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「名言との対話」1月10日。大隈重信「予は朝にあるも野にあるも主義とする所は則ち一なり」

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日1838年3月11日〉- 大正11年〈1922年1月10日)は、日本政治家教育者。享年83。

佐賀出身。大隈家は佐賀鍋島藩の石火矢頭人(砲術長)の家で120石だった。菅原道真の子孫とされる。藩校弘道館に入学するが退学処分。19歳で新設の蘭学寮に入学。副島種臣の兄・神陽の義祭同盟に参加。大木喬任江藤新平、久米邦武らと交わる。佐賀藩は長崎に蛮学稽古所(致道館)を大隈の発案で創設。加賀の高峰譲吉も参加。フルベッキは「二人の将来有望な生徒、副島と大隈を知れ」たと手紙に書いている。

鳥羽伏見の戦いの後、長崎会議所で佐賀藩を代表して外国公使らと交渉。手腕を認められ外国事務局判事。イギリス公使パークスと談判。その後、財政に関心。会計官副知事を兼任し、外交と財政を担当。次第に財政に専念する。

大蔵大輔、参議に昇進、築地西本願寺に隣接する屋敷で「築地梁山泊」と呼ばれる進歩的政策の震源地となった。明治6年の政変では大隈は参議大蔵卿として大久保を支え、大隈財政と呼ばれた。

明治14年の政変。大隈の国会開設の奏議を過激とみた伊藤らは大隈を追放。犬養毅尾崎行雄、矢野文雄、小野梓らも官界を辞した。1882年東京専門学校が開校。1882年立憲改進党結成。漸進改良主義を主張。外務大臣を経て、1898年第一次大隈重信内閣(隈板内閣)を組閣するが党内対立で4ヶ月で退陣。1914年第二次大隈内閣では対支21か条の要求を行う。1907年早稲田大学初代総長。東西文明の調和を主張。1922年、83歳で逝去。

大隈重信については、佐賀にある大隈記念館、早稲田大学大隈重信記念室などを訪ねてきたので、そこで得た知識を披露したい。

2006年1月に佐賀の大隈記念館を訪問した。 「実業の日本」の「大隈重信追悼特集」を手に入れた。当時の著名人の大隈評は実に面白かった。大隈は過去を語らぬ人で未来のみをいつも語っている人だった。

2016年10月15日に早稲田大学構内の大隈記念室で「大隈重信の軌跡」展をみた。大隈記念室は早稲田大学創立125周年を記念して2007年に設置された。。

  • ヒゲを伸ばさない。長身。ハイカラ総長。日本自動車倶楽部の初代会長。文明運動。南極に大隈湾。1日20-70人の来客。人生125年説。

  • 1907年早稲田大学総長。学問の独立を主張。それは、西洋からの独立、政治権力からの独立を意味していた。

  • 「凡ての仕事をなすと同時に手に巻を以て居らねばならぬ、本を持って居らねばならぬ」

  • 「複雑なる社会の大洋に於いて航海の羅針盤は何か、学問だ」(1897年東京専門学校得業式、創立15周年祝典。外務大臣)。

  • 「諸君は必ら失敗をする、随分失敗をする、また成功があるかも知れませぬけれども成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打勝たなければならぬ、度失敗するとそれで此大切なる経験を得る、其経験に依って以て成功を期さなければならぬのである」

大隈は1898年に憲政党を結成総理大臣に就任するが、わずか4カ月で総辞職している。その後、政界を引退し1907年に早稲田大学の創立総長となった。1908年の大リーグ選抜と早稲田の試合で始球式をつとめた大隈が投げた大きく逸れたボールを早稲田の1番打者はわざと空振りにした。それ以来必ず始球式では空振りするという伝統が生まれた。

外国人判事を導入するという条約改正案を出した大隈重信外相に対し、玄洋社の来島恒喜が爆弾を投げ、大隈は片足を切断した。大隈重信黒田清隆が見舞った時に、「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」と呼びかけている。

ジャーナリストの阿部真之助は1948年発刊の『近代政治家評伝』(文芸春秋新社)で、「才能が、野天掘りのできる炭鉱のように露出」「不平分子を糾合」「「スリこみ、取り入り」「猫のごとくにもなり、虎のごとくにもなった」「大冊を全部通読しやおうな顔つきで」などと評している。

1月10日は特異日である。明治の元勲・大隈重信が83歳で死去した日であり、その親友であった啓蒙家・福沢諭吉が誕生した日でもある。福沢は20世紀の幕開けの1901年に66歳で往生している。3歳ほど年下の大隈は福沢の死の時点では63歳であったが、それから1922年まで20年を生きている。福沢諭吉大隈重信とは肝胆相照らす仲だった。福沢が亡くなったとき、福沢家からの使者が来て、亡くなったことと、弔問等は遠慮するという申し出に、庭の椿を自ら切って贈ったというような逸話が残っている。

政界復帰した大隈は1914年には第二次大隈内閣を組織し、対華21ヶ条の要求をするなどして、1916年に退任する。その時の年齢は78歳余で歴代最高齢であった。この事実はもし66歳で没した福沢が長生きをしていたら、どのような業績を打ち立てただろうかと考えさせる。

政治の表舞台と民間の裏舞台でそれぞれ特筆すべき業績をあげた大隈は、その姿勢は終始一貫していた。それは「予は朝にあるも野にあるも主義とする所は則ち一なり」だ。日本の、社会の、現在と将来にわたる問題意識とその解決にあたらんということだ。企業や官庁などの組織では現場にいる時の問題意識を、中枢に職を得たときにも持続する人は少ない。その役割に応じた言動をとる人の如何多いことか。我々は大隈重信のこの言葉をかみしめるべきである。

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