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「名言との対話」 2月7日。小山敬三「私は軽井沢の人たちより浅間を知っている」

小山 敬三(こやま けいぞう、1897年(明治30年)8月11日 - 1987年(昭和62年)2月7日)は、昭和期の洋画家。 文化功労者、文化勲章。

体格に恵まれ、ずっと級長を通した小諸の名家の期待の息子は、画家を志す。父から「絵を米塩に、つまり生活費に替えるようなことをしてはいけない」という条件のもとに画家になることを許される。慶応義塾大学理財学科を中退し、川端画学校で藤島武二に師事する。父の友人の島崎藤村から「できるだけ早くフランスへ行って、広く深くその芸術を見きわめてきなさい」とすすめられ、1920年23歳で渡仏。25歳、フランス美人と結婚。31歳、帰国。73歳、文化功労者。78歳、小山敬三美術館が開館、文化勲章。

堂々たる体躯と風貌といわれるように大人の風格があったようだ。小山の写真を見るたびに、私もいつも端正な顔立ちと理知的な目を感じている。

山本鼎は「直截なデッサン、重厚な筆致、寡黙な色彩、而して盤石の如く頑丈なマチエール」と小山の特徴をみている。安井曾太郎の「小山君の描く橋は安心して渡れます」という有名な批評がある。小山の雄渾な筆致の絵を端的にあらわす賛辞だ。

2007年に私は妻と二人で信州を旅した。まず「はるかなる古城のほとり雲白く、、」で始まる島崎藤村の藤村記念館を訪問した。記念館は小諸城址懐古園にある。藤村は小諸の小諸義塾での教師生活で7年間住んで代表作「破戒」を書き始めた。藤村先生は生徒の作文帳の添削欄に「文章は親の肩をもむがごとくに作るべし。大切に用意するを第一とす」などを朱書きしており、興味深い。そして、同じく懐古園の中にある、文化勲章受賞の画家を記念して建った小諸市立小山敬三美術館を訪問した。浅間山を描いた画家で、大ぶり、悠々、骨格の太い雄渾な絵だという印象を持った。年上の藤村とは生涯の友人だった。新高輪ホテルのロビーの「紅浅間」は小山の作品である。この木立の中に建つ美術館は毎日文化賞をとった素敵な建物だった。

神奈川県茅ケ崎の5000へーべの広大な敷地に住む。朝4時半に起き、朝風呂、1時間の散歩、そして午前中は絵の制作という日課は1952年の80歳の頃の生活だ。それから10年に時間があった。

動じない骨格をもつ姫路の白鷺城を何度も描いている。1963年の「古城春色」から1976年の「雨季白鷺城」まで、小山は姫路城を描き続けている。この城は1993年に日本で最初に世界文化遺産に登録された。一見5階建てだが、地上6階、地下1階の7階の構成を持つ日本一の名城である。黒田官兵衛の居城であったが、毛利征伐のために秀吉に譲った防火防水に強い漆喰総塗篭造りの城だ。白鷺城と言われるだけあって大きく、そして実に美しい。5年半かけた改修が終わったばかりの2014年に私も訪問し、深い感銘を受けた。
一連のダム作品も印象が深い。1961年の「佐久間ダム」から1965年の「初夏黒四ダム」、1965年の「八木沢ダム」。大画面をつかった構築力の精華だ。

「私は軽井沢の人たちより浅間を知っている」という小山敬三は、1952年の「浅間(暁)」から、1974年の「紅浅間」まで、四季折々の浅間山を描き続けた。盛夏、黎明、薄暮、初冬、夕月、残雪、などの作品がある。時間によって刻々と表情を変える浅間山を長い期間をかけて追った。まさに「浅間の画家」である。

画家という職業は、生計の維持がなかなか難しい。貧乏なものと決まっている。この小山敬三のように生活の苦労なしに生涯にわたってまっすぐに絵の道を上昇気流を描きながら歩んだ人は珍しい。幸福な人だ。 小山敬三は絵の体力が強い。風景を建築しているようなところがある。高度な絵画の技術に裏打ちされた、骨太の雄渾な画風である。その絵は風貌と人柄そのものだという感じがする。

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