文学作品の楽しみ方

こんにちは、歴魂です。これまでの投稿では、歴史に関係するものにふれてきたのですが、私は歴史だけでなく日本文学にも興味を持っています。特に近代文学であり、その中でも芥川龍之介を特に好んでいます。

私は、文学部史学科に所属していますので日本文学部の授業も選択をすることが出来ます。それらの授業から学んだ事や、自分なりの楽しみ方を今回は書いていきたいと思います。

[授業で学んだこと]

私が、近代文学講読という授業の中で学んだ幾つかのことを紹介していきます。

①色の持つ意味

数々の文学作品には、色が出てくる場合が多いと思います。芥川龍之介の「大道寺信輔の半生」を例にあげますと灰色であったりします。ただ単に作品を読むだけであればたった一つの色だけなのでスルーしてしまうかもしれませんが、往々にしてこれらには必ず何かしらの意味若しくはメッセージが込められていることがります。特に、芥川龍之介のような短編小説家であれば短い小説の中でひとつひとつの単語には必ず何かしらの意味が含まれています。それを探求することによりより深い読みにつながり作品をより楽しめます。

②文章の構成

小説というのは、世界に満ち溢れています。そのような、小説も当たり前でありますが、文章構成にはたくさんの種類があります。今回、紹介するのは志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」というものです。この作品の始まりは面白いもので今風に言えば、出オチというのでしょうか結果からはじまり、その結果に至った経緯を小説の中で書かれていきます。そこで、この小説を楽しむにはこの出オチがなぜそのように書かれているのかということを考える必要があります。ここでは、皆さんに考えてもらいたく明言は避けますが必ず何かしらの理由がありそのような書かれ方をしています。①の事と文章構成のことを考えながら小説を読むと更に深い読みに繋がり、小説を楽しめます。

[私なりの楽しみ方]

ここからは、私なりの楽しみ方を書いていきます。私は、近代文学の中でも芥川龍之介その中でも後期作品に強く惹かれています。前期・中期の芥川作品は非常に洗練された文章で、美しすぎて人間が書いたとは思えないほどです。しかし、後期になってくると神経衰弱やその他色々な要因が重なり合い芥川作品に変化をもたらしています。私は、その作品から芥川龍之介の本人の姿が見えるような気がして後期作品を好んでいます。

さて、本題に入りますと私なりの文学の楽しみ方は極限状態の人間が書いた作品の中に登場する人の本当の姿を探すことにあります。人が、余裕のある状態で書いた作品は非常に技巧が織り込まれていたり、言葉が巧みに使われていたりして非常に美しい物を生み出します。しかし、わたしはその中から作者の本当の姿を感じ取る事があまり出来ません。これは、私の力不足かもしれませんが、生命の危機が迫る中書かれた作品や、切羽詰まったなかでかかれたものにはそれまでにはなかった作者の姿が登場します。私は、それこそ作者の本当の姿であると思っています。

それらをよく見られると思うのが芥川龍之介の後期作品です。代表的なものでは、「河童」「大道寺信輔の半生」「歯車」であります。これらの作品には、芥川龍之介が神経衰弱に苛まれ死を意識していたことをひしひしと感じます。前中期にはない、芥川龍之介本人を感じられます。これこそ、私が思う文学の楽しみ方がと思います。

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