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~離島で学校を創る~ @まなべる環境を整える

「教育機関を創る」と言うと、決まって聞かれることがある。「先生はどうするの?」「授業はどうするの?」である。

私にしてみれば「なんで先生じゃないと教育できないと思ってるんですか?」ってことです。「教育=授業というスケジュール・カリキュラムがないといけないのか?」ということです。もっといえば「先生がいないと子どもは勉強しないのですか?」「授業がないと子どもは勉強しないのですか?」という問いになります。答えはNOです。

戦後まもなく制定された現在の6・3・3という学校教育制度は、日本の教育水準を上げ高度経済成長へと導く人材の輩出という点において重要な役割をになってきました。すべての子どもに公平に学習の機会を与え、評価できる素晴らしいシステムです。しかし、それは学校でしか勉強を学ぶことができなかった時代のシステムなのです。

最近、教育現場でも「非認知能力」の重要性が問われています。この能力は幼児期に培われる力と言われていますが、学校においても確実に学力重視からシフトしています。

が、です。カリキュラム(フレーム)が旧学力重視のシステムのままで授業の中身を、地域探求、体験型、課題解決型という総合的な学習として取り組んでも「非認知能力」は育たないというのは私の個人的な考えです。つまり、週2時間程度(2単位)を総合的な学習の時間としても、学校には様々な行事があり、実際に地域に足を運んだり、調べたりする時間も期間も限定されるのです。それでは体験したとは言い難いのです。

結局、限られた時間で調べて、グループでアイデアを付箋に書いて、意見をまとめ、パワポでプレゼン資料を作成し練習して発表する。。。ということになります。数字で表れない「非認知能力」ですので、やった気持ちになって終わりです。

しかし、学校を責めても、先生を責めても仕方ありません。そういう教育制度なのですから。先生方はほんとうに苦しそうです。学習のカリキュラムと体験のカリキュラムは別のフレームが考えなければ、結局評価の対象となりかねません。学校教育、次から次へと新しい教育内容に対応しなければならず、ほんとうにこのままで大丈夫なんだろうかという危機感は強いです。もし、既存の公教育のシステムに捉われなくてもいいのなら皆さんはどんな教育が必要だと思いますかって話なんです。ほんとうにゼロから教育機関を創ろうとするとき、やっぱり1日6時間授業を受けさせたいですか?

1日6時間、先生が授業をしなくても知識はネットでいつでも学習できる時代です。しかも、優秀な先生の授業がいつでも見れるのです。子どもたちが目標を設定すれば、その目標にしたがってサポートすれば教員免許を持った先生は必要ありません。授業という時間に拘束されることもありません。

また、離島で生活すれば、日常の生活の中に嫌でも課題が付いてきます。困難も失敗も自然が運んでくれます。地域という意識が強く協働、協同の「結」の精神が根付いています。逃げたくても逃げられません。(笑)

「非認知能力」と言われる、意欲、協調性、粘り強さ、忍耐力、計画性、自制心、創造性、コミュニケーション能力といった、測定できない個人の特性による能力。それらは、教えて身につくものではありません。だから、環境を整える必要があるのです。

離島の学校に、先生は必要ありません。授業も必要ありません。

大切なのは、学習環境と生活環境なのです。「離島で学校を創る」というのはそういうことです。だから、不登校になっている生徒にはチャンスだと思っています。既存の学校教育に捉われず。学歴も追い求めず。ほんとうの学びを選択できるのかも知れません。


「良く生きる」自立して生きていくための手段や知識を学ぶ

「知性」


「善く生きる」人としての生き方、生き様を学ぶ

「感性」


教えるのではなく、環境を整えて提供するだけなのです。教育のパラダイムシフトが必要なのです。


非認知能力 (ひにんちのうりょく)
別称・英語表記(Non Cognitive Skill) テストでは測定できない個人の特性による能力。意欲、協調性、粘り強さ、忍耐力、計画性、自制心、創造性、コミュニケーション能力といった、測定できない個人の特性による能力。学力(認知能力)と対照して用いられる。学術研究によって、非認知能力の高さが学歴や雇用、収入に影響することが明らかになっていることから、幼児教育の分野で注目を集めている。非認知能力は、学力のように1人で身につけられるものとは異なり、集団での行動の中での困難や失敗、挫折などの経験を通して養われるものが多い。(https://edtechzine.jp/glossary/detail/非認知能力より引用)

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