見出し画像

【フィギュア2003-04男子】次の五輪の気配が、薄く漂い始めて。

2019-20シーズンのGPシリーズが今週末から始まります。
今季は、五輪を4シーズン目と考えたサイクルの2年目。
この「2年目」って、これまでどんなことがあったのか、これまでの「サイクル2年目」を軽く振り返ることで、今季をゆるく展望したりできるかなと思い、ちょっと振り返ってみます。

ということで、今回は「2003-04シーズン男子シングル」です。

画像1

■2003-04シーズン・・・トリノ五輪2シーズン前


「五輪サイクルの2年目」っていうシーズンはたくさんあるわけですが、振り返るなら今シーズンに活きる形にしたい、とすれば、旧採点(6.0点満点)ではなくて新採点方式(って、もう言わないかしら?)になってからの方がいいな、と思い、2003-04シーズンから振り返ってみようと思います。

ちなみにこのシーズン、前半のGPシリーズとかネーベルホルンとかは新採点方式で、シーズン後半のチャンピオンシップは6.0満点方式でした。そのねーベルホルンには神崎範之さんが出ていて、当時の得点がISUのサイトに残っています。
(この採点方式になってからの、歴代最高点を記録していった表です。ネーベルホルン杯が最初の試行大会だったので、ネーベルホルンで「暫定1位」になった選手は全員、このリストに掲載されています。(SPFS/ 総合

画像5


■男子シングル 主要大会は、こんな感じ。

(大会名 1位/2位/3位 の順。2季後のトリノ五輪のメダリストは太字

スケアメ     ワイス/本田武史/張民
スケカナ     プルシェンコバトル/本田
中国杯      ゲーブル/ジュベール/チェンジャン
ラリック杯    プルシェンコ/ヴァン=デル=ペレン/ワイス
ロシア杯     プルシェンコ/チェンジャン/ダンビエ
NHK杯      バトル/ゲーブル/ソン・ガオ
GPファイナル   サンデュ/プルシェンコ/ワイス
四大陸選手権   バトル/サンデュ/ライサチェク
ヨーロッパ選手権 ジュベール/プルシェンコ/クリムキン
世界ジュニア選手権 グリアツェフ/ライサチェク/ブラウニンガー
世界選手権    プルシェンコ/ジュベール/リンデマン(4位ランビエール

画像5


■GPファイナルは、こんな感じでした。


●もともとのGPのランクは、プルシェンコ/バトル/ワイス/ヴァン=デル=ペレン/ゲーブル/ソン・ガオだったんですが、ゲーブルが慢性的な怪我(だったと思う)でGPファイナルは欠場し、(補欠1番のジュベールも出ていませんが、なんだったんだっけ?)補欠2番のサンデュが出場。さらに、エントリーしていたバトルが棄権して、結局5名での戦いになりました。「どんどんメンバーが変わっていく」という印象が残っています。

高地のコロラド・スプリングスでの大会で、ソン・ガオなどは後半が大変に辛そうで息も絶え絶え。五十嵐さんが「高地ではジャンプが跳べるなあと思っていると突然足が動かなくなる。それは酸欠で、視野が狭くなっていって、最後は白黒になるんです」というようなことをコメント。

ということを覚えていたので、今回当時の録画を見直してみたら、ケヴィン、ソン・ガオ、ワイスの3人はつらそうでしたが、サンデュはいつも通りな感じで、プルシェンコもそこまで、って感じではなかったです。てっきり、「コロラドでは、男子はフリーを滑るとみんな視界が白黒になる」くらいに思っていたのですが、3人だけだったかも。しかも、女子の皆さんは大変に力いっぱい滑っていらっしゃいましたし。(とはいえ、佐藤信夫先生が世界選手権4位になったのは、このコロラドスプリングスで、ここでいい成績を残せたのは、コロラドで試合をしたことのあった杉田さんとかに事前に辛さを聞いていたので準備を入念にしたから、とおっしゃっていました。なので、やっぱりコロラドはきついことは間違いないですね。)

●ちなみに、このGPファイナルでは、当時フリーでは2つまでしかコンビネーションを跳んではいけなかったところ、プルシェンコが3つ跳び、補欠からの繰り上げ出場のサンデュが優勝する、ということがありました。この時の優勝のことについて、サンデュのコーチのジョアン・マクラウドさんに昨年うかがったところ、「最高の思い出のひとつよ!」と興奮ぎみにお話しくださいました。

思い返してみると、このころはプルシェンコが「不動の1位」感いっぱいだったので、ルール違反があったからとはいえ、プルシェンコが負けるというのは、結構な衝撃でした。

(この大会結果から、その後、フリーのコンビネーションは3個になった、はずです。当時はインターネットもそれほど使っていなかったし、スケートの情報も今のようには簡単にアクセスできなかったから、なんというか、ルールを肌感覚で感じていたので、断言しきれない感じなのですけれど。)

今見ると、プルシェンコは、2001-02シーズンのGPファイナルとオリンピックでヤグディンに負けた以外は、2000-01シーズンから全勝だったんですね。(もっと言うと、2000年世界選手権で自爆したのものぞくと、1999-2000シーズンから全勝。すごー!)そりゃあ、「不動の1位」感ハンパなかったはずです。

●さらに、この時から、GPファイナルが12月開催に。それまでは2月くらいにやっていました。なので、2003年にはGPファイナルが2つあるので、注意したいところです。(とくに、動画を探すときとか、ですね)

画像5


■2003-04シーズンを振り返ると

この次の2004-05シーズンから新採点方式に完全移行という時期で、GPシリーズなどはお試しで新採点方式が使われていて・・・というシーズンでした。
まだ選手や関係者たちも観客のほうも、新採点で得点が出てもいまいちよくわからないという状況で、新採点方式で、本格的に戦略を持って戦われるようになるのは、トリノの次の2006-07シーズンあたりからだったように記憶しています。

●このシーズンの印象としては、2002年ソルトレイクシティ五輪のメダリストのヤグディンが、スケカナ数日前(もうちょっと言うと、盛岡でのプリンスアイスワールドに出演していた最終日の夜くらい)に引退を発表し、プルシェンコの出場しているスケカナにゲストで呼ばれて、男子シングルの解説席に座り、引退セレモニー(必見です!)もしたり・・・・と、「ほんとにヤグ引退!」なシーズンでした。この前のシーズンから怪我のためにヤグディンは不在だったことにくわえて、プルシェンコがスケーターとして心身ともに充実した時期を迎えていたこともあり、プルシェンコ最強感が大変に強い2シーズンだった、という印象です。(まあ、この2003-04シーズンは、プルは、夏の膝の怪我で、それに苦しんでいる印象も受けた時期でもありました。)

●また、もう1人の五輪メダリストのゲーブルと、4位の本田さんもすごく頑張っていて、それぞれにいい演技を見せていたけれど、2人とも怪我に悩まされていて、無理をしないで……という思いになることの多いシーズンでした。

●と同時に、その次の世代であるジュベールが頑張っていて、ランビエールとジョニーも出てきたな、バトルは世界選手権出られないの、えーーー! というシーズンだったように思います。


ジュベールのこのシーズンのプログラムは、SPが『Time』(カニステップ)(使用2季目)と、FSは『マトリックス』(1季目)でした。ジュベールのジュベールらしさが存分に出始めた、素晴らしいシーズンだった、と言い切れます。


また、ジョニーのFS『ドクトル・ジバゴ』(2季目)も素敵でした。その前のシーズン、全米選手権SP2位で、フリーのために出てきて、『ドクトル・ジバゴ』がはじまると、後ろで手を組んでぶらぶら歩く、みたいな振付けを見せたジョニーに、ああ、なんていうスケーターだ、と思った数秒後、怪我をして演技序盤で氷を去った、というのがあまりに印象が強くて。なので2003-04シーズンは地方大会から勝ち上がって全米選手権に出場して、そして優勝、というそのがんばりに勝手に胸打たれていたのですが、この『ドクトル・ジバゴ』、素敵なプログラムでした。SPの『悲しきワルツ』も素敵で、これらが、翌シーズン大ブレイクするFS『Otonal』の伏線だったように感じています。ちなみに、『Otonal』の衣装の伏線は、『ドクトル・ジバゴ』だったようにも思います。ぜひ見てみてください。

画像5

■2季後に五輪メダリストになる3人のこのシーズンの動向

2006年トリノオリンピックでのメダリストは、プルシェンコ/ランビエール/バトルですが、彼らが2003-04シーズンにどうしていたのかと見てみると……。

プルシェンコ 
上記の通り。膝が痛いなか、大変に頑張っていました。
このシーズンのフリーが、あの『ニジンスキーに捧ぐ』ですね。ロシア選手権で、すべてのジャッジのプレゼンテーションが6.0点だった、って言われているあのプログラム。もう多分20年以上のプルファンの友人によると、「ニジンスキーに捧ぐ、がものすごいプログラムだって言われているけど、でも、プル、あのシーズン、2回負けてるんだよねー」とのこと。たしかに。でも、私も当時から、あのプログラム好きでした。

Twitterにも書きましたが、『ニジンスキーに捧ぐ』の演技で私が一番好きなのは、ヨーロッパ選手権の、です。4T+3T+3Loを決めたあと、3Aを踏み切った時に滑ってしまい、なのでもう一回トライしたら今度はパンクしてしまって。すると次のジャンプもアクセルの軌道、おおお、いい感じです! 3A+3T+2Loを決めました。すげー! と思った瞬間、すぐに跳んだ3Fはお手つき。その後、ニジンスキーの薔薇の精のポーズのパートもジャンプに費やしてなんとか他のジャンプを跳びきった、かに思われた最後のジャンプが2Sになってしまいます。そして2位。でも、こういう、「3Aをとびなおしてやるぜ」みたいなところが、本当に好きです!

世界選手権のフリーは、最終滑走。最終グループ5人が皆いい演技をしたあとで、大変に王者らしい強い演技を見せてくれました。さすが。

ランビエール 
膝の手術などもあって調子が上がらず、コーチを変えたりしてみたけれど、やっぱりピーター先生とサロメ先生のところに戻り、ヨーロッパ選手権6位、世界選手権4位に。

この世界選手権のフリーでは、4回転を2つ決めていますが、「1週間前の練習で初めて4回転を2つプログラムに入れられた。今回のフリーでは、演技しているうちに行けそうな気がして2つ目を入れたら跳べた(大略)」とのこと。すごいスケーターの伸びるシーズンって、こんな感じなんでしょうか。すごいです。

このシーズン、彼は18歳。2009年頃、ピーター先生が「ステファンも18,9歳のころは、私が何を言っても「ノー、ノー」と言っていたんだよ。でもそのくらい自分の意志がある方がいいから、好きにさせていたけれどね」と言っていたのを思い出します。

バトル
2001年NHK杯でブレイクした感のあったジェフは、この2003-04シーズンのNHK杯で、GP初優勝を果たしました。旭川でしたね、懐かしいです。上記のようにGPファイナルは棄権することとなり、カナダ国内選手権も3位(1位サンデュ、2位フェレイラ)で、2枠だった世界選手権に行けず。ただし、派遣された四大陸で優勝しています。まだ四大陸に今ほどトップ選手が大勢出る時代ではなかったのですが、なんとなくジェフは四大陸と相性がいいなあと思っていたのは、多分2001年にも優勝しているからでしょう。(その後も2度銀メダリストになっています。)

そんなシーズンでした。
また何か思い出したりしたら追記します。

今後、まったりとではありますが、女子、ペア、アイスダンスについてを含めて、2007-08シーズン、2011-12シーズン、2015-16シーズンについても振り返っていきます。よろしくお願いします。


このnoteをいいなと思っていただけたら、「スキ」をプッシュいただけると大変嬉しいです。ストアヒガサ(スケート好きの雑貨店 https://storehigasa.stores.jp/)やTシャツ(https://suzuri.jp/storehigasa)もぜひ。