻撃的な言葉と、真っ向から衝突する言葉を吐いた。

「お前の母と弟は、俺の娘と孫だ! 自分だけが被害者かのような言葉を吐くな! 俺だってあいつらが憎い!!」

 義博も、自分と同じ怒りを感じていることを自覚した崚馬は我に返った。そして、握りしめた拳を、何度も、何度も床に叩き付けながら泣き叫んだ。

怒りの矛先を見失った虚しさを、その拳に込めて。

「うわあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」

 義博は、そんな崚馬の背中に顔を当て、後ろから崚馬を抱いた。自らの目から零れ落ちる大粒の涙が、崚馬の服を濡らした。

やがて、床を叩き付ける拳は止まり、叫び声も止んだ。血まみれになった拳から、一滴、二滴と血が滴り落ちる。崚馬が落ち着くと、義博は崚馬の背中から手を離した。

力なく立ち上がった崚馬は、義博を見つめた。拳はグローブのように腫れ上がっている。

「じいちゃんは初めから知ってたの?」

 崚馬は囁くような声で言った。

「俺も、最近見つけたんだ。広美の部屋の畳を替えようとしたときに」

「なんで、捨てなかったのかな。見つかったら計画は台無し。父さんは無駄死にすることになるのに」

 義博は崚馬の父親の呼び名が、『あいつ』から『父さん』に戻っていることに気付いた。

「さあな。愛すべき夫が、最後に残した手紙だったから、捨てようにも捨てられなかったんじゃないのか? あの手紙、明らかに何度も読み返されてるしな」

「そういうもんなの? 夫婦って。だって、父さんのミスが一家を粉々にしたんだよ?」

「それでもだ。お前らだって龍一さんに支えられて、それなりの感謝の気持ちがあるだろ? 夫婦ならなおさらだよ」

 崚馬の脳内に、十年前の生活が蘇る。ずっと思い出さないようにしていた記憶が、頭の中に流れ込んでくる。

亮太いた。龍一がいた。広美がいた。そして、そこには確かに幸せがあった。そんな生活が跡形もなく消え去るなんて、想像すらできなかった。

かつて聞いた蝉の鳴き声。「お兄ちゃん」と呼ぶ弟の声。家庭を支える母の存在。そして、家族を守る父。

 過去の暮らしが崚馬のこころに満ちていく。何処かへ飛び去った「魂」が、再び体に舞い戻る。

 あの幸せは確かにあった。こころのどこか、目には見えないくらい、深い深い闇の中で、ずっと淡い光を灯し続けていた。

 やっと見つけ出した、少年の自分。あの日から抜け落ちていた思い出。幸福に満ちた時間。

 記憶に浸りながら、崚馬は過去に誘われるかのように目を閉じた。

目を閉じ、意識を失うと声が聞こえてきた……。声の主は、暗闇のなかで淡い光を灯した、「星」だった。

『お兄ちゃん』

長い間、聞くことのなかったその呼び名に、自然と耳が傾く。

 ――そうか、お前はもう……。

『お兄ちゃん、知ってる? セミってね。元々はこの抜け殻の中にいたんだよ!』

――抜け殻……。

『それでね! ほんの短い間だけ、僕たちと遊ぶ時間を作ってくれるんだ!』

――俺たちと……、遊ぶ時間?

『そう! 僕たちのためにね! だから僕も、セミさんのこと忘れないように、抜け殻をポケットにしまっておくんだ!』

 ――そういえばよく、母さんに叱られてたっけな。

『だからお兄ちゃんも、抜け殻、ちゃんと拾わないとダメだよ。一緒に楽しんだ思い出、忘れちゃダメだよ!』

――俺はいいよ……。

『ダメだな~、お兄ちゃんは! しょうがないから、僕がお兄ちゃんのポケットに抜け殻を入れてあげるね』

そう言うと、「星」はゆっくりと俺の方へ近づき、胸の前で止まった。

同時に、温かみのある感触が、こころを潤し始めた。

――お前、一体何を、俺の中に……。

『ずっと、ずっと、大事にしまってて欲しいんだ』

……。

『今、僕があげた抜け殻を』

……。

 

『僕と、お父さんの、抜け殻をね!』

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