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「名言との対話」8月3日。岩崎小彌太「資本家は利潤追求を目的とするが、経営者は利潤追求を越えた目標を持つべきである、それは国家への奉仕と、国利民福の実現と、一人一人の社員の人間としての完成である」

岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。

「三菱」の創業者・岩崎彌太郎1834年生まれ)は、海運から始めて鉱業、造船業、保険、為替など事業の「多角化」を図った。

二代目の弟・彌之助(1851年生まれ)は海から陸へと事業「領域を広げ」、丸の内・神田に10万坪の土地を買った。

その後、彌太郎の息子の久彌を経て、彌之助の息子・岩崎小彌太は30年の長きに亘り社長業を続け、部門毎の「分社化」に取り組み重工(造船)、商事、銀行、地所と優れた企業をつくっていった。巨大な三菱財閥は小弥太の時代に完成したのである。

第一高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学に入学した小彌太は在籍一年でイギリスに留学する。小弥太はケンブリッジのカレッジを優等で卒業している。当時の優等生は菊池大麓(東大総長、文部大臣)のみだった。漱石も同時代の官費留学生だった。

小彌太は「小生帰国の上は、官庁の 制 肘 を受けない学校を起し、理想的教育に専念してみたい」と思っていたが、帰国後、すぐに副社長に任ぜられ、そして弱冠30歳で社長に就任する。辛抱し、「五五歳になったなら三菱をやめて社会事業に乗り出し、新聞を経営したい」、「不偏不党、社会の 木鐸 となり得る新聞」、を作りたいと考えていた。しかし、そうはならなかった。不本意ながらも三菱の総帥の任に応じ、全力疾走して、67歳で生涯を終えたのである。

武田晴人『岩崎小彌太』(PHP新書)から小弥太の事業経営に関する言葉を拾ってみよう。

商業活動については、「生産者と消費者との中間に立って、最も便利に 且つ最も廉価に物品の分配を司る」、「我々は大いに競争す可きである。然し私は我々の競争をして量の競争たらしめず寧ろ質の競争たらしめたい」と意義を強調している。

三菱のDNAともいえる三菱グループの経営理念、いわゆる「三綱領」を定めた。「所期奉公」は社会貢献、「処事光明」はフェアプレイ、「立業貿易」は海外貿易を意味している。「自分は国家社会のために仕事を行う考えである。三菱とか岩崎家の利害などは第二、第三の問題」としていた。私益でもなく、国益でもなく、国民の福利の増進を事業目的としたのである。

「事業経営は国民生活の必要と産業自体のモラルの向上に目的を置くべきで、利害を主とし営利を第一義としてはならない」とし、「実業界の人々は、其の品性に於て其の操行に於て、共に国民の模範にならなければならない」、そして「政治に 干与 し政党に接近するが如きは実業人の使命の逸脱」と戒めている。

二代目岩崎彌之助は、中国陶磁も含めた東洋美術の一大コレクションを夢見ていた。絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣などを蒐集した。それを引き継いだ小彌太は、800を超える中国陶磁を学術的観点から系統的に蒐集している。その蓄積が 現在の静嘉堂文庫美術館に結実している。

「利潤を越えた目標」には、文化興隆のための美術館建設も入っていたのであろう。その考え方の伝統は、2010年に開館した三菱一号館美術の存在にも引き継がれている。


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