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「名言との対話」3月23日。村松剛「私たちの心の中にも、アイヒマンはいるはずなのです」

村松 剛(むらまつ たけし、1929年3月23日 - 1994年5月17日)は、日本の評論家、フランス文学者。

東京大学大学院在学中からポール・バレリー研究の傍ら、吉行淳之介らの「世代」に小林秀雄論、三島由紀夫論などを発表、新進批評家として認められる。「現代評論」を経て、1958年遠藤周作らと「批評」を創刊。自然主義的リアリズムを否定し、文学作品の美学的構造を解明する一方、文化的視野からの社会批評を確立した。またナチズムに対する関心から、1961年アイヒマン裁判傍聴のためイスラエルへ赴き、1962年アルジェリア独立戦争に従軍して取材。アメリカへ留学後、1969年立教大学教授、1970年京都産業大学教授などを務めたのち、1974年筑波大学教授。

著書に「アルジェリア戦争従軍記」「評伝ポオル・ヴァレリー」「三島由紀夫その生と死」「死の日本文学史」「評伝アンドレ・マルロオ」「帝王後醍醐天皇」「血と砂の祈り―中東の現代史」「醒めた炎―木戸孝允」「三島由紀夫の世界」などがある。

1975年、「死の日本文學史」で第4回平林たい子賞を受賞。1982年フランス政府より教育功労章オフィシェを受章。木戸孝允の大作評伝「醒めた炎」(1979年から1987年にかけ日本経済新聞「日曜版」に長期連載)で第35回菊池寛賞を受賞。

『醒めた炎―木戸孝允』は、「欧米の未発表史料、幕府隠密の報告までも駆使して幕末の動乱を活写する渾身のライフワークだ。2800枚の歴史大作。木戸孝允の生涯を描く歴史小説の大作となっているが、木戸だけでなく、維新の立役者たちを描いている「幕末維新史」という歴史書だ。木戸孝允の人物造形の裡に、村松剛白身の生き方を読み重ねていく評者は多い。

『決定版三島由紀夫全集』第38巻の書簡集には、141名宛の806通の書簡が収録されている。親友だった村松は「三島由紀夫は面白くない文章を書けない人だつた」と屈折した表現をしている。

「遺悼 村松剛先生を偲んで」という論考をネットでみつけた。1994年に5月17日に筑波大学比較・理論文学会の創立メンバーだった村松剛が咽頭癌で65歳で亡くなった。その弟子たちがみた村松の姿と言葉を興味深く読んだ。「ああ村松先生は世界をこういう目で見ていらっしゃるんだ」(東京タワーをエレベーターで上昇中に)。「親友であった三島由紀夫について「語るべき時でしょう。」とおっしゃるまで先生は数年間迷われた」「東大で元同級生という方が「水際だった頭の切れ方だった」とおっしゃるのをきいて、やはりそうだったかと思った」。大学院生にとって「鬼の村松」という異名を持つ怖い存在だった。「僕が学生のころ、今後評論活動に専念するか、教師の道に進むかで恩師に相談したことがある。その時,恩師は両方やりなさいといわれた」「声が出なくなるくらいなら切らないほうがましだ」。明析であることに対する倫理感。教育者・村松剛は、厳しく優しく、いい先生だったようだ。

神経質そうな独特な風貌で、激しい主張の保守論客でもあった村松剛については私はずっと敬遠してきたが、村松剛『新版 ナチズムとユダヤ人 アイヒマンの人間像』(角川新書)を読んだ。1961年に行われたヒトラー総統のナチ親衛隊アイヒマン中佐の裁判を30代前半の村松はメディアからの依頼で傍聴する機会があった。ナチスによるユダヤ人虐殺の記録である。第一部「地獄からの報告書」で、虐殺の舞台となった6つの収容所で生き残った108人の証言の報告である。第二部は400万人をガス室に送ったアイヒマンの伝記が中心だ。学歴がなかったアイヒマンはユダヤ人問題の専門家として頭角をあらわし出世していく。ヒトラーへの忠誠心と出世意欲が旺盛ではあるが、ある種凡庸な人物は「命令だったから仕方がない」と法廷で言い張った。人間が人間を殺して、骨をセメントに、脂肪を石鹼にするというニヒリズム。ここに村松は典型的な官僚の姿をみている。哲学者ハンナ・アーレントもこの裁判を傍聴した。小市民的で官僚的な普通の人間のなかに驚くべき悪行への素質があることがわかった裁判だ。現在の日本の国会でみる政治家や官僚のていたらくにもその一端がみえる。

ここまで書いて、寝ようとするときに、ユーチューブで、たまたま日本記者クラブで4年前に行われた石田勇治教授の「ヒトラーとは何者だったのか」という映像が流れたので聞いてみた。これも何かの縁だろうか。

「私たちの心の中にも、アイヒマンはいるはずなのです」。「 凡庸な悪」はわれわれの身近に、そしてわれわれ自身に中にいる。

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