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ブライアン・メイが「生き方」を教えてくれた

今日は7月19日。

クイーンのギタリスト、ブライアン・メイの誕生日です。

彼のことを心から信じられるまで、かなり時間がかかりましたが、ブライアンとの出会いは、私の人生を大きく揺るがす経験でした。生まれて初めて「人生のターニング・ポイント」を経験したと言いますか。とにかく、私とブライアンの心の関わりを、この記念すべき日に、カタチに残したいと考えたのです。

私は2018年11月18日、大阪のTOHOシネマズ梅田で映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観に行きました。当時の私は、クイーンの曲はバラエティやCMとかでたくさん聞いていたけれど、フレディ・マーキュリーのことは長髪だったことすら知らず「タンクトップ着たヒゲのおじさん」「エイズで亡くなった」という程度の小さな認識でした。ブライアン・メイは名前を知っていた程度、ロジャー・テイラーとジョン・ディーコンは存在すら知りません。そのため、クイーンなんて全く興味がなく「SNSで話題になってるから観に行ってみるか」という軽い気持ちで観に行ったのですが、四人の持つ音楽のパワーに圧倒されてしまい、映画で使われた曲も、そうでない曲も含め、クイーンの音楽をたくさん聴くようになりました。

映画を観てまもなく、フレディのことはだいたい分かったから、今度は他のメンバーのことも知りたいなと思い、ブライアン・ロジャー・ジョンのことをネットで調べていきました。映画は完全にフレディの話でしたから、三人の生い立ちやバックストーリーなどは自分で調べるしかありません。

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ブライアンのことを調べていると、彼の使用するエレクトリック・ギターは自身が高校時代に父親と一緒に作ったもので、それを今でも大切に使い続けていると知り、「なんかこの人すごい!」と思いました。私は子供の頃から母の影響で、ビーズアクセサリーやマスコットを作ることが大好きな子供だったので、「モノを作ることの楽しさとそれを大切にする心」という考え方が私と似ているな、と感じたんですね。

私が通っていた小中学校は普通の学校よりもかなり特殊で、学力を重視というより、自分の特技や好きなことを伸ばすという教育方針でした。高校と大学はいわゆる普通の学校で、詳しくは後述しますが、成長するにつれて何かを楽しむということを失うようになったと思います。大学を卒業してからようやく自由になって、自分のやりたいことや夢がたくさんあるのに、仕事が肉体労働のせいか、仕事を終えてからはベッドでゴロゴロするかすぐに寝てしまう、そんな毎日を過ごしていました。何かを作る意欲が湧いても、作品を完成させるのは年間数点が当たり前、完成させるまでの間隔に一年以上かけてしまうこともザラでした。

話を戻しまして、とにかく、そのことがきっかけでブライアンに一番興味を持ちました。誰にでも優しいところとか、真面目そうに見えてアブノーマルな歌詞をたくさん書いていたりとか、時にはものすごいおちゃめなところとか。私が映画を初めて観に行った日が、偶然にも彼とアニタさんの結婚記念日だったことにも不思議な縁を感じたものです。

その一方で、60歳のとき(2007年)に天体物理学の博士号を取得したというところにも興味を持ちました。ブライアンは大学と並行してクイーンのメンバーとして活動を始めましたが、バンド活動が忙しくなりすぎて、博士号取得に必要な論文執筆を途中で棚上げにしてしまいました。60歳が近くなったときにイギリスの有名な天文学者から「論文執筆を再開させなさい」というアドバイスをもらい、大学に戻って論文を完成させて、博士号を取得したのです。

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ブライアンはクイーンのメンバーの中で唯一の一人っ子。両親に愛されて育ち、エンジニアだった父親のハロルド(写真左)はギター作りを手伝ってくれていました。それでも、ブライアンはクイーン結成後、学歴を捨ててしまったことで父親と対立し、バンド活動を当然反対されていました。彼が在籍していたのは世界トップクラスの理系大でしたから、不安定な職種に就くことが相当不満だったようです。しかし、クイーンが売れ出したことで、父親はバンド活動を理解するようになり、ブライアンが30歳を超えたときにようやく認めてもらえたんだそうです。

60歳のブライアンが大学で発表した論文は、タイトルを調べればPDFで無料で読めますが、彼が研究を再開したときには、父親はすでに亡くなっていました。その冒頭には「This thesis is dedicated to Harold May. This was your dream too, Dad.(この論文をハロルド・メイに捧ぐ。これはあなたの夢でもあったよね、父さん)」と書いてあります。

フレディがいた頃のコンサートでギターを弾く彼の姿は誰よりも楽しそうに見えるし、彼がバンド活動を何よりも誇りに思っていること、フレディへの想いや日本や日本人ファンへの想いがすべて本当であること、彼とロジャーがエイズ撲滅のために力を尽くしていること、アダム・ランバートに絶大な信頼を置いていることはちゃんと分かっています。その一方で「彼はこれまでバンドをやっていて本当に幸せだったのかな?」「お父さんに論文を見せられなかったのにね」という思いもありました。つまり、彼がクイーンとしてやってきたことを信じられない気持ちが半分くらいはあったんです。

それには、私のこれまでの人生経験が深く関係していました。

私は、小学生の頃に父が離婚し、母と妹の三人暮らしです。妹は昨年結婚し、来月には私のいる大阪から義弟の暮らす東北に移住するので、今後は私と母の二人暮らしになります。

うちの父は自己中心的で、人間としての愛情がまるでない男だったようです。すべて私が大人になってから聞かされた話ですが、パチンコが好きで愛人を作ったり、借金癖もありました。カッとなりやすく、私たち姉妹のいないところで母にいくつも暴言を吐いていたそうです。母が私を出産している最中、父は母の手を握ることもせず、急にパチンコへ行きたいと言って勝手に病院を抜け出そうとして、助産師から「お前はそれでも父親か!」と怒鳴られたことがあるそうです。父は仕事で数ヶ月も海外出張に行くことが多く、父がいない暮らしに慣れていたせいか、私も別居が決まったときは不思議と寂しい思いをしませんでした。 

母は再婚せず、必死に働き詰めで、私立の小中学校に行かせてくれ、私と妹を立派に育てようとしていました。私のいた高校もいわゆる地元のお嬢様学校で、きちんと大学まで行かせてくれました。母は私たちを守るためならば嫌な顔せず、自分の運命として受け入れ、学費も払ってくれていました。今でもそのことに感謝しています。

私は母の期待に応えようと必死で勉強を頑張りました。大学では授業の空いた時間は授業内容を文章にまとめてノートに手書きで写しを取ったり、資格取得の勉強に費やすことが多かったので、そのおかげで友達付き合いがあまりできず、同郷の学友に「あたし、妃都美とあんまり話したことないんだよね」と言われたこともあります。数年後、その学友の結婚式に呼ばれたときも、同郷だったにも関わらず、友人代表として扱われませんでした。まあ当然でしょう。

母に認めてもらいたいという原始的な欲求に加え、高校時代にこんな経験もありました。

高校時代、私はいじめられていました。同級生にペンケースを盗まれたり、メモ帳の中身を勝手に読まれたり。彼女たちに関しては先生たちがすぐさま注意してくれましたが、一番ショックだったのは、親友のマナミ(仮名)からも裏切られたことでした。向こうは単なる遊びだと思っていたようですが、私にはそれがかなり堪えました。

マナミとは席が近かったこともあり入学早々話しかけられ、もう一人の親友ユイ(仮名)と三人でお笑いやアイドルの話題で盛り上がったり、カラオケや買い物に行ったり、お笑い好きのマナミに連れられて吉本の劇場でお笑いライブを観たこともありました。彼女たちにビーズで指輪を作って友達の証としてプレゼントしたこともあります。私たちのクラスは三年間クラス替えがなかったので、マナミやユイとは基本的に三年間一緒でした。

家に帰るとき、私たちは学校の最寄駅まで三人で歩いて帰り、マナミとユイは電車、私はバスに乗ってそれぞれの実家に向かいます。

ある日、バスに乗った私に、マナミたちが急に私とメールがしたいと言い出しました。当時はLINEなんてないですからね。何通かメールのやりとりをしていると、マナミが急に「妃都美だいっきらい」と返信してきました。私が「え?なんで?友達やろ?(詳しい文面は忘れましたがこんな気持ちでした)」と返しても、マナミもユイも返信してくれません。翌日、二人に真相を問いただしてみると、「妃都美どんな反応するかなって思ったんや。マジうけた」と面白がっていました。

こんな感じで、マナミにはよくいじられたものです。私の顔が某タレントに似てると決め付けて私をそのタレントの名前で呼んだり、私がぽっちゃりしてるからって「デブ」とか言われたり。たぶんユイも同じだったかと思います。はっきり言って嫌でしたが、二人に嫌われるのが怖くてずっと耐えました。うちの母は「受け流せばええの」とよく言っていましたが、当時の私にとっては毎日会っているだけに死活問題レベルの深刻な悩みでした。

今思えば当時の私にも難があったと思いますが、マナミたちは私のことを親友と思っておらず、私をオモチャにしていただけなのかもしれません。

私に勇気がなかったせいで、二人に「◯◯(某タレントの名前)!」と呼ばれたら近藤春菜さん風に「◯◯じゃねえよ!」と切り返してみたかったし、体型をからかわれたときは(お前だってぽっちゃりしてるくせに)と心の中で呟いたものです。

マナミやユイとはその後も仲良くやっていたものの、私の中で「だいっきらい」と言われたことがトラウマとして残り続けてしまい、誰かに対して清廉潔白を求めがちになり、無意識に他人を疑うクセがつき、人を信じることが苦手になってしまいました。高校卒業後の数ヶ月後に会ったのを最後に、マナミたちには十年近く会っていません。

思えば私は、自分の人生で、クイーンの四人のような、生涯にわたる美しい友情を築けなかったのかもしれません。

ブライアンに対して先ほどのような冷酷な気持ちになってしまうのは、人生経験に加えて、あのような父の血が自分にも流れている証拠かもしれません。なので、彼を心から信じることなど、決して容易ではありませんでした。私の中にある母の暖かな血と父の冷酷な血がいつも争い合っていて、母の血が喧嘩に勝つことがあっても、その直後に父の血がすぐ邪魔をします。

さて、今年1月に行われたクイーン+アダム・ランバートの来日公演に、私も運良く当選し、同じくクイーン好きの親友と一緒にコンサートを観に行きました。プラチナチケットなので他の行きたがっている誰かにチャンスを与えたい気持ちから、地元の京セラドームのみを選択しました。増田勇一さんが指摘したように、真ん中のスクリーンが左半分かつ全体の三分の二ぐらいしか見えない席だったのでスクリーンの演出があまり伝わりませんでした。でも、私の見たブライアンはステージ上でギターを奏でつつ、日本語をたくさんしゃべってくれたり(ロジャーやアダムよりもその割合はずば抜けて高く)、さらには「オオサカダイスキ!」「オ〜キニ」などと言ってくれて。Somebody to Loveのときに私たちのいる下手側まで近づいて手拍子を勧めたり、誰よりもサービス精神旺盛で誰よりもステージを楽しんでいたのです。

コンサートを見終わってまもなく、この本を読んだことも、あの日の彼を裏付けてくれました。1月24日にNHK出版から刊行された、ブライアン著の「QUEEN in 3-D」の日本語版です。クイーンの歴史についてはネットや書籍等でだいたい知っていましたが、これまでのような第三者の目線ではなく、ブライアン本人の目線から綴られた本だというところが大きかったですね。ブライアンの文章は誰の文章よりも心に深く染み渡り、彼の辿ってきた歴史が嘘じゃないことが十分理解できました。

その中で私の心に強く残った文章があります。アダム・ランバートの章です。

ときどき、まだ人生の大部分をクイーンのレガシーに捧げるべきなのか、と疑問に思うこともある。だが、ぼくらはそのレガシーを築くため、多くの楽曲を作るために人生のかなりの部分を捧げてきた。それにクイーンにはとても強いスピリットがあり、死ぬことを拒んでいるように思える。ぼくはこの頃プライベートな生活を大切にしている。子どもや孫、それに妻とも(ときどきは!)一緒に過ごす時間が必要だ。ほかにも天文学や立体写真、ケリー・エリスとの新たな曲作りと、さまざまなことを楽しんでいる。野生の動物たちの保護にも力を入れている。でもクイーンとして呼び出しがかかると、常にそれが最優先だと感じるんだ。世界中にフレディとジョンが一緒だった昔と同じように、クイーンを愛し、その音楽を人生の一部として大切にしてくれるファンがいることを思えば、クイーンのプロジェクトに〝ノー〟というのは難しい。だからぼくらは、いそいそとそれに応える。クイーンとしての経験はいまだに地球上の何ものにも代えがたい喜びと感動を与えてくれる。(246p)

HMVの特典に付属していた小冊子のインタビューでも、こんなことを言っていましたね。

Q.バンドはまもなく結成50周年を迎えようとしています。これほど長きに渡って音楽活動を続けてこられた原動力とは?(小冊子 13p)
A.(略)「それが好きだから」ということに尽きるのかもしれない。それゆえに、自分たちの人生のほとんどを費やしてこの〝特別な殿堂〟つまりクイーンを作り、観客との特別な関係を築いているんだろう。それはとても大切で、ぼくにとってはいまだにエキサイティングなことなんだ。「これはぼくたちがやるべきことであり、ずっと続けてきたことだ。いまだにうまくいっているし、価値があるものだ。そしてやりがいがある」というのが究極の答えだ。(小冊子 13p)

この気持ちを踏まえて自分で撮影した映像を見返すと、彼がギターを弾く姿はやっぱり楽しそうで、彼は何よりも、クイーンのギタリストとしての自分に人生のほとんどを費やしてきたんだな、と思いました。この50年で彼がやってきたことは、本当のことだったんだと。こう思えたとき、私の中に流れていた氷のような血はゆっくりと溶けていきました。

それ以降、私自身に大きな変化がありました。

ライブを観て10日ぐらい経ったあと、私はビーズマスコットを手作りしていました。それまで「完成させるのは年間数点が当たり前、完成させるまでの間隔に一年以上かけてしまうこともザラ」だったマスコット作りを、材料を机の上に揃えてから編んで、形作って、数時間で完成させてしまったのです。作っている間はものすごく楽しくて、完成した子はバッグに入れて外へ連れ回すほど我が子のように愛おしく感じてしまいました。手芸をしていてこんな気持ちになれたのは、ものすごく久しぶりでした。たぶん、手芸を夢中で楽しんでいた小中学生のとき以来です。

要するに、それまで嫌々ながら向き合っていた「やるべきこと」に積極的に打ち込むようになったのです。それまで仕事が終われば寝るためだけに使っていただけの体力と時間を、自分の表現力を磨くために使うようになりました。小説をたくさん読むようになったし、ピアノの習い事に費やす時間も増やしました。毎日が充実していて、とてもやりがいがあります。

その原動力とは、あの日、彼が全身全霊をかけて培ってきた音楽のパワー、言い換えれば、自分の全人生をかけて自分の好きなものを愛する力を受け取ったからかもしれません。勉強や仕事に追われてすっかり麻痺してしまっていたその力を、ブライアンが取り返してくれたのだと思います。子供時代の大切なものを取り戻せた気分です。

ブライアンの人生と向き合ったことで、どんなことがあっても、人生を賭けて自分の道を信じ続けることの大切さ、こだわりを持って物事に打ち込むことの大切さを改めて学ばせてもらいました。和解した後も両親はブライアンを変わらず応援してくれていたそうですし、今でも天国から彼を見守ってくれていると信じています。

https://youtu.be/aIo6gv7FKNQ

彼が数ヶ月前に心臓発作を起こしたときは非常に不安になりましたが、体調が戻ってまた元気にインスタを更新する姿を見ると「さあ、私もがんばろう!」と思えるのです。持病の悪化やこの大変な時期で仕事が忙しくなり、なかなか踏み込めない日だってありますが、この出会いを永遠に忘れまいと思います。

改めて、私を変えてくれてありがとう。あなたとの出会いがあってこそ、今の私がいます。私はこれからもあなたの背中を追い続けていきます。もしまたクイーンのコンサートに行けるなら、あの日よりさらに大きくなった私の姿を、あなたに見せられると信じて。

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