日記

野上弥生子の日記は、38才から死の十七日前まで、実に62年分が、ほとんど毎日あり、119冊のノートに記されている。 後に編集者とその夫人が原稿用紙に浄書したところ、二百字詰めで3万8千枚に達した。これは、300枚の本としてみると、実に63冊分に相当する。

赤松重明。いいちこの三和酒類の創業者。「私は六〇の時から一日も欠かさずに日記をつけていますが、夕方日記をつけるときに、きょうはこういうことをした、自分が思っていることはすべてした、よくやった、という風に思って自分に手を合わせます」

帝大時代の「三島弥彦日記」には、天気、起床から就寝までの行動の日誌で、短いのは「晴。終日家にをりて、憲法を見る。一時に床につく」などほんの一行から、長いものでも200字ほどである。文学青年ならば、内面をのぞく長いものになるだろうが、スポーツマンはあっさりしている。

『古川ロッパ昭和日記』という本が4巻でている。ロッパはその日の出来事を事項別にメモしたノートに記し、その翌朝、ノート類をもとに日記に付けていた。日記の総量は400字詰め原稿用紙3万枚以上というから、本100冊分に相当する膨大な量だ。1年4冊ほどだ。1934年1月1日から死の直前の1960年12月25日までロッパの日記は、その日の行動を挙げていく。舞台の感想、新年の決意、金の苦労、食い物談義、酒バカの様子、仕事への意欲などが垣間見えて興味深い。

佐藤栄作「佐藤栄作日記」第四巻(朝日新聞社).

徳間康快。日常生活。夜は9時に帰宅し10時就寝。午前3時起床。顔を直し、1時間散歩。朝5時から、手帳に書いたメモを日記帳に写す。その内容を何度も読み返す。会う人の発言集をつくり、会う時に活用する。こういうことで人心をつかんだ。日記には本当のことを書いていたようで、死んだらすぐに焼くように家族には言っていたそうだ。

佐野眞一『凡宰伝』では、小渕という人間が姿を見せている。「人間は何でもやってみることが必要」だとして、口下手を克服しようと雄弁会に入る。ハワイアンバンドでウクレレ、ベンチプレス、詩吟、書道などにも手を出している。合気道は4段だ。楽天的。負け上手。裏切らない。自身も「誠実」と「一貫」を標榜している。また観光学会、早稲田群馬会などさまざまな会合に関わった。それが豊富な人脈になった。この「鈍牛」は、50年以上、毎日日記をつけている粘着質でもあった。そして人を驚かす電話攻撃の「ブッチホン」などで庶民の心をつかんでいる。

27歳から47歳で亡くなるまでの21年間の日記では、蝦夷地と四国以外の日本中を旅したことが記されている。有名、無名の交遊は5千人に及ぶ。記念館では公家、儒学者、無名の人々などその交遊の広さに驚いた。高山彦九郎は今で言うネットワーカーだったのだ。ネットワークをつくり、つなげながら、自らの思想を練り上げ、日本の中に伝播していった人である。知的武者修行でもある。旅の思想家だった。

三重野は読書家である。読書日記をつけていて年平均80冊という。

和田勉はメモ魔であり、それが発想のもととなった。また高校・大学時代から亡くなるまでずっと日記をつけていた。『テレビ自叙伝』の最大の資料がその日記だった。

3歳から82歳の死の直前までの49年間、毎日日記を書き続けていた。また善次郎は自分を支えてくれた人や自分の愛する人たちの命日を大切にし、大きな行事をする時には、その命日にあわせることで、彼らへの敬意や愛情を示し続けた。
「世路は平々坦々たるものにあらずといえども、勇往邁進すれば、必ず成功の彼岸に達すべし。勤勉、努力、節倹、貯蓄、一日も怠るべからず。」

金子兜太は50代半ばから日記をほぼ毎日書くようになった。日記はやめないというより、やめられない。癖になっている。「私にとって日記が唯一の財産」となる。

何といっても19才から65歳までの日記83冊の「原敬日記」の存在が凄い。遺書には「余の日記は、数十年後はとにかくなれども、当分世間に出すべからず、余の遺物中この日記は最も大切なるものとして永く保存すべし」とあった。このため本箱ごと故郷の盛岡に送られ、保存されていたため、関東大震災にも東京大空襲にもあわずに後世に遺すことができた。この日記は没後30年たった1950年に公開されて、出版された。原はどうやってこの日記を書き続けてきたのだろうか。毎日、簡単なメモを取っていてそれを材料に一週間に一回詳細にきちんとまとめていた。パソコンやブログのような便利なツールがない時代に、激務の中で継続して書き続けた意志力には感銘を受ける。

シュリーマンは12歳から68歳で没するまで、50年以上に亘って日記をつけ、ノートを残している。「私はつねに5時に起床し、5時半に朝食、6時に仕事をはじめて、10時まで休まず」「私の習慣としてつねに早朝3時45分に起床し、、、次に水浴した」「床に入る前に日記をつける」

墨東奇談などの作者・永井荷風(1879-1959年)は38歳から79歳で亡くなる前日まで、42年間にわたって日記を書き続けている。胃腸を含め病気の多かった荷風の別号が断腸亭で、日乗は日記のことである。

「名言との対話」8月25日。高木東六「後悔していることがある。それは、この八十年、無精をして日記をつけなかったということだ」

佐藤栄作日記。24年間の日記40冊が6巻の書物になっている。この中の第三次内閣を組織した1970年と1971年の二年分を読んだ。69歳から70歳という年齢で総理大臣のときの日常が淡々と記されている。印象を変えた。

日本が生んだ最高の作詞家・阿久悠(1937年生まれ。享年70歳)が1981年1月1日から22007年まで26年7ヶ月にわたって毎日書いた。一日一ページ。身辺雑記、仕事のメモ、ニュース、本や新聞の情報、アイデア、箴言。一日一時間。サインペン。
世界情勢から国内の事件、スポーツの結果から記憶に残る言葉、自分の考えと行動を同格で書くというスタイル。阿久悠日記は計算すると9700日ほどになる。それでは私は3メート先の1万日を目指すことにしようか。
「千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬となす」(宮本武蔵)

続けるためには、環境の変化に対する日々の工夫、自分の意欲などのコントロールに配慮する必要がある。そういった問題解決の連続の中で、継続ができることになる。何ごとも続いているということは、工夫ができているということなのだろう。

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