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自由という苦痛

ある説によると、現代を生きる若者のコンプレクスは、人と変わっていることではなく普通であること、特徴のないことらしい。自我の確立していない状態で、個性を際立たせようと考えれば、思いつくのは、隣人と比較し、隣人がしていないことをするしかなく、結果巡り巡って没個性となってしまうジレンマが彼らを苦しめるそうだ。

注目と承認に頼って生きる若者なんかにとっては、なるほど、没個性は死活問題なのかもしれない。

さて、先日の読書会のテーマ、安部公房「砂の女」は、1962年新潮社より発行された。読売文学賞を受賞し、映画化もされ、前衛文学であるにもかかわらず、当時、多くの読者に広く読まれたという。

しかし、この作品が多くの人に読まれたのには、そういった理由に留まらない魅力がつよそうだと感じる。

この小説に出てくる世界は、不条理だ。全体的に、全面的に、これでもかというほど不条理。不条理に満ち満ちた世界。

ある日、昆虫採集をしに砂地へ出掛けた主人公の男が、集落の老人から、吹き付ける砂に沈みかけた穴の底の民家へ案内される。やがて監禁されたことに気がつき、なんとか逃走を図るも、失敗する。そして、最終的には穴から抜け出すことに成功したのに、「やはりもう少しここに居よう」と考え直し穴に戻る。

あらすじを聞いても、なんのこっちゃだ。しかし、ここにはファシズム国家になっていた戦時下から、戦後急速に民主主義国家へひっくり返された日本。高度経済成長にともない、ものすごいスピードで個人主義的になりゆく日本で、何者かになることを求められた男の苦悩がうかがえる。

自由な民主国家の一市民。それは、何者にも侵害されない権利を有すると同時に、何事にも個人の選択が迫られるということでもある。

職業は何を選ぶか、家庭を作るか独身主義か、職業以外に違う世界を持つのか、どの党を支持するのか、服は何を着て、食事は何を食べ、読み物は新聞か、週刊誌か、漫画雑誌か。

少し前までは、選択肢自体が限られていた。家業を継ぐのか、近所で勤め人になるのか。何歳までに結婚しておくべきか、子どもはできるだけ沢山いればめでたい、もし多すぎたら、足りない家へ行かせることもできる。年老いた両親は若い子供達が世話をし、隣近所は助け合う一つの集団と決まっていた。

現代の私たちから見ると、窮屈そのものであり、選択の余地の奪われた社会。新しい時代の空気に気圧されつつ、しぶとく残っていた感覚。この小説が発表された時、消され行く時代と新しい時代の境界は都会と田舎という対比によって、浮かび上がるものだったのかもしれない。

主人公の男は、進んだ都会のインテリ教師だった。実際どのくらい進んでいたのかは分からない。しかし、少なくとも本人はそう感じていたし、そう感じたがっていた。既存の婚姻制度へ迎合せず、自由恋愛を謳歌し、避妊し、働き蟻の同僚たちから、一歩抜け出し、たとえ片隅であろうと後世にその名を刻むために、新種の昆虫を探しに山奥まで行った。

しかし、監禁されながら思い起こすのは、結婚妊娠を望まない男と遠回しな言葉でごまかし続けた恋人との間の溝。灰色の個性なき同僚たちに感じた浅ましい優越感。色付きの友人と交わした言葉で答えの出せなかった教育への疑問であった。

読んでいて、彼のそんな苦悩は、どれもこれも、選択の自由があることから来ている様に思えた。自由に選択した結果への責任を持て余しているように見えたし、選択に確固たる理由なんて自分の中に確立されていなかったように見えた。

ではなぜ、彼は選んできたのか?

砂の村の不条理な締め付け。無意味で合理性のかけらも感じられない砂掻きの義務。労働しさえすれば配給される生活物資。愛郷精神の旗の元、村が一丸となって砂の害と戦う。

ある若い読書会参加者の方が、「口喧嘩のやりとりが、直截な言葉で、子どもの喧嘩の様で面白い」と言った。私は、井伏鱒二の「言葉について」という短編を思い出す。田舎に行けば可憐な少女の言葉遣いすら荒いという井伏の見解は、距離感を測る為の持って回った言い方も、複雑かつ豊富な語彙を必要とする権利主張も不要な山奥なら考えられる事だ。

人は、言葉が未熟だと、知能も下だと勘違いしてしまう習い性があるそうだが、真実はそうとは限らない。男もこの稚拙で直截な言葉に油断して、優越感を抱き、何度もしっぺ返しを食らった。こうなると、男が求めていた知性や文化とはなんだったのか、本当に求めているものは何なのか、分からなくなっていく。

穴に戻ることを選んだ男の目に、自由は、戻るはずだった街は、暮らしはどう映っていたのだろうか。彼を守ってくれるはずの法治国家はどう映ったのか。

安部公房は、戦後日本に暮らす人々へ、一度読んだら忘れられない魅力的なこの「砂の女」を発表した。そして、これはまた、普通であることがコンプレクスだという現代の若者の、心の奥深くに沈んだモヤモヤをすくい上げ、寄り添ってくれる小説にもなり得ると私は確信する。

自由という苦痛を考える時、、この砂の村はユートピア的な魅力を放っているから。





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