読書感想:松本清張『砂の器』

読書理由:
参照している『ミステリの書き方』にて「理想の推理小説」という質問に松本清張の『砂の器』を挙げている人が多かったため。

感想:
本筋はとある殺人事件で、主人公の刑事が本当にわずかな手がかりを元に犯人まで辿っていく。
合間に、これからを担う若者たちの思惑と、既に老兵である主人公の哀愁が対比するように挟まれる。
それらが最後の場面で全て集約する様は感動的ですらある。
反面、トリックと捜査両方とも派手な展開に欠ける上、ややあっさりまとまり過ぎている感じがあって味気ないラストではあった。
ちょっと手前の段階で犯人の正体や用いたトリックが簡潔に示されているので、50ページ前の時点で事件の全体像は既に見えている。そもそも間に挟まれる挿話にも「こいつ怪しいなあ…」という人物が最初から登場している。意外な展開とか犯人を追い詰めるカタルシスなどはまったくと言っていいほどない。
ただ、後述するテーマもあって、調査が地味であること、カタルシスがないこと、意外な展開や感動よりむしろ哀惜や淋しさを感じるようなラストにしたことは作者の狙い通りだったのだと思う。

松本清張氏の作品は事件やトリックを縦糸に、人の弱さや人生の悲しみを横糸にして作られていると耳に挟んだことがある。
この作品のテーマとしては世代交代とか、時代の流れというところだと思う。
主人公である刑事はいくつもの事件に関わってきたベテランだが、そろそろ老いを自覚し始めている。
地方を飛び回る最中に体の衰えを自覚したり、途中で若手の刑事に未解決の事件についてまわる後味の悪さを語っているシーンが印象に残っている。

主人公と対比的に描かれるのが20代くらいの若手ばかりが集う芸術家の集団ヌーボーグループである。
ヌーボーという名前からもわかるが、この若者たちはいつの時代も常に存在する「今時の若いもんは…」と言われてしまうタイプの人間たちである。
大御所や会社の重役などの古臭い価値観や人間をまるっきり馬鹿にしていて鼻で笑っている。
政治家や芸術家でも未だに存在する年功序列を批判して自分たちの新しい未来を切り開こうとしているのだが、いかんせん若すぎて中身がない面が多々見受けられる。
才能と新しいものをどんどん受け入れる姿勢は素晴らしいのだが、古いもの一切を切り捨てているような気がしてならない。
悪くいうと自分たちの才能と知性に酔って調子に乗っている。古臭い人間を舐めきっている。

先に言ってしまうと犯人はこのヌーボーグループの一員である(読めばこの中の誰かだとすぐわかると思うが)のだが、
つまり、主人公(ベテラン)対犯人(若者)の対照的な構図が出来上がるわけである。
才覚と知性をフル動員して完璧に作り上げた殺人のトリックはほんの小さな偶然と、それを導き出した綿密な捜査によって見破られた。
いくら新しくて才覚のある人間でも重ねてきた時間と経験には勝てない。
そう感じられた。

筆者はワイン好きなのでヌーボーと聞いてボジョレー・ヌーボーが真っ先に浮かんだが、ヌーボーグループはまさにそういう感じ。
華やかで、フレッシュで、出た途端お祭り騒ぎでもてはやされるが、二、三年したら残っているのはごく一部のみ。
対して主人公は長い時間を経たビンテージものだろうか(ただし、そろそろ飲み頃ギリギリ)。
ワインはなるべく長い時間をかけて熟成させた方が美味しいのは常識である。もちろん、長期熟成に耐えうるかどうかは別問題だが。

テーマはそっけないほどのラストで集約する。
前途洋々だった若者は散々馬鹿にしてきた古い世代の、重ねてきた時間に負けた。
そして若手に席を譲り、後ろへと下がる主人公。
老兵は死なず、ただ消え去るのみ。
そういう言葉が浮かぶ作品だった。

作者について:
私は、松本清張氏の著作を今まで『点と線』しか読んだことがなかった。
理由はシンプルで松本清張氏の出生日が不明だからである。
私は作品を読んだ後先に、作者のホロスコープを調べる。そうした方が何となく作品の肝や傾向が掴みやすい気がする。
だが松本清張氏は戸籍上は1909年の12月21日となっているが、届け出を忘れてただけで実際は2月12日だったという説がある。
実際どちらだったのかわからないので、なんとも言えないが、射手座と水瓶座はだいぶ違う。犬と猫とは言わず、フクロウとシャチくらい違う。どちらがフクロウでどちらがシャチかは不明。
明治くらいは出生届関連で同じような事があったらしく、石川啄木や小林秀雄も出生年月日が不明である。
こういう人々はホロスコープを作るのが難しいので作品は読んでも解説ができない。キャラが濃い人々が多いだけに残念である。
というわけで、ホロスコープがわかっていて面白い作家さんたちを先にして後回しになったのである。

しかし、松本清張氏に関しては少なくとも射手座でないことだけは間違いないと思う。
言っちゃ悪いが、読んでてつまらないシーンが多いからである。多分書いててもつまらないと思う。同じ射手座の匂いがしないのである。
射手座の傾向として、面白いか面白くないかが一番の問題となる。
そのため、ディクスン・カーを見ればわかるが、かなり現実離れした展開になることもままある。またロマンスも多い。
『砂の器』だったら第ニ章くらいの執筆途中で飽きるだろう。
なので、松本清張氏は多分水瓶座ではないかなあと思う。

『砂の器』や『点と線』の魅力は本当に現実に可能である手段を使っているところだろう。
ちゃんとした資料を集め、現実的で、地に足のついた論理的な考察は水瓶座的である。
客観的な心理描写も細かくてリアリティがある。これは推理小説以前の純文学時代からの傾向らしい。これは蠍座の月も影響しているのかもしれないが。
昔から日本人が好む小説は本当に現実にありそうなことが多い。それこそ江戸川乱歩のような一種荒唐無稽な作品は二流もしくは傍流扱いされる。
多分、日本人は概念やフィクションを純粋に楽しむのが苦手なのだと思う。
最近は変わってきたようにも思えるが、東野圭吾(水瓶座)の作品がかなり売れているのを見ると根本的には変わらないのだろう。
単に個性の話なので良いとも悪いとも言わないし、私の好みとは多少ずれるが、松本清張氏はこの分野では大変優れた人だと感じられる。

ちなみに、もし氏が2月12日生まれだった場合は太陽と水星のコンジャンクションとなる。
大変読みがいのあるホロスコープなので、一回じっくり研究してみたいなあと思った。

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