見出し画像

「名言との対話」(戦後編)8月23日。吉井長三「パリはいつまでも変わらない。そして銀座はいつまでも変わり続ける」

吉井長三(1930年4月29日ーー2016年8月23日)は、銀座画廊会長。

広島県尾道市出身。 旧制尾道中学在学中、洋画家小林和作に絵を学ぶ。画家を志すが、父親の反対により、中央大学法学部に入学。東京美術学校の授業に参加し、伊藤廉にデッサンを、西田正明に人体美学を学ぶ。1953年東京国立博物館で開催された「ルオー展」を見て深い感銘を受ける。大学卒業後、三井鉱山に入社、2年目に退社して弥生画廊に勤める。海外作品を扱う画廊が少なかった当時、フランス絵画を日本にもたらすことに意義を見出し、1964年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。

1965年に東京・銀座に吉井画廊を開設。開廊記念展は「テレスコビッチ展」であった。その後、ジャン・プニー、ベルナール・カトラン、アンドレ・ドラン、アントニ・クラーベ、サルバドール・ダリらの展覧会を開催する一方、青山義雄、中川一政、原精一、梅原龍三郎ら日本の現代洋画の展覧会を開催する。

1971年、ルオーの54点の連作「パッシオン」を購入して、同年のルオー生誕百年記念展に出品し、国内外で注目される。1973年パリ支店を開設して富岡鉄斎、浦上玉堂ら文人画を紹介し、1975年には現代作家展として東山魁夷展を開催。フランスではまだ良く知られていなかった日本美術を紹介して話題を呼んだ。日仏相互の芸術紹介のみならず、芸術家の国際交流の場としての芸術村を構想し、1980年山梨県北杜市に清春芸術村を開設して、アトリエを建てて国内外の芸術家の制作の場とした。1983年清春白樺美術館を設立し、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。1990年ニューヨーク支店を開設。1999年、郷里尾道の景観を守る目的で尾道白樺美術館を開設。同館は2007年に閉館となったが、翌年、尾道大学美術館として再び開館。2011年清春芸術村に安藤忠雄設計による「光の美術館クラーベ・ギャラリー」を開館。

画商である一方で、小林秀雄、井伏鱒二、谷川徹三、今日出海、梅原龍三郎、奥村土牛らとの交遊でも知られる文化人でもあった。フランス現代美術を日本に紹介する一方、日本美術をフランスに紹介する画廊経営者として先駆的な存在であり、1999年レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章を、2007年にはコマンドゥール勲章を受章。著書に『銀座画廊物語―日本一の画商人生』(角川書店、2008年)がある。

たまたま「谷川徹三対談集」を読んでいたら、昭和電工の鈴木治雄会長との対談で吉井長三の名前が出てきた。鈴木がルオーを語り合おうという「ルオーの会」に谷川を誘っている。その会の中心が日本一の画廊となった吉井長三の吉井画廊だった。

画商という仕事は、身銭を切って絵画を仕入れるため、売れないと不良在庫となるから、絵画を見る目を厳しく養わなけばならない。日本一という評価があるということは、日本一の絵画の目利きということになる。

画廊とは、絵画、彫刻など美術品の展示場で、吉井長三のような画商によって経営されるギャラリーだ。アートソムリエを自称する山本冬彦さんの本日のフェイスブックでの報告によると、新型コロナの影響で地価が下落傾向にあり、銀座でも老舗画廊の撤退が始まっているとのことだ。銀座の吉井画廊は持ちこたえることができるだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?