見出し画像

「名言との対話」6月7日。安部能成「牡丹を羨まないと共に薺(なずな)を恥じない」

安倍 能成(あべ よししげ、1883年(明治16年)12月23日 - 1966年(昭和41年)6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。

松山中学出身。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。

森田草平、小宮隆太郎、阿部次郎と並んで漱石門下の四天王と呼ばれた。漱石を尊敬はしていたが、しかし親分とはしなかった。「私は先生の謡は嫌いです」といわでものことをいうと、漱石は「僕も君の謡は嫌いだよ」と応じられている。

1910年の漱石の「修善寺の大患」のおりに、最初に駆けつけたとき、漱石の妻・鏡子は、これで大丈夫だ、縁起がいい、「あんばい(塩梅)よ(能)く成る」だ、と喜んだというエピソードもある。

29歳で結婚する。相手は東京帝大の同窓の藤村操の妹だ。藤村は「人生不可解なり」と日光の華厳の滝に身を投げて話題になった人だ。

親友の岩波茂雄については、、すぐれた人物には深い欠陥があるとも語っている。誰よりもよく知っていると考え、安部は『岩波茂雄伝』を半分自分から買って書いている。

朝鮮の京城大学教授を15年つとめ、法文学部長をこなした。この間、満州、中国、朝鮮などずいぶんと旅行している。そして一番勉強や仕事ができた時代だったと回顧している。

1940年から一高の校長を5年半ほどつとめている。戦後の1946年に、請われて吉田茂内閣の文部大臣に就任した。戦勝国に屈せぬ覚悟で任にあたった硬骨のオールドリベラリスト安倍は、第二次世界大戦後の第一次アメリカ教育使節団が来日したときの歓迎の挨拶で、アメリカが力でなく「正義と真理」によって日本に臨むよう要望している。

文部大臣退任後も、国語審議会会長として、当用漢字表、現代かなづかいの制定を推進し。後に「新仮名としたのは一世一代の過ちであった」と悔恨していて、国語学者の山田孝雄から叱責されている。

喜寿を迎えて、自分より若い、和辻哲郎、長与善郎、小宮豊隆、谷崎潤一郎、などみんな近頃は健康をそこなっているし、自分もいつどうなるかわからないから、今のうちに書いておこうと、600ページを超える大著『わが生ひ立ち」を書いている。それによれば、自分は「ぼろ」よりは「うそ」をより多く恥じる人間だとし、ぼろを出してもよい、うそは書きたくないと述べている。大上段に振りかぶらず、凡才にふさわしい自分を表現すればよいといい、そのとおりに淡々と記している。今まで漱石にかかわる書物を読むと、この人の名前がよくでてくるが、どんな人かは知らなかったが、この本で人柄を知った。

安部能成は芭蕉の「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」という句に親しみを感じている。自分は凡才だが、天の与える所を自分の努力によって精一杯に発揮することは、天才にも凡才にも許される。牡丹を羨まないと共に薺を恥じない、という悟りを得たのは30歳ころだった。それから半世紀をその心構えで過ごし、82歳で世を去った。私などからみると凡人ではないと見えるが、本人は自分を薺と考えていたのである。薺は別名はぺんぺん草と呼ばれ、田畑や荒れ地、道端など至るところに生え、春から夏にかけて白い花と三角形の果実をつける。「○○が通った後はぺんぺん草も生えない」というように、どこでも生える雑草である。春の七草の一つでもある。この心境に共感する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?