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11月11日。江上波夫「学問は人なり」

「名言との対話」11月11日。江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 2002年11月11日)は日本の考古学者。

中学生だった江上は関東大震災で避難した千葉の房総で地震のために隆起した洞窟の堆積物の断面に土器や動物の骨を見つけ、東京帝大の人類学教室に持ちこんだ。このことが学者への道に繋がり、太古の歴史を探究する学問をが天職となっていく。

歴史的事実の再現を試みるのが歴史学であり、細分化ではなく総体化、平面的ではなく立体化、抽象的ではなく実態的な歴史学を提唱する。全体の構造図を脳裏に叩き込んだ上で、個々の実像の構築・復原に向かうことが重要とする方法論を駆使した。

また、日本の歴史は、日本国内に限って研究しようとす立場だけで完結はしないと主張し、東アジアの中の日本の、世界の中の日本という広い視点を大事にした。

江上波夫は、朝鮮海峡をわたってきた東北アジア系の騎馬民族の中心勢力であった天皇氏が、時間をかけて日本の土着勢力を征服し、統一国家を形成したという「騎馬民族征服王朝説」を発表した。1948年、江上が東大教授に就任した40歳の頃だ。このロマンあふれる壮大な仮説は、支持と反発の大論争をまきおこした。司馬遼太郎が最大の評価をし、手塚治虫は『火の鳥』でこの説を採用した。一方、批判の急先鋒の柳田國男、折口信夫、佐原真らと華々しい論争を繰り広げた。

蒙古を代表とする騎馬民族には、断続的な階級意識がない、開放的である、女性がよく働く、個人主義であり、民主主義的である、という特色がある。騎馬民族は国家統一の能力が高く、農耕民族を制服し新王朝を建設する。しかし、しだいに土着民と同化していくという運命がある。日本という国は、採集型、農耕型、狩猟型の3層構造が入り交じって構成されている。日本は大化の改新までは騎馬民族型の社会であり、騎馬民が武士になったのだ、という。

ユーラシア大陸、オリエントの調査を徹底して行なったこの根っからのフィールドワーカーは、強いエネルギーの持ち主だった。海外調査の道を開いたことも大きな功績だった。1991年には、文化勲章を受章した。

江上波夫は、学問の放浪者、学問の探検家、学問の大食漢、遊牧民のような学者など、さまざまに呼ばれている。江上の学問は、肉体的に胃袋の大きい大食漢であったと同様に、専門の東洋史学に加え、考古学、民族学などを統合する学際的な研究者だった。やはり、学問は人である。その人の核は、独自の問題意識である。

現地に足を運び素手で触り、裸身で向かい、広く、あるがままに見聞を重ねる。そして歴史の鑑をみがき、今を考える。座右の銘はニュートンの「常にそのことを考えているので」であった。

「学問は人である」は、「芸人とは芸と人のことではないか」という森繁久彌の言にも通じる。作品と作者が不二一体となるほど徹底して人間性が投入された結果、すぐれた作品が生まれ出るということだろう。 どのような分野においても、優れた仕事は、それをなし遂げた人物の生き方と分かつことはできない。


 
 
   
   
   
 
   
   
 





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