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「名言との対話」 5月30日。今村昌平「粘っこく人間を追求し、無人の広野を走る勇気を持て」

今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9月15日 - 2006年〈平成18年〉5月30日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現・日本映画大学)の創設者。

医者の父には医学部を受けると嘘をついて北海道の余市から上京するのだが、自分では早稲田の文学部で演劇をやると決めていた。このときの仲間である小沢昭一、加藤剛、そして小学校からの友人の北村和夫たちと「学生劇場」を旗揚げした。

新宿東宝で「酔いどれ天使」を見た。劇作家や演出家になれればいいと思っていたが、黒澤のような映画監督になろうと決意した。

松竹大船撮影所に入る。最初の師匠は小津安二郎であった。小津の最高傑作「東京物語」で助監督をつとめた。後に小津監督からは「汝ら何を好んでウジ虫ばかりを書く」と言われ、反発心がわき、「俺は死ぬまでウジ虫を書いてやる」と決意を固めた。師とはまことにありがたいものである。

1954年、日活に移籍。ふたりめの師匠は、筋萎縮症を患っていた川島雄三監督だ。

松竹入社8年目の1958年に初監督した「盗まれた欲情」でブルーリボン新人賞をもらった。31歳というやや遅めのデビューであった。

1959年の在日朝鮮人の少女の日記を本にした映画「にゃんちゃん」を撮った。貧窮のどん底にある炭鉱の町で在日朝鮮人の兄と妹が健気に生きるという小学生の日記をもとにした映画である。この脚本は、池田一朗、後の隆慶一郎が書いた。この作品はブルーリボン主演男優勝(長門裕之)、シナリオ賞(池田一朗)のほか、芸術祭文部大臣賞を受賞した。オールロケで取る、役者に素人を起用すると言う今村組の手法を確立する作品になった。この映画は子ども私も子ども時代に見た記憶がある。

今村は当時もてはやされていた軽喜劇ではなく、重喜劇を撮りたいと思っていた。「豚と軍艦」で重喜劇の思想を形にし得た手ごたえを感じている。

柳田國男の民俗学に影響を受け、「にっぽん昆虫記」、「赤い殺意」、「神々の深き欲望)へと発展する。

1966年、39歳で今村プロダクションを設立する。「神々の深き欲望」はキネマ旬報第一位や毎日映画コンクール日本映画大賞、芸術選奨文部大臣賞などをもらった。しかし今村プロダクションは20,000,000円の借金を抱えてしまった。

1983年の「樽山節考」はカンヌ映画祭でグランプリを受賞した。これは衣笠貞之助監督、黒澤明監督に次いで3人目であった。後に1997年に「うなぎ」で2度目のグランプリ「パルムドール賞」を受章。この賞は2018年の「万引き家族」にも与えれている。

今村によれば、「この程度でまぁいいだろう」と撮影をやめてしまうことができない性分で、原作本があっても綿密な裏付け調査をしてシナリオを描くというの流儀だった。興味深いのは戸籍謄本で、その人が誕生するまでの何代にもわたる足跡をたどるだけで1つのドラマができあがる、という。

・「映画作りとはまことに割りの悪い仕事である」。なぜかというと、金を集めるために、ほとんど借金で暮らしているからだ。金集めも監督業の役割だ。

・「人間の面白さ。人間を見つめ分析し構築する仕事は作り手にとっても「全人間」をかけるものである」。今村は、人間の面白さに憑かれた人だ。

・「映画の出来はシナリオ6分、配役3分、演出1分で決まる」。監督の役割は、シナリオを誰に頼むか、配役をどう決めるか、など全般なのだろう。人事だな。

・「演出の弁」という文章には、「負けているのに勝っているように思わされ…つまりバカ扱いされながらかろうじて生き、そして虫のように死んでいった」とある。大東亜戦争のことを言っている。

日本図書センター『人間の記録 今村昌平』で、今村昌平は映画監督では珍しく、人材育成事業を展開したことを知った。1975年日本ではじめての映画学校「横浜放送映画専門学院」を創立し学院長に就任する。映画人材を養成する場をつくろうとしたのだ。億単位の負債がのしかかったりしたが、この学校からはウッチャンナンチャンや俳優の隆大介らが育っている。何千、何万という卒業生が今も映画、テレビの現場を支えている。1986年専修学校に改組した「日本映画学校」が誕生させた。この学校は死後の2011年に日本映画大学となっている。演出コース、身体表現・俳優コース、ドキュメンタリーコース、撮影照明コース、録音コース、編集コース、脚本コース、文芸コースがある堂々たる大学に成長している。ホームページには創業者の今村昌平のコーナーが今もある。監督としての仕事で人々に影響を与えるだけでなく、映画人材の育成という面からも、長期にわたって多大な貢献をしていることは評価されていい。

今村昌平が、後進に与える言葉は、「粘っこく人間を追求し、無人の広野を走る勇気を持て」である」。創造行為は他人には教えられないが、創造する姿勢、志を人に伝えることはできる。それが若い人に対する役目であると認識していた。常識に縛られず、粘り強く人間を追求せよ。誰も描いていない「人間」を描け。それが監督に限らず、映画にかかわる人々への今村昌平のメッセージである。 映画は人間追究業だ。

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