捨てられた空き缶の様なもの
詰まらない日記を時々書いている。
そして、こうして野晒しする。
時には、人目にもつく様だ。
駅のトイレに置き去りに捨てられた空き缶に、ふと、目がいく様な感じだろう。
それは、ただのゴミなのだけれども、とても哀愁を帯びて見える事もある。
ただのゴミなのだけれども、必要以上に不愉快に思う日もある。
ただのゴミなのだけれども、無生物なのだけれども、何かをこちらにじっと問うている様な、意思の力を感じる場合だってある。
ただのゴミ故の性が、そこにはありそうだ。
或いは、それが不意に視界に留まるこちらの意識にこそ、意味は生じるのかも知れない。
日記にまれにコメントが付く事がある。
自分の気持ちが伝わったのかな、と思われる内容の事もある。
そんな大層な事は書いていないのにな、と思う事もある。
意図せず、攻撃される事も、ないこともない。
もっと深遠な事を問うたのに、とがっかりする事もある、かな。
何れ、ゴミ箱に捨てられなかった空き缶の話だ。
駅には、ゴミ箱が設置されている事もあるし、ないこともある。
それによっても、置き去りにされた空き缶の意味には、多少の違いが生ずるに違いない。
捨てた人の意図、無意識の悪意、悪気のなさ、それは一缶一缶、一人一人、事情は違う。
行為の重みも、時々違う。
ただ、収まるべき所ではない場所に、役割りを終えたモノとして、そこにある。
その意味を担保するのは、捨てた人、空き缶そのもの、ふと目に留めた人、清掃作業員?
リサイクル工場か、それとも、不燃ごみ処理場か。
田舎の無人駅の話なら、永年、放置され、なんの対処もされないとも限らない。
絵になる構図もあるかも知れない。
腐臭を放つ事だってあるだろう。
ふと、憐れに思い、同情する事もある。
不愉快極まる時も、ままある。
それは、捨てられ方の問題なのか。
捨てられた物の特性なのか。
目に留めた者の人生観なのか。
トイレに置き去りにされた空き缶に、ふと思う。
あれは、日記の様なものだな、と。
誰の日記も、誰の目にも、日記とは、空き缶の様なもの。
そう思うと、日記をつけるのも、一概には、悪くない。
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