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表現者への暴力

「自由になんでも好きに表現してみて!」って言われた時の私の顔のゆがみようったらない。

前から少しずつnoteにも書いているけれど、私は最近絵を描いている。絵を描くというと、真っ白なキャンバスにいろんな道具を使って自由に幅広く表現できるものって捉えてしまいそうになるけれど、それはちょっと違う。私個人としては、絵がそんなに自由なものなのだとしたらこんなに好きになってはいないはずだ。

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私が描いている絵は、一般的にはテクスチャーアート(さまざまに色付けしたペーストを筆やペインティングナイフを使ってキャンバスなどに質感を変えながら塗っていく絵のこと)と呼ばれる部類に入るのだと思うけれど、私の場合はそんなに自由じゃない。

というのも、私が使っているのは「漆喰」だけ。色は一切付けず真っ白のまま。漆喰そのものがそもそも絵を描くためのものではなく、建築用の塗料であるし(壁に漆喰が使ってあるのを見たことがある人も多いはず)、たくさんの漆喰を一回で重ねてしまうとそれだけで乾燥でひび割れてしまったり、木材などに塗れば場合によってはシミが浮き出てしまったりと、絵を描くのには向いてない素材だろうと思う。

色んな成り行きの末に、私はこの絵を描くのには向いていなそうな漆喰を使って絵を描くことを始めたわけだけれども、それが私にはびっくりするくらい心地いい。

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ー表現はどこまでも自由ー それは本当に心からそう思うし、どんな表現にも良い悪い、上や下などはなく、全てこの世の中にあるものはきっとアート・芸術なんだろうなと私自身感じている。

一方で、方法はどこまでも制限する。表現そのものに反して、表現するための方法をできるだけ制限することが、その人にしか表現することのできないものを引き出す方法の一つなのだと、強く思う。

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「人は条件を制限された時に1番想像力が働くんだよ」と、昔通っていたメイクスクールの先生に言われたのを私は今も忘れられない。今では仕事として約10年ほどヘアメイクをしてきている私だけれど、メイクを学び始めた当初の私は、骨格のはっきりした黄金比をもつ「これぞ美しい顔」と言われる顔でこそ、美しさは表現はできるものであって、つまりは、そもそもどんなメイクをしても似合ってしまう顔というキャンバスだから美を自由に表現できるものと思っていた。

でもとあるメイクの授業で、いわゆる「和顔」、顔全体の凹凸もあまりなく一重で細い目元、毛量も少なく鼻が低く薄い唇のモデルさんにメイクをするという授業のときに、先生からこの言葉を言われたのである。そういったモデルさんにメイクをするときこそ、化粧品が限られ、道具が限られ、色が限られ、技術が限られてくる。そしてその限られたもの、方法の中でこそ、自分の本当の想像力が引き出されて自分にしかできない表現ができるようになる。当時の言葉ひとつひとつは記憶していないけれど、きっと先生はそう伝えたかったんだと思う。

私自身、メイクの仕事をしていく上で日に日にその実感は増していった。今日は撮影!という日にも、移動ですでに体が壊れるんじゃないかっていうくらいの大荷物で、どんなメイクでもできるようにと私の持つ全ての道具を持って挑んだ撮影でできるメイクは、思っていたより「無難」なメイクになってしまう。その一方で、ロケーションで移動しながらのハードな撮影だからと、ものすごく道具を減らしに減らして最低限のメイク道具だけで臨んだ上にびっくりするくらいの短時間でヘアメイクを仕上げた撮影では、面白い表現になったなと自分でも感じるくらい私らしいメイクができたりする。

おかしなもので、それをヘアメイクという現場でたくさん感じてきた末に、こうして自由に絵を描いているつもりの今も、かなり制限された状況を自分自身で作り出していたみたいである。

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好きな道具を使って、好きな大きさで、たくさん時間使って、自由に描いていいよ!というのは、乱暴な言い方になってしまうけれど、表現者への暴力とも呼べるのかもしれない。

伝統工芸品などが生まれるときも「この土地で採れる唯一の原料・素材」を使っていたり、観光等で有名になる特産品なども「気候が厳しく作物が採れない中で生まれた唯一の保存方法」を使っていたり。なんでも使っていいよ!どんな方法使ってもいいよ!という環境の中では決して生まれることのなかったものたちだったのだろうと思うと、「その場所ならでは」「その人ならでは」と呼ばれる表現や産物は、「そうせざるを得なかった」であろうという制限された方法の中でこそ初めて生まれるものなのだなと私は今ひしひしと感じている。

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