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「名言との対話」2月24日。石濱恒夫「先生ーーあなたはどこにいってしまわれたのです」

石濱 恒夫(いしはま つねお、1923年2月24日 - 2004年1月9日)は、日本の文学者。作家、詩人。

大阪市出身。旧制大阪高等学校 を経て、東京帝国大学文学部美術史学科在学中から父の友人であった織田作之助などの影響を受けて文学を志す。

大学在学中に学徒出陣で召集され、陸軍戦車学校に入り、戦車部隊配属となる。その部隊で一緒だったのが司馬遼太郎である。石濱と司馬はこの時以来、司馬が亡くなるまで親交が深かった。資料を調べていてどこかでみた顔だと思っていたら、ユーチューブで司馬遼太郎についての番組を見たときに、司馬について思い出を語っていたあの人だ。

従兄の藤島恒夫からの紹介で高校時代の17歳から師としていた川端康成に、大学卒業後に弟子入りし、鎌倉の川端の私邸に住み込み師事した。それから川端が亡くなるまで30年間にわたり、文学と人生の師としてつかえている。1946年に文学同人誌『文学雑誌』に参加し、小説家としての活動を始める。1953年に発表した「らぷそでい・いん・ぶるう」が芥川賞候補となった。

1968年に川端康成がノーベル文学賞を受賞した際には、ストックホルムでの授賞式に同行している。このときの見聞記『追憶の川端康成 ノーベル紀行』(文研出版)を読んだ。ノーベル賞受賞の旅に、娘と一緒に野次馬として参加したドタバタの記録である。川端康成「昼と夜が逆転して、かえって長年の不眠症が治りましたよ」。文化勲章が裏返しになっていた。「マイ・ホテル、マイ・ワイフ、ウィズ・ミー!」。受賞記念講演「美しい日本の私」の原稿の末尾の数枚の清書も手伝った。、、、

「印刷物で絵を論ずべからず」と石濱への書簡に書いていた川端について石濱は「美に対して、あくないほど貪欲で、あくまで追究し求めてやまない人だった」と語っている。

石濱には『詩集・道頓堀左岸』。小説『流転』『遠い星』。作詞にEXPO70 (賛歌)がある。 歌謡曲の作詞も手がけ、地元大阪を舞台とした数々のヒット曲を世に送り出した。

フランク永井が歌った「泣かへんおひとが しのび泣く 濡れてやさしい みどりの雨よ」で始まる「大阪ろまん」、「赤い夕映え 通天閣も 染めて燃えてる 夕陽ヶ丘よ」で始まる「大阪ぐらし」も石濱恒夫の作詞だったのだ。私もカラオケで歌ったことがある名曲だ。

またテレビドラマの脚本も数多く手がけている。若い頃からヨットマンとしても知られ、1977年には13歳の娘・紅子他1人と共に、ヨットで大西洋を無寄港で横断している。

『追憶の川端康成 ノーベル紀行』を本を読んでいると「本当に、どこへいっておしまいになったのだろうか」という言葉が何度もでてくる。本当の 恩師だったことがわかる。生涯に一人の師を得ることができることは幸せなことだと改めて思った。

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