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「名言との対話」3月30日。 野上弥生子「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで務めよう」

野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、1885年〈明治18年〉5月6日 - 1985年〈昭和60年〉3月30日)は、日本の小説家。

明治-昭和時代の小説家。野上豊一郎の妻。デビュー作「海神丸」、20年かかった「迷路」、74歳から78歳にかけての労作で生涯の傑作「秀吉と利休」などを書いた。86歳で文化勲章。96歳で朝日賞。受賞理由は「70余年という世界にも類例のない長期の現役作家活動を続け、、」だった。弥生子は生涯にさまざの賞をもらっているが、もっとも喜んでいたのはこの朝日賞だった。受賞理由の故だろう。 99歳で没。あとひと月で100歳になるところだった。

二つ上の夫・豊一郎は東京帝大文学部英文学科を卒業しており、夏目漱石に師事していた。後に法政大学総長に就任するが、能楽の研究家として名高い。弥生子は漱石の会に出る夫を通じて夏目漱石の指導を受ける機会に恵まれる。22歳で処女作「明暗」を漱石に見せ、漱石から批判の長い懇切な手紙をもらった。その批判を、終生忠実に守っている。次に「縁」を書きそれが漱石の紹介で「ホトギス」に載ることになり作家への道を歩むことになる。漱石から褒められることに最高の名誉と満足を感じた。生涯に数度しか会ってはいないが、弥生子の生涯の師は漱石だった。野上弥生子の先生は、夏目漱石だった。「先生からこれでよいといわれることが最上の名誉であり、満足であった」。弥生子は勉強できる環境(家族関係、時間、場所)を粘り強く構築していった、女中を訓練して家事をとどこおりなく進行させたり、子供にも自分のことは自分でやらせるように教育した。弥生子の執筆のペースは、一日に二百字原稿用紙2、3枚。多くて5、6枚であった。

野上弥生子の日記は、38才から死の十七日前まで、実に62年分が、ほとんど毎日あり、119冊のノートに記されている。 後に編集者とその夫人が原稿用紙に浄書したところ、二百字詰めで3万8千枚に達した。これは、300枚の本としてみると、実に63冊分に相当する。この日記から考え方た人生の処し方を年齢順に追ってみる。
「この頃、ジイドの女の学校と未完の告白をよみつづけてよみ終る。やっぱり叶わないかんじ、、。とにかく、かうしたものを読むとどんな困難を犯しても第一義的な仕事から遠かってはならないといふ勇猛心がふるひ起こされる。」(51歳)。「高い目標をおいて書かなければならぬ、といふことを今更に感じる」(61歳)。「かうして見ると、頭脳的な仕事はなんと辛いものかとつくづくおもはれる。」(63歳)。「高い目標をおいて書かねばならぬ、といふことを今更ながらに感じる。私も63だ。、、、今の時間と独居の静寂を利用しなければならぬ」。65歳で夫、豊一郎は脳出血で急逝するが、弥生子はその間も「迷路」を書き続けている。初恋の人、中勘助のことも日記に出てくる。 弥生子は豊一郎と同級生で『銀の匙』を書いた中勘助に恋をする。中は中年の写真をみてもりりしくすっきりした美貌だった。このことは、本人たちと豊一郎、そして友人の安部能成の四人の秘密だった。弥生子50歳の時の日記にはこの間の事情と心境が記されている。初恋の日々から四十余年を経た対面の日、二人とも65歳になっていた。「人間は決して本質的には年をとるものではない気がする。九十の女でも恋は忘れないものではないであろうか。私のこの秘密を知らなければ、私をほんとうに解する事は出来ない。」「そのあひだの私たちの話は普通の客と主人の話しあふことに過ぎないが、それでもその底にこもる調子に秘めたものは彼と私だけに分かることである。二人の接触をこれ以上にしないことが大切である。」。哲学者、田辺元(同年生まれ)との老いらくの恋の記述もある。68歳の日記には、ある特定の対象とこれほど深い知的な、また愛情をもっての繋がりが出来ることを夢にも考へたらうか。」とある。「日本でも画家は七十八十でなほ本格的な仕事をすてないのに、文学者には一人もないなら、私がその一人になって見ようか。」(70歳)。この作家の勉強ぶりは、外国語にも及んでいる。74歳でも、英会話を欠かさず聞いている。79歳から、フランス語とドイツ語も始めた。81歳では、スペイン語まで聞き始めた。驚くべき勉強ぶりである。弥生子の収入は晩年ほど多くなった。ロングセラー作家なので、晩年になるほど収入が増えた。文化勲章の年金以外に年収は1000万円になっていた。九十歳を過ぎても周りに住む3人の大学教授の息子達よりも多く、一家のなかでいちばん高収入だった。成城に一人住む弥生子のまわりには、3人の息子が取り囲んでいた。家の建築費用、家族の会食費、嫁や孫たちへの小遣いやプレゼントなどに金を十分に使っている。「それがみな好ましい性格と、それぞれに立派な研究的な仕事を持っているこんな息子たちを、家の周りにもって暮らすたのしさをこの瞬間つよくおもった」という日記の記録もある。96歳ころから、日記の分量が減ってきた。「平和な仲のよい夫婦ほどお互いにむずかしい努力をしあっているのだ、ということを見過ごしてはならないのです」(99歳)。

以下、野上弥生子の他の言葉。

「書くまでは思いもつかなかった事が、書くあいだに順々に出て来て、こんな片々たるものでもよい思ひつきであったと自分で考へられる考へや表現がある。それでこそ執筆は怠ってはならない。書かなければ、現はれるものも、現はれないで終るのだから。」「まへの依るまでは思ひつきもしなかった事が、アタマの中に浮きあがって来る不思議さ。このたのしみがなければ、書くことは苦痛のみにならう。」「最も素朴な考え方をすれば、知識が単に知識として遊離しないで総合的な調和ある形で人間と生活の中に結びつくことだといってよいだろうと思います」「もう少しくわしくいいなおして、人々がよい教養をもつということはその専攻した知識を、もしくばさまざまな人生経験を基礎としてひろい世界についても周りの社会に対しても正しい認識をもつとともに、つねに新鮮で進歩的な文化意識に生きることだというところまでその円周を押しひろげたく思います。」「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで務めよう。」「時代物はもとよりフィクションになりますが、その基礎はリアリティで築きあげなければなりませんし、またそれによって描きあげたフィクションがもっとリアルなものになるのが本塔統の行き方かと存じます」「何を書いても眼高手低の悲しみをかんずる。」「一葉のみが明治大正を通じて唯一の女流作家といふわけではないとおもふ。私などでも、一葉よりは或る意味に於てずっとよい仕事をしているつもりなり。」「一日のことは、その日だけに生じ、感じ、出逢ふもので、一生にもう一度といふことのないものだけ、どんな無為で変化のない日でも、その人にとっては大切なものと知っていながらこの怠りを繰り返すのは残念である」「一日怠ればその日はただ水の泡として消え」。「諦めるということは便利な言葉である。が、卑怯な言葉で、また恐ろしい言葉である。」。「書くまでは思いもつかなかった事が、書くあいだに順々に出て来て、こんな片々たるものでもよい思ひつきであったと自分で考へられる考へや表現がある。それでこそ執筆は怠ってはならない。書かなければ、現はれるものも、現はれないで終るのだから。」「まへの夜までは思ひつきもしなかった事が、アタマの中に浮きあがって来る不思議さ。このたのしみがなければ、書くことは苦痛のみにならう。」「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで務めよう。」。

野上弥生子文学記念館以外には、北軽井沢の「鬼女山房」を訪問している。軽井沢高原文庫には、春から秋にかけて過ごしていた北軽井沢の山荘の小さな離れ(書斎兼茶室)が移築されていた。野上弥生子の執筆風景を想像させる。まさに鬼気迫る仕事ぶりであった。百年になんなんんとする人生、そして「70余年という世界にも類例のない長期の現役活動」を実践した野上弥生子の生き方は、見事としかいいうがない。

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ひさつね けいいち。

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