見出し画像

あなたのふつうは?【前編】

今日たまたま読んだお友達がシェアしてたこのnote

鈴ちゃんの記事、長いけど最後まで読んでみて欲しい。


それぞれにとって、自分の考えてることや見えてる世界が「ふつう」とか「当たり前」って思うし、人によってその「ふつう」や「当たり前」は違ってくる。

私の当たり前は、鈴ちゃん的に書くと、年齢的に3倍近く生きてるので長くなるので30代までにしようかな。

【0-5歳】

サラリーマンの父と専業主婦の母と2人の兄とある関西の山の麓で育つ。

とても小さな社会で、兄の後ろを追いかけて山を走り回る日々。遊び友達はいつも一緒。


【5-7歳】

同じく関西だが新しくできた住宅地に引っ越す。

学校のクラスメートにも馴染めなかったし、2人の兄ともよく兄弟喧嘩をしてよく泣いていた。父も短気で怖かった。どこかに家族で出かけては、車のなかで兄弟喧嘩になり私が泣いて、父が怒って家に帰るパターンがよくあった。

企画をするのは大好きで家族の誕生日会だとかクリスマス会を企画していた。

習い事は、エレクトーンと習字と英語と仏教センターに通っていた。


【8-18歳】

商社勤めをしていた父の仕事の関係で沖縄に引っ越し。

初めて飛行機に乗る。飛行機から見る沖縄の海は綺麗だった。

それまでは海といえば母の実家のある淡路島の海だったから。

当時の沖縄は電車もなく、小学校も幽霊の出そうな古い校舎。

暑いからなのか貧血検査というものが毎年あり、それが苦痛だった。

(針を薬指にさして吸われるやつ)

そして、関西弁が標準語じゃないと初めて知り、沖縄の方言を必死で覚えた時期。兄たちも多感な時期のこの言葉の壁はかなり大きく、兄弟そこは協力して沖縄の方言をマスターした。

小学校は本土からの転勤者が多い学校だったし、私の住んでいたマンションも転勤者家族が多く住んでいた。母は手先が器用でいろんなものを教えていたので、家に帰ると転勤族の奥さまたちがよくたむろっていた。

習い事はエレクトーンは高校3年まで続け、小学校時代は姿勢を直そうという母の思惑でバレエ教室に通ったけど、体が硬くて辛かったなぁ。

家族ではいつまた転勤があるかわからないから、と沖縄の海や離島を休みのたびに楽しんだ!(結果的に10年もいたのだけど)


中学は学区で沖縄でトップを争う荒れている不良が多い公立で、当時「積み木崩し」とか「尾崎豊」が流行っていて、暴力やいじめも横行していて、居心地の悪い場所だった。中学の時に通い始めた塾がとてもあっていたお陰と一夜漬けが得意だったので成績はよくて、高校は新しくできた進学校の英語科に推薦で行くことになった。特に英語が勉強したかったわけではないけど、それ以外に理数科と芸術家しかない高校だったので。

高校はできたて(私が2期生)の進学校で0時限から7時限まで授業があり、遠いのに朝が早かったけど、近所でお父さんがタクシー会社をしているお嬢さんが同じ高校に通っていたので、よく一緒にタクシーで送ってもらった。帰りは父にもよく迎えにきてもらった。いつも疲れていて授業中も家でもよく寝てた。

英語科にいたので、大学は外国語大学に行こうかなーっとぼんやり考えていたら、「女性は経済力がないと自由な選択肢がない」と小耳に挟み、当時進研ゼミから送られてきた職業一覧で公認会計士の仕事を見つけ、女性でもできて収入もいい!ってことで経営学部に進路を変更。

高校の時はブルーハーツにはまり、生であの時代ライブにいけたのは楽しかったなぁ。

【18歳ー22歳】

大学入試のセンター試験で失敗して、親に浪人をさせる余裕はないと言われ、行きたい大学を諦めて関西の私大へ入学。

学校で紹介してもらった宝塚の医者一族の豪邸の二階に住むことになる。一階部分は80歳のおばあちゃんと住み込みのお手伝いさん。

ご飯付きの下宿だったので急な変更ができず、授業が終わったあと、友達と流れで一緒にご飯にいこーっていうのに、いけなくて残念な思いもたくさんした。

クラブはESS(英語研究会)と会計研究会に入る。会計研究会に入った理由は、そこの部員は会計士の勉強をしている人が多いと聞いたから。

だけど、大学に入ってみたら、部活の予定は多いし、沖縄育ちの私には楽しいことは多すぎるし、公認会計士になるのは難しいってことがわかり、受験しようと思うとダブルスクールもしないといけないし、お金もかかるし、楽しい大学生活は捨てないといけないし、ということで、しばらくそれはやめて大学生活を楽しんだ。

大学3年の時に、ワンルームマンションを借りて一人暮らしを開始。親には学費も出してもらったし、毎月仕送りもしてもらってたし、割と恵まれていたと思う。バイトは効率のいい家庭教師とパーティーコンパニオンとか試験監督とか。

大学はいかに楽して単位をとるかしか考えてなかったし、とりあえず会計士勉強の布石として、簿記の二級と税理士試験の簿記と財務諸表は在学中に取得した。

そして、大学4年を迎える頃、バブルが弾け一気に手のひらを返したような就職氷河期に突入する。

それをきっかけに覚悟を決めて、公認会計士の受験対策校に通い始める。


だいぶ端折ってるけど、全然進まない(笑)

要は鈴ちゃんと違って、全く問題意識のない時代に流されまくりの子供時代だった。

恋愛もしたけど、相手がいることなので、その辺は省略。


【23歳ー29歳】

大学を卒業した年に公認会計士二次試験に合格。

まさか、この先に3年の実務経験を経て三次試験(筆記と面接)まであるとは知らなかった。

二次試験でなれるのは会計士補。

合格率は経済が低迷してて仕事も減っているか確か6.7%。

私の2年前くらいは会計士合格予定者は青田刈りで接待を受けまくっていたのに、私が受かった年は合格者の半分が就職できなかった年。

高校の頃は女子大生がもてはやされ、大学になると女子高校生がもてはやされるし、大学を卒業するとバブル崩壊!となんとも恵まれない時代を歩んでる感。

私は大阪支社には数名しかいない小さな監査法人に拾ってもらえてそこに就職。

会計士補でも20歳そこそこでもクライアント先にいけば、40歳以上の管理職のおじさまたちに「先生」と呼ばれる世界。

そして、体育会系のように、自社の中の人間関係は女子であれ、一番下の立場の新人は重い書類の入ったカバンを持って移動させられ、現場まで一番後ろについて歩き、現場につくと筆記用具や書類を並べる係。

そして、クライアントから受ける接待の席ではお酒を注ぐことを暗黙の了解とされ、当時はセクハラのような発言を平気でするクライアント先のえらいさんもいたし、何より、仕事場は最初の頃は分煙されておらず、いつもタバコの煙で白くなった会議室に閉じ込められていた。

今思い返すと本当「昭和」な時代を生きていたなぁ。

会計士の仕事は「安定した収入」は約束されていたけれど、当時は、小さな会社に就職したことで教育がほとんどなく、背中を見て学べ!スタイルで、なにをしていいのかよくわからずダメダメ社員だった。

会社の大阪の代表の人も短気で怖くて、密かに不正出血事件があったほど。

そんな時に転機が訪れる。

<続く>

こんな子供時代から20代が私の普通が形成されてきたベースの一部。

それがこのあとどんどん崩されることになります。


エネルギーで望む未来から現実をどんどんクリエイトする!

元公認会計士&コーチング型経営コンサルタント
              松原仁美


*:,.:.,.*:,.:.,.*:,.:.,.。*:,.:.,.。*:,.:.,.。*:,.:.,.。*:,.:.,.*:,.:.,.*:,.:.,.*:,.:.,.。*:,.:.,.。*

▶︎『元公認会計士が伝えるお金のエトセトラ』公式ライン@作りました!

▶︎セクシャルセラピストマヤちゃんとのオンライン講座『もう自分嫌いから卒業する!性とお金とスピリチュアル』申し込み受付中♬ 


申し込んでいただいた方には秘密のグループ『花のように美しく生きる』に招待中。特典動画2つもおすすめ♬  

▶︎個人セッション&UE体験会のご予約はこちらから 

▶︎豊かな人で集まりたい!Abundance Universe Online 秘密グループ 


▶︎読むだけで豊かさが舞い込むブログはこちら


▶︎『お金のエトセトラ』のメルマガ登録はこちら(読者数500名さま突破!)

▶︎お問い合わせはこちらから






この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?