映画『剣の舞 我が心の旋律』を観て

ハチャトゥリアンというと、どこか楽天的で、能天気な作曲家であると思われ勝ちだ。

だけれども、この映画を通じてみれば、そういう聴き手の態度こそが楽天的なのだ、と気が付く事になるかも知れない。

勿論、映画には映画のストーリーがあって、史実を基にしたとしても、誘う先はフィクションだ。

ソビエト体制下の音楽を聴く時に、歴史的な背景を考慮する事は、多くの音楽愛好家にとって良識であり、良心の現れだと思うが、そんな誠実な人達にも、十分、受け入れられるだろう、トーンを持った映画だと思う。

まぁ、そういう難しい事を抜きにしても、ハチャトゥリアンの代表作『ガヤネー(ガイーヌ)』は、愉しくも、切ない音楽だ。

中学生の頃に、初めてガヤネーの全曲盤のCDを聴いて、その音楽に熱狂した日をふと思い出した。

それは、映画の中のワンシーンで、今まさに前線に送り出されようとする兵士が、目を輝かせて魅入った舞台への眼差しとは雲泥の差の、全く異なる熱狂ではあるけれども、ハチャトゥリアンの音楽が持つ土俗的な力感は、誰の耳にもダイレクトに届くものなのだ(故に、軽蔑する好事家も多いに違いない)。

この映画の製作陣には、必ずしも音楽に通じた人がいなかったのか、素人が観ても、ちょっと残念な気のする場面も幾つかあるのだけれども、そういう事もみな些末な事だと思わせるのもまた、ハチャトゥリアンの音楽のおおらかさ故である。

ハチャトゥリアンの音楽が鳴る度に、涙を禁じるのが難しい、そんな映画だった。

物語上、重要な役割を果たす登場人物は、何れも架空の人物が割り当てられてはいるが、同時に、時代を取り巻く雰囲気と人間模様を、とてもよく身に纏い、象徴する存在にもなっていた思う。

剣の舞は、余りに有名になり過ぎて、通俗な音楽として軽蔑される程である。

しかし、ガヤネーを一度でも全曲聴いた事がある人ならば、剣の舞を以ってハチャトゥリアンを代表する事の愚を悟らずにはおられない。

それに、表題に反して、この映画の根底に流れている音楽は、ガヤネーですらないのだ。

先に作曲された仮面舞踏会のワルツが象徴的に奏でられ、後に完成される交響曲第2番こそが真の大作であると予言されている。

まるで、ハチャトゥリアンという人を知りたければ、この二作を聴くべし、と言わん許りに。

映画を観終わって、帰路、レコード店に立ち寄って、ハチャトゥリアンの作品を纏めたCDの組み物を買った。

アルメニア人がアルメニアの楽団を指揮した演奏で、ハチャトゥリアンの音楽が好きな人ならば知らぬ者のない有名な録音だ。

ただ、聴いていて、少しだけ、物足りなさを覚えた。

ハチャトゥリアンの音楽が持つローカル色の強い野趣な魅力を遺憾なく堪能できる名演奏ではあるのだけれども、この人の音楽は、実はもっと洗練された普遍性を志向した音楽なのではないのかな、と思えてならない。

ハチャトゥリアンに、そんな印象を抱くのは、初めてだった。

アルメニアからも、ソビエトからも、そして何より我々の良心から一度解放してみたならば、一体、その先にどんな音楽が鳴り響くのか。

大才の孤独は重層だ。

『剣の舞 我が心の旋律』を観て、つくづく思う。


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取り留めもなく、思い付くままに、書き捨てて、聞き流し、目を逸らす。 住所一定無力、自称社会人。