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自我の執着の源を発見するにしたがって、〈わたしたちは自分自身に魅了されている〉というきわめて重要な驚くべき発見に至ります。

明け渡しのプロセス

霊的探究者ならば誰でも、神へ至る道はすべて、明け渡しがその核心であることを知っています。しかし、明け渡しとは何であるか、またどうすればできるのかについては明らかではありません。確固たる技術がなければ、探究者はコンテント内容/中身(内容/中身)を明け渡すために何年も費やし、以前から一歩も進んでいないと嘆くことになります。マインド(マインド)はわき目もふらず、果てしなくコンテント内容/中身を創出し続けるので、いくら明け渡しても間に合いません。これでは、負け戦です。

次に求道者が耳にするのは、コンテント内容/中身ではなく、コンテント内容/中身に対する執着心が問題なのだということです。これを聞いて、しばし安堵するかもしれませんが、すぐに次の疑問が頭をもたげます。では、どうすれば執着心をなくすことができるのだろうか?

その前にわたしたちは、執着心の構造をよく理解する必要があります。執着心は、信念と欲望を基盤としています。その信念とは、頭の中のコンテント内容/中身は幸せをもたらし、問題を解決してくれるというものです。つまり執着とは、考えること自体が幸福(富、成功、ロマンスなど)への道だとする暗黙の了解に対してのものなのです。

考えることを放棄するのは脅威です。というのも、それが生存のための主要なツールであり、考えを”わたし”だと思っているからです。その”わたし”はユニークで、個別的、貴重なものと見なされており、”わたしは誰か”という自己アイデンティティの主要なデータベースでもあります。

自己アイデンティティを失う恐怖から、抵抗が生まれます。自我の執着の源を発見するにしたがって、わたしたちは自分自身に魅了されているというきわめて重要な驚くべき発見に至ります。

たとえ思考や痛みや失敗を背負い、災害や苦悩を招いてるとしても、わたしたちは、”それがわたしそのもの”なので手放そうとはせず、思考との間に愛憎関係を生み出しています。そして、自己は思考の生存を確かにするために、ネガティブな感情から活力と満足感を”搾り出す”術を覚えています。また、不公平、苦難、失敗、罪悪感を生き甲斐としています。自我は密かに、被害者の立場を”愛し”、それに執着し、痛みと苦しみから歪んだ快楽と正当性を抽出しているのです。こうした傾向は、依存症やライフスタイルといったさまざまな場面でも観察されます。”敗者”という人物像は、音楽や物語の中でロマンチックに描かれているものです。(例:「ミスター・ボージャングルス」[訳注:カントリー・シンガーのジェリー・ジェフ・ウォーカーが留置所で出会った”老いぼれた”ダンサーをテーマにして作った曲。七〇年代、さまざまな歌手によって歌われた])。

わたしたちはこれまでずっと思考を愛し、大切に扱ってきました。思考のためなら言い訳もし、それをかばい続けてきました。また、嫉妬心さえ起こすこともありました。思考を賛美したかと思うと、次は罪悪感と自己嫌悪から自らを裁き、軽蔑しました。けれども、どのみちわたしたちは自分自身に心酔しているのです。そして、人生というドラマのパレードの中で、自己像はどんどん美化されていきます。愛するものを手放すのは、喪失の怖れをもたらします。自己にとって、愛する対象はすべて幸福の源のように映るのです。

次の革新的な問題は、わたしたちが感情的な愛を手放したくはないということです。愛そのものというよりは、愛の対象への執着を手放すことができないのです。わたしたちは、愛の対象を失うと哀しみがやってくると思っています。しかし実際は、執着心が哀しむのであって、それは愛の対象が喜びの源であると思い込んでいることに起因しています。哀しみとは”外側”にある幸せの源泉を失ったという幻想から生じています。

しかし、幸福感をよく観察してみると、それが内側にあるものだということに気づきます。確かに外側のものが誘発したかもしれないが、幸福感は内側から生じる喜びです。つまり、幸せの源は内側にあり、心が欲する結果が得られたときの、好ましい状況の中で放出されるものなのです。内面をつぶさに観察すると、あらゆる事象は、もうすでにそこにある内的な特性を刺激しているにすぎないことがわかります。そして、喜びの源は内在しているので、失われることがないことに気付けば、怖れは減少します。

「真実」から見れば、思考は”外側”のものです。驚くべきことに、思考こそが真の幸福感を得る妨げとなっているので、これは完全に捨て去ってもよいものなのです。

重要な課題

それほど努力しなくても、わたしたちは考えることを密かに愛しているので、それに執着しているという興味深い気づきを比較的簡単に得ることができます。自己を愛しているから、珍重するのです。愛するものに執着しているから、それを失うことを恐れるのです。

次に発見するのは、自らを愛するのは誰/何で、この原初的な現象はいつから起こったのかということです。”何か”がわたしたちの存在を愛し、それに執着しており、自我(マインド/肉体/自己)が愛の対象であることはわかっています。そこに主体と客体があります。”これ(わたし)”が”あれ(自己)”を愛しているのです(自己陶酔性)。

黙想や瞑想をすることによって、わたしたちの存在の核心が徐々に明るみに出ます。自己より偉大な何かが、自己に真実の愛を注ぎ、自己の全体性を完全に包み込むことができるのを発見するのです。自己の全体性は、背後にあるより大きな非線形領域の気づきに包まれ、それはこれまでも常にあったものです。それはコンテント内容/中身ではなく、コンテクスト文脈/状況(文脈/状況)を表します。たとえるならば、宇宙から地球を眺めるようなもので、宇宙がコンテクスト文脈/状況で地球がコンテント内容/中身です。

愛の源泉をたどっていくと、わたしたちは「自己」に行き着きます。太陽のように、「自己」は常にそこにあり、無条件で、思考や意見、態度から自由です。「自己」はただ愛します。なぜなら、それが「自己」の本質だからです。「自己」の愛は、獲得したり、与えられたり、何らかの制限があるものではありません。「自己」は生命の源泉であり、存在の主体的な意識です。

後に、「自己」にとっては存在さえも不要であることが発見されます。「自己」はあらゆる二元性を超えています。「自己」と存在の間の二元性さえありません。「顕在」と「非顕在」は、本来同一です。意識は、コンテント内容/中身を含めようが含めまいが関係ありません。空間が惑星や宇宙に依存することはなく、双方を含んでいるのと同じことです。

愛は二元性を超えています。主体も客体もいりません。愛は「真実」の特性で、環境に依存していません。

明け渡しによって、「神性」の無限なる慈悲が障害を取り除き、神の顕在として存在するものすべてを無条件に愛します。唯一、幻想がこの明白な真理を覆い隠しているのです。

覚醒とは、真理を実現する障害が取り除かれたときに現れる真理にすぎません。太陽が、雲が取り除かれたときだけ輝くという条件的なものではないのと同じことですーーただ、輝きが明らかになったのです。

『I<わたし>真実と主観性』81~84ページ


『I<わたし>真実と主観性』77~96ページ 第3章 霊的浄化

朗読の11分13秒~26分41秒の約15分間の部分が、81~84ページです。

自我の執着の源を発見するにしたがって、わたしたちは自分自身に魅了されているというきわめて重要な驚くべき発見に至ります。→この発見からの、次にこの情報がいいかなと思う所をつなげておきます。

あとは、意欲をもって、霊的探究をやっていけるかです。死ぬか生きるか霊的探究かぐらいのことになると思っていますが、それは、ひとりひとりの自由意志の選択になるので、慈悲、許し、寛容、忍耐、だと思っています。

みんなで、真の世界平和を実現させましょう。その任務のために、この地球にやってきています。

セカヘワ/SEKAHEWA

2024年8月29日 KIN53、台風10号が九州に上陸して、風が強くなってきました。すべては必然ベストタイミングの地球の浄化ですので、慈悲、許し、寛容、忍耐、根気、いたわり、美意識、温かさ、親しみやすさ、率直さ、柔軟性、陽気さ、調和、ユーモア、献身、無執着、大目にみること、愛情、愛、超越、偏見のなさ、共感、平安、優しさ、誠実さ、品性、慈善、で、執着せずに、無難を選択して、ご安全にお過ごしください。


おかげさま104の、今回が159本目の記事になります。

オマケ


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