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絵を描く人の戻れる場所

 美大に入っても、卒業してしまうとほとんどの人が絵や制作をやめてしまう。会社に就職し、結婚をして、絵を描く暇など無くなってしまう。

 制作を続けられている人は、周りを顧みず、強い信念とプライドを持ち続けられた人。もしくは、天才的な鈍感さとか図々しさの持ち主で、周りのことなど気にせずに、制作をする楽しさ、面白さを見出し続けられた人。草間弥生の場合は、自分の精神病の治療のために絵を描いた。つまり、絵でも何でも自分の制作を続けてられているのは、ちょっと変わった人たちの事が多い。そういう人たちを詮索してみるのは、なかなか面白いことなんだけど。

 幸か不幸か、一般的な感性と常識を持ち合わせていたばっかりに、卒業後に結婚もしくは社会の歯車となり、自分の制作をやめてしまっても、美大で得た経験や知識を持って、美術館に飾られた誰かの絵を深く鑑賞することはできるし、夏目漱石が草枕の冒頭で書いているみたいに、自分だけの絵を頭の中に思い描くことはできる。そもそも美大や予備校で絵に携わって得られることって、何かを描いたり生み出す技術だけではなくて、もっと普遍的な学びも含まれる。なぜ人は創造するのだろうと哲学することだったり。過去の芸術家たちの人生を思ったり、大学にいる周りの人間と自分を照らし合わせて、自分がどういった趣味趣向や方向性を持った人間なのか気が付く事ができたり。

 画家の奈良美智は、ドイツに留学して、日本の教育や美術教育の歪みに気がついた。ドイツの美大の入試には石膏デッサンなどは出題されない。Mappeと呼ばれる、ドローイングブックを提出して数分間の面接を受けるだけだ。そのドローイングの評価も、学校で教えられるような上手い下手ではなく、その人自身の中から出てきているものを教授たちは評価する。以下、奈良美智が金沢美大でのインタビューで語った言葉の抜粋である。

 ーしっかりとした美術教育受けてないから、戻るところがないんだよ。戻るところって、なんと言うのか、やっぱり悩んだりしたら、一番確かなところに戻るじゃん。一番確かなものがないって、俺はいつも思ってて、なんかやっぱり、(日本人だと)デッサンとかに戻ったりしちゃう。でも違うんだよ。もっと、言葉に戻ったり、本当は自分たちが受けた教育とか体験とかにも戻れるところがあるはずなんだ。日本は歪んだ教育で、そういうことを気づかせてあげられるように先生たちはできてないから、今日は外に出て風景クロッキーをしてみようとか、猫のクロッキーをしてみようとか、なっちゃう。でもそれって本当かなあって俺思うの。文章書いててもいいわけだからさ。本当に戻れるものがあるはず、なきゃいけないんだ。(・・・)ふつうのすごい具象でも、考え方をしっかり持ってたら、それをテクニックで生かす人もいていいんだよ。このあいだLAで見た学生で、普通の個展技法のうまい絵なんだけど、人の後ろ姿描いていて、バックの色がうぐいす色だとかピンクとか。そういう色って例えば刑務所だとか貧乏人のためのアパートとか、反抗的な気持ちを持っている人をおとなしくさせるための色なんだって。彼はすごい貧乏なところ出身で、そういうアパートで育ったんだって。自分と弱い低所得者たちと国との関係を描き表してて、あと黒人とかのマイノリティ。その人を正面からじゃなくて後ろから描くの。頼ってるんじゃなくて、彼の考え方にテクニックがあって、でもそれだけじゃなくて、テクニックが必要だから。でも逆に石膏でっさんよくなーい、とか思ってると、本当は描くのが好きなのにパフォーマンスだけやっちゃったりとか、インスタレーションだけやっちゃったり、すごく問題あると思う。(・・・)ヨーロッパの人たちはちっちゃい時から、普通の教育から何ができるか、話し合いで教育がすごく進んでいる。自分に意見を持つとか、個人で行動するとか。だから学校入って先生に何も言われなくても、ガーーーってやってくの。アメリカっていうのも新しい国で、5・60年前から倫理とかやってる人が一緒になって急に美術動かし始めたでしょ。そういう意味で本当の教育見たいのが盛んなんだ。例えばアメリカの大学だったら、1・2年でとる授業、3・4年でとる授業あって、絵画とか彫刻とか映像論とかいろんなのとるわけ。絵画とったら一週間で2回、4時間で2回ある。その4時間実技の先生が普通の教室でスライド見せたり、話したり、話し合わせたりして、で、制作は勝手にやるの。それを次の時持ってきて、みんなで批評したり先生がなんか言ったり。で、大学院になって初めてアトリエ見たいのが個人で好きに使えるようになる。で、文脈とか理論とかの側面からの教育がちゃんとなっている。そういうの日本人に向いてると思うんだけど、だから実技の先生が作品について色々いうんじゃなくて、論理の人、批評家が何か言っていく。そういう授業の方がみんな伸びると思うんだ。何でかと言うと、批評家は実技ができないから言える。実技のできる先生はなんかやっぱり言うことのレベルが低いって言ったら悪いけど、「この色がどうのこうの」とか「構図がどうのこうの」とかそういう事じゃなくて、もっとその下には大切な事があって、やっぱそういうのは倫理やってる人の方が言えるんじゃないかな。決して無能だって言ってるんじゃない、自分が何を教えられるかどうかということを知るべき、自分と同じことを教えられる人を揃えても意味がない。自分が教えられないものを教えられる先生を入れればいい。そうやっていく方が幅が広がるし、活性化する。自分が一番嫌だと思うやつを入れればいい、その方がその人も努力すると思うよ。それをもっと勉強するべきだよね先生も。

 日本の教育では自分の意見を持ったり、自分の頭で考える事は重要視されない。日本人は元々農耕民族だったから、みんなで協力して作業する能力に長けているし、そのことは社会の中で物事を円滑進められるという良い面もある。奈良美智は自分には戻れる場所がないと言っているが、美大を卒業した後に再びアートを学ぶために単身でドイツに渡っている事から、元々日本の共同体主義的な教育や社会に居心地の悪さや反抗心のようなものを感じていたのではないか、その頃の思いが彼の心に住んでいた少女の原像を露わにし、睨むようにこちらを見つめるあの少女の絵を描かせたのではないか、と私は勝手に思っている。今日の日本の歪んだ教育によって、どこかで才能の芽が摘まれてしまっているかもしれないと考えるのは悲しいことだけれど、そんな教育の元でも、グローバルで進んだ見識を持ったキュレーターやアーティストたちのおかげで日本の美術館には自分を信じて歩んできた猛者たちの作品がたくさん展示されているし、インターネットを利用すれば、世界で活躍する多様な表現者の多様な創造物を見たり、知る事ができる世の中になった。日本の体制に馴染めない才ある者たちは、自分と同じ匂いのする者たちを探しやすくなってきている。彼らは導かれるようにして自分のいるべき場所へ向かい、創造していくのだろうと思う。

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