「名言との対話」7月27日。徳川家慶「そうせい」
徳川 家慶(とくがわ いえよし 1793年6月22日ー1853年7月27日)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。
江戸城で生まれる。1837年に将軍となったが、前将軍の家斉が大御所として実権を握っていた。家斉の死後、水野忠邦に緊縮財政と言論統制(蛮社の獄)を主とする天保の改革を行わせたが、わずか2年で挫折する。その後、24歳の安倍正弘らを重用し、島津斉興、徳川斉昭らに厳しい処分をした。1853年のペリー来航の最中に暑気当り(熱中症)で死去した。
松平春獄は家慶を「凡庸の人」としているが、家斉の大所時代は「そうせい」と言うほかはなかった。そのため家慶は「そうせい様」と呼ばれている。
歴代将軍の名言を並べてみよう。
徳川家康「おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」
秀忠「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身(家光)いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」
家光「植えるのは木ではなく、忠誠心である」
家綱「彼らは何を食べているのだろう。命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」
綱吉「支配者があまりにも寛容に民を扱うと、民は奢りに走り本業を怠るものである。身分不相応な暮らしを許してはいけない。民は為政者を信用しておらず、為政者もまた民を疑っている。このようなことが起こらないように意思の疎通に心がけるべきである」
家宣「生類憐れみの禁令に触れ罪に落ちた者は数知れないものである。私は天下万民のためにあえて遺命に背くこととする」
家継「越前(詮房)を迎えに出よう」
吉宗「おしなべて褒められる者にも善人は少なきものよ。なかば褒められ、なかばそしられる者こそ、取りどころはあるなれ」
家治「これは先々代様も食べられたものか?」
家斉「改革なんか上下ともに迷惑、あんなことやるものじゃない」
家慶「そうせい」
家定「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」
家茂「あとは明日にしよう。明日も出仕するように」
慶喜「水戸徳川家では義公以来代々尊王の大義に心を留めていた。父なる人も同様の志で、自分は庭訓を守ったに過ぎないのである」
以上、徳川幕府の歴代将軍の治世に関する言葉を並べてみた。第15代将軍として260年以上続いた徳川の治世を終わらせた慶喜は、将軍家というより、「尊王」という水戸家の教えを守ったという意識だったのだ。
「そうせい様」と呼ばれた徳川家慶は、家斉の死後に実権を握ってからは、時勢を見極め、有為の人材を登用するという面もあったようである。
いずれにしても、260年以上にわたって15人の将軍をいただき、世界史に例のない長い平和な時代を築いた徳川時代には、そのための多くの知恵があったのは間違いない。
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