見出し画像

中国カルチャーを追いかけて(その2)

1997年、北京電影学院と中央戯劇学院での約1年の語学留学を終えた私は、帰国後、中国や中国語とは関係のない仕事に就いた。ただ、休みになると中国旅行に行き、少しでも中国語を使うようにしていた。ネットもスマホもない時代で、今思えば、留学も旅行もとても不便だったのだが、北京で出会った人たちの優しさやたくましさに触れ「また、北京で生活したい」とずっと願っていた。そんな私に、2003年、北京のラジオ局の日本語部勤務の声がかかった。待っていたチャンスが来た。即座に、再び北京に行くことに決めた。

ラジオ局では、中国のカルチャーを紹介する番組をメインで担当した。二度目の北京生活とはいえ、中国語は、正直、仕事で使えるレベルにはなっていなかった。だから、連日、できるだけ中国語を使おうと、ひたすらアーティストやミュージシャン、デザイナーなどに、中国人スタッフと一緒に、取材を続けた。

2003年の北京は、2008 年の北京オリンピックに向けて急ピッチで開発が進んでいる真っ只中だった。96年からの1年の留学では見られなかった街の風景がそこにはあった。1日、1日と姿を変え、全く別の北京の顔を見せていく。当時、日本のメディアもオリンピック前の北京に注目し、取材のコーディネートや通訳を頼まれることも増えた。結局、2003年から5年間、北京で生活していた。

北京郊外にある798芸術区が盛り上がってきたのも、ちょうど2003年頃だった。世界のアート界が中国現代アートに注目して、798芸術区にギャラリーが次々とオープンした。毎週末、新しい展示のオープニングパーティーがあって、アーティストやギャラリスト、記者などで賑わっていた。私も、日本のメディアやアート関係者の取材に同行して北京のアーティストのアトリエを回った。今は国外で生活しているアーティストのアイ・ウェイウェイのアトリエに行って取材したのもその頃だ。

当時、現代アートだけでなく、北京では音楽も盛り上がっていた。日本のフジロックやサマソニに匹敵するモダンスカイ・ミュージックフェスは2007年にスタートした。その第一回、私も友人と一緒に見に行った。

今でも私の一番のお気に入りのバンド「ニューパンツ(新裤子)」のライブを見たのは、そのフェスの会場だった。バンドだけでなく、小さなステージではエレクトロニックも盛り上がっていたのを覚えている。北京のライブハウスでも、その頃から頻繁に、エレクトロニックのライブにも通うようになった。「ニューパンツ」のボーカル、ペン・レイに取材をしたのもその頃だ。サインしてもらったCDは宝物だ(そして、今年、バンドの番組でペン・レイがまだまだ現役、というところを見せてくれて大感激したのだ)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?