見出し画像

「名言との対話」 4月3日。武塙祐吉「聖人無功、至人無名」

武塙祐吉(たけはな ゆうきち 1899年8月15日ーー1964年4月3日)は、ジャーナリスト、政治家。

中学卒業時、「私は飛鳥の巡査になり、島一流の人物になって威張ってみたい」と述べて皆を笑わせた。早稲田の法律科を出て、秋田魁新報に入社するが、1年くらいで故郷に帰る。

今「二宮尊徳」と呼ばれた聖農・石川理之助と出会う。起居をともにする。粗食と重労働の人であり、裏表のない行動と優れた学問に傾倒した。

30歳の頃、故郷から秋田に出て県農政会に勤め、副会長の斎藤宇一郎に接し人格と識見に感銘を受ける。斎藤は東大林科を出て衆議院議員であった。斎藤に辞職とともに農政会を辞める。

石川理之助、斎藤宇一郎ともに、1913年に連合青年会の講演を聞いているという因縁のある人物だ。

武塙魁新報に復帰し、順調に要職をこなし、1945年2月に社長に就任するも、戦時中の責任者であったとして追放され、故郷に帰る。1951年、かつぎだされて秋田市長に就任する。一期目には小畑勇二郎(後の秋田県知事)を助役に迎えている。在職8年で、都市計画事業の推進、周辺十三カ町村の大合併など、今日の大秋田市の基礎づくりに大きな業績を残した。三選には立たなかった。そして秋田放送の社長に就任する。

新聞人としては秋田魁新報社長、為政者としては秋田市長、文化人としては一流の文筆家であった。三位一体の人物である。温厚誠実の君子人、文化人、気骨、眠るが如く眠らざるが如く、知るが如く知らざるが如く、とらえどころのない人物、、。さまざな人物評がある。

号は「三山」。中国の独立峰・大平山は三山と呼ばれていて、秋田にも一園に独立した大平山があり、若い頃からそれを号としていた。その志とのとおり、武塙祐吉・三山は秋田にそびえる高い山になった。

三山は人生の節目節目に総括的な記録を残す人であった。農政会を辞めた時には、漱石の「坊ちゃん」ばりの『単純な男』を書いた。故郷にあっては『斎藤宇一郎と農村指導』を書く。秋田魁新報社長を辞した後は故郷で『帰農半歳記』を書いた。市長就任後には青野季吉が「あせらず、迷わず、怒らず悲しまず、淡々として事に処している」と評した『離村記』、 所長退任後には『市長八歳記』、そして亡くなる寸前に完成した『秋田の人々』を書いている。生涯のある時代ごとに、その期間を総括するという習慣には感銘を受ける。これらを繋ぐと自分史、自伝ができあがるということになる。金子兜太が縁のあった人々の名前を唱えながら生きていることに感謝する儀式「立禅」を毎朝行っていたことを思い出した。兜太の場合は、詠み続けた俳句が自分史であり、立禅もそうであった。また、自分の人生に現れる友人、知人、などとの邂逅をたどりながら書いた加藤典洋のエッセイ『大きな字で書くこと』も今年読んだ。三山の場合も、縁のあった人々の回想記である『秋田の人々』は生涯の最後を飾るにふさわしいと思う。人物自分史は、私も参考にしていきたい。

三山は「聖人無功、至人無名」の語を好んで引用した。荘子の「至人の己なく、神人に功なく、聖人の名なし」をもじった言葉だろう。非凡なる凡人、大平凡人との人物評のある三山の晩年の心境であろう。

参考:元木東太郎「人・その思想と生涯」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?