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「名言との対話」11月4日、山崎達郎「何でもいいから『明日はよくなる』と思って、 必死に働いてごらんなさい。きっと、道は開けていくものですよ」

山崎 達郎(やまざき たつろう、1920年 - 2016年11月4日)は、日本のバーテンダー 。

染物屋や陸軍病院の衛生兵、王子の米国太平洋保全司令部の将校倶楽部を経て、戦前の洋酒文化を今に伝える「東京會舘スタイル」を受け継ぐバーテンダーに転身。絵描き志望、医者志望をあきらめ、三井倶楽部など様々なバーで修業を積み、38歳の時に北海道札幌に「BAR やまざき」をオープンし独立した。ススキノの名店として人気を集めた。

伝統的なカクテルに通じているのはもちろんのこと、創作カクテルの分野でも数々の世界的なタイトルを受けている。

札幌市中央区南3条西3丁目 克美ビル4階の「BARやまざき」には、山崎が短時間で描いた客の横顔のシルエットの切り絵があり、1998年2万5千枚、2000年2万6千枚と増えていき、その数は5万点を超えている。

96歳まで働き、「日本最高齢のバーテンダー」とも称された。まさに生涯現役の名物バーテンダーだった。山崎のもとで修行をして巣立っていった弟子のバーテンダーは1000人を超えている。

『すすきのバーテンダー物語』 (2000年、北海道新聞社)」を読んだ。山崎は酒をあまり飲めない。しかし、そういう人の方が成功することが多いという。不得手な仕事と思っていたが、バーテンダーが生涯の仕事になった。

バーテンダーの身分を世の中に確固とすることをめざした。サービス精神と世の中の役に立っているという使命感をもったバーテンダー人数を増やしたいというのが志となった。

バーテンダーとは「バー全体を管理する」のが役割であり、自分を磨いて自分を売る商売だ。72歳で酒匠の資格をとるなど自己を高めようとしている。カクテルは出来立てが一番良い状態だから、まずは一口」「100歳以上の長生きの人は晩酌者が多い」、、。この本の中で函館のカール・レイモンのウインナソーセージをいつも用意していると書いてあり、懐かしく思った。

2007年に男爵いもを開発した北斗市にある川田龍吉の資料館の男爵資料館を訪問したとき、カール・レイモンという食肉加工業者を知った。その「レイモンハウス」は元町にあった。一階はハム。ソーセージの販売所で、2階がカールレイモン歴史展示館となっている。1人の有能なマイスターとある。マイスターは親方という意味で、その下の職人はゲゼルと呼ばれている。その下の見習いはレーリング。これがドイツのシステムだ。「私のハムは生きています」と言ったレイモンは自らを「胃袋の宣教師」と呼んでいる。チェコで生まれたレイモンは函館東浜町の勝田旅館の娘・コウと恋愛し駆け落ちして中国の天津で落ち合い、ドイツで式をあげる。その後、許されて函館で店を開く。EUの旗のデザインの最初の提案者でもある。青地にゴールデンスターのデザインである。「私のハムはね、肉の細胞を一時的に眠らすだけ。人間の胃にはいるとすぐ細胞はよみがえるのです」。レイモンハ1987年に93歳で永眠、妻コウは1997年に95歳で永眠。この株式会社カールレイモンの従業員たちはきびきびと誇りを持って働いているようで気持ちがいい。

この本には作家の吉村昭の「バーにいく」という推薦文が載っている。「山崎さんは絵を描き、いわゆる教養を身につけていて、それがバーテンダーという仕事を豊かなものにしているように思います」。この古本の最後のページには、平成16年(2003年)の日付で、本を贈呈した相手と自分の名前と印が押してある。人柄をほうふつとさせるきちんとした字である。計算すると、当時の山崎は83歳になる。

山崎達郎の人生経験から絞り出した仕事観もいい。冒頭に掲げた「道」に関する言葉もそうだが、「真摯な姿勢で目の前の仕事に向かっていれば、いつか必ず、天職に出会うと思いますよ」など励まされる言葉が多い。さりげない指導を受けた弟子たちだけでなく、滋味豊かな仕事ぶり多くでファンから親しまれたのだろうことを想像する。私は1970年代後半に札幌で勤務したことがあり、すすきのにはよく繰り出していたのだが、残念ながらこの店は知らなかった。この人はまさしく一隅を照らした人だ。こういう人たちの存在で現在の日本が成り立っているのだと改めて感じ入った。

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