見出し画像

何かと何かの間

中途半端って、愛おしい。

以前はすごくはっきりしたものやことが好きで

0か100
やるならやる、やらないならやらない
明るい昼間か、暗い夜
濃い味か、何も味付けしないそのものの味
近い人か、遠い人って

何でも両極端にしがちだったし、そういうはっきりしたものの方がそこに意志や意図がある気がして好きだったけれど、今はそこまでの過程とか、何ならどこにも目指してない浮いた時間が、なんだか好き。

ジャッジしがちな人ほど、はっきりしたものが好き


何かに○をつけて、何かに×をつけるような、そんな習慣が昔からあった。これをした方がいい、あれはしない方がいい、これがあると素晴らしい、あれがないから価値が落ちる・・・そんなことを考えるのが普通だった。それを考えれば考えるほど、自分自身のこともなかなか許容できなくなってきているのに。

早く起きれない自分は意志が弱い
仕事に集中できない自分はやる気がなくてダメなやつ
人に優しくできない自分は心の狭い冷たいやつ
誰とでもうまく話せない自分はコミュ力が低いつまんないやつ

そんなジャッジを自分自身にもしていた。

少しだけならできることの価値を自分から「0」に下げて
ちゃんとできることを「100」より絶対下がらないようにキープする

それがきっと、はっきりした「できるもの」「できないもの」の構図を好む原因になっていたような気がする。

私が価値を決めれるものなんてそうそう無い


そうして色んなもの、こと、人のジャッジをしてきた今、そもそもなんで私が世の中の価値なんてでかいものを決めてるのかという疑問に立ち返る。価値があるとか無いとかじゃなくて、ただ私がそれが「好き」か「嫌い」かだけの話で。色んな人が色んな好き嫌いがある。それと同じ。

そしてここで大事なのは「好き」でも「嫌い」でもない、その間。価値が「ある」とか「ない」とかのその間。

好きでもいいし、嫌いでもいい、
嫌いじゃないでもいいし、できるなら避けたいでもいい。
価値があってもいいし、無くてもいい、
ありそうでもいいし、あって欲しいでもいい。

ぜーんぶ、それでいい。

物事の価値をジャッジしなくなってから、夕方が好きになった


昔から夕方というものが苦手だった。家に帰りたい人と帰りたくない人、寂しさを感じる人と爽快感や達成感を感じる人、涙と共に帰宅する人と乾杯の祝酒を片手にスキップしながら帰る人。色んな人の複雑な気持ちが混じり合って、青くもなく赤くもなく黒くもない空が、それを映してるようで。

人の気持ちがそのまま移りやすい私は、そんなたくさんの人の感情が移りそうで、色んな感情が行き交うこの時間が苦手だった。

でも今は、夕方が心から好きになっている。

なんなら夕方が私を洗い流してくれると言っても過言ではない。

夕方って、すごく中途半端。明るい気分でも暗い気分でもない時間。そんなはっきりしない時間が嫌いだった自分が、そんな時間を好きになれた今の自分が、今ではなんだか誇らしい。


いただきましたサポートは、優しい循環になるものに使わせていただきます♡