無声映画:思ひ出

エルンスト・ルビッチ監督

1927年制作

原題は、The Student Prince in Old Heidelberg

邦題を『思ひ出』と名付けた人の感覚は、作品の本質をよく捉えていたと思うし、この映画に、これ以上の題名はないと思う。

ルビッチという人は、映画に詳しい人の間では、知らない人のいない程の有名な監督らしいのに、この作品は代表作という程ではないのか、伴奏音楽を付される機会もなかった様で、完全に無音の上映。

サイレント映画でも、本当にサイレントでの上映は珍しい筈だけど、音がない分、余計に映像が際立って見えたのか、生まれて初めて本物の映画を観た気がした。

全人類の青春が、このフィルムの中にはすっかり収められていて、主役のラモン・ノヴァロが、カール・ハインリヒの学生時代を無邪気に演じれば演じる程に、思い出は一層美しく、そして儚いものとなっていく。

恋人カティを演じるノーマ・シアラーも、勿論、可憐で美しいけど、この映画の魅力は、ジーン・ハーショルトが演じる家庭教師ユットナー教授との深い友情、ボビー・マック演じる老ケラーマンのコミカルで愛らしい立ち居振舞いにこそある。

ロマンスとコメディの割合が、黄金比をなしていて、笑いながらも 胸は次第次第に締め付けられてしまう。

最近の映画は詰まらないとか、こんなのは映画じゃないとか、そういう事を言う人達に与する気持ちは少しもないのに、『思ひ出』を一度観てしまったら、トーキーは随分に騒がしくて、画を損なっているばかりだな、とすら思えて来る。

映画を映画監督で選んで観た事はなかったけれども、エルンスト・ルビッチは、体系的に観てみたいと思った。

そして、ラモン・ノヴァロにもすっかりやられてしまったので、この人の出演作も、やっぱり色々と観てみたい。

今回は、シネマヴェーラ渋谷の“素晴らしきサイレント映画Ⅱ”という企画で観た。

『思ひ出』はソフト化もされておらず、取り扱っている配信サイトも無い様で、もう観られないと思うと悲しくて仕方がない。

せめてもの救いは、シネマヴェーラ渋谷でも、二回しか上映されなかったのだけど、そのどちらも観ることが出来た事か。

ルビッチ監督の作品は『寵姫ズムルン』も同時に観て、やっぱりこの人のタッチは好きになりそうな気がしたので、今週は『山猫リュシュカ』を観に行こうと思う。

ノヴァロは『ベン・ハー』が代表作の様なので、こちらはDVDで観てみよう。

『思ひ出』は、もう暫くは観られる機会はないだろうし、もしかしたら二度と観られないかも知れない。

その喪失感がまた、映画のストーリーと重なって、一層“思い出”は美しく
大切なものとなる筈だ。

ならば、そういう出会い方からお別れまでを含めて、一幅の絵画を味わう様に、ルビッチの『思ひ出』、ノヴァロのカール・ハインリヒに出会った人生を、こちらはこちらで噛み締めよう。

束の間の再会は、時に月日の無常を残酷な程に暴いてしまう。

どんなにケラーマンとの友情が懐かしく、カティの想いが一途であろうとも、否、一途であればこそ。

本当に切ないのは、結ばれない恋愛よりも、過ぎ行く時を知る事なのだ。

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