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久恒啓一の 「名言との対話」2

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毎日、その日が命日の人物の遺した名言を紹介しながら、偉人との対話を試みます。
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記事一覧

6月30日。小倉昌男 「論理的な思考とは、物事をシンプルに考えることにほかならない。シンプルな論理思考を心がけることだ。物事をできるだけ単純に考えることが、真の目的に到達する近道なのである」

小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日)は、昭和・平成時代の日本の実業家、ヤマト福祉財団理事長。東京都出身。ヤマト運輸の「クロネコヤマトの宅急便」の生みの親である。2005年6月30日没。85才。

「宅急便を考えたとき、単なる一企業の事業ではなく、社会的なインフラになるし、そうしたいと思っていた。思い上がったことだったかもしれないが、それは私の志だった」

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6月29日。内田魯庵 「日本の政治家という奴は、政治で飯を食おうというのじゃから、良心の切り売りをするのが公然の商売となりおる」

内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年4月27日(慶応4年4月5日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家、エッセイスト。丸善の書籍部門顧問なども務めた。ドストエフスキーやトルストイの翻訳も行った。明治時代の文豪たちの人物評伝が今なお高い評価を受けている。6月29日、死去。享年62才。

毒舌家として有名。辛辣で骨を刺す批判、社会風刺の舌鋒鋭く、人気者を

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6月28日。市井三郎 「苦痛の減少のためにみずから創造的苦痛を負う覚悟の人間の出現と存在が不可欠である」

市井 三郎(いちい さぶろう、1922年(大正11年)6月18日 - 1989年(平成元年)6月28日)は、日本の哲学者。

昭和時代後期の哲学者。大正11年6月18日生まれ。科学哲学を研究。昭和21年「思想の科学」にくわわり、鶴見俊輔らと中心メンバーとなる。26年ロンドン大学に留学、ポッパーに師事。36年成蹊大教授。近代を独自の歴史哲学から分析、時代の転換点での「キー-パーソン」の重要性を説いた

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6月27日。久留島武彦 「継続は力なり。継続は勢力なり」

久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - 1960年6月27日)は、大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身の児童文学者。

童話の神様、日本のアンデルセンと呼ばれている久留島武彦。

久留島は「口演童話」に60年取り組み、全国6000箇所で活動している。日本初の児童演劇団を結成した。生涯で120の童話を書いた。1950年5月5日に第一回童話祭を開催し日本一の童話碑を建てている。

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6月26日。山田方谷 「友に求めて足らざれば天下に求む。天下に求めて足らざれば古人に求めよ」

山田 方谷(やまだ ほうこく、文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)6月26日)は、幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。

山田方谷は備中松山藩の藩校有終館の会頭・学頭。藩主板倉勝静の教育係。名君と賢臣の名コンビ。元締役・吟味役。暗殺の危険も。板倉は幕末最後の老中首座。8年間で10万両の借金財政から10万両の蓄財へ転換。46

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6月25日。宮城道雄 「修行中は馬鹿になっていなければ上達しない。馬鹿という言葉を言い換えれば、ものに拘らない素直なことである。理屈っぽいのが一番修行の妨げになる」

宮城道雄(1894年(明治27年)4月7日 - 1956年(昭和31年)6月25日)は、箏曲演奏家、作曲家。神戸出身。失明後、八歳で二世中島検校に入門。大正六年(一九一七)上京。尺八の吉田晴風らとともに「新日本音楽」運動を起こす。洋楽を取り入れた新傾向の作品を作り、演奏技巧を拡大。レコードや放送に活躍した。代表曲に「水の変態」「春の海」「さくら変奏曲」など。

「私は明けても暮れて

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6月24日。美空ひばり 「生まれし時に この道 知らずとも この道を歩み 幾年月ぞ 今日涙して 明日又 笑おうぞ」

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。

天才歌手・ひばり(本名・加藤和枝)は1937年5月29日に横浜で誕生。9歳で歌手デビュー。戦後の1952年の15歳の時には「リンゴ追分」を歌い、ひばりブームを起こした。歌を主として、その後は映画、そしてエテビ

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6月23日。荻野吟子 「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ」

荻野 吟子(おぎの ぎんこ(本名:荻野ぎん)、1851年4月4日(嘉永4年3月3日) - 1913年(大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。日本初の女医として有名な人である。この人の人生はまことに凄まじい。

18歳、稲村貫一郎と結婚。両宜塾で松本萬年に学ぶ。(貫一郎は若くして名主に。埼玉県議会副議長。実業家としても大成)。19歳、夫から淋病を移され離婚し、大学

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6月22日。高田 好胤 「かたよらない こだわらない とらわれない心」

高田 好胤(たかだ こういん、1924年(大正13年)3月30日 - 1998年(平成10年)6月22日)は、法相宗の僧。本名は高田好一。写経勧進というユニークな方法で荒廃していた金堂、西塔、中門、回廊などの再建を実現、再建は法隆寺の宮大工としてその名を知られた西岡常一が手がけた。ユーモアあふれる法話は人気が高く、「心―いかに生きたらいいか」「道 本当の幸福とは何であるか」など著書も多い。6月22

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6月21日。マキャベリ 「新しい秩序を打ち立てるくらい、難しい事業はない」

マキャベリ(1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。著書に「君主論」がある。

6月21日には、織田信長が明智光秀によって謀殺されている。信長を選ぼうとしたが、名言は少ない。考えてみれば信長は行動とその集積である生涯そのものが一編の詩であったから、言葉はさほど重要では無い。したがって、心置きなくマキャベリを選ぶことと

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6月20日。徳川吉宗 「困った時にうつ向く者は役に立たぬ。困った時あお向く者が役に立つ」

徳川 吉宗(とくがわ よしむね、貞享元年10月21日(1684年11月27日)- 寛延4年6月20日(1751年7月12日))。徳川中興の名主。越前国葛野藩主、紀州藩主を経て、第8代将軍。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の

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6月19日。竹下登  「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう。そしてその場で忘れましょう」

竹下 登(たけした のぼる、1924年(大正13年)2月26日 - 2000年(平成12年)6月19日)は、日本の政治家。

竹下登は、早稲田を出て中学校教員を経て、27歳で島根県議会議員に当選。34歳、自民党から衆議院議員。39歳、通産政務次官。40歳、佐藤内閣の官房副長官。47歳、佐藤内閣の官房長官。50歳、田中内閣の官房長官。55歳、大平内閣の大蔵大臣。58歳、中曽根内閣の大蔵大臣。60歳、

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6月18日。宇治山哲平 「私は形象と色彩によって抜きさしできぬ煌くような象徴の世界を打ち立てたい」

宇治山 哲平(うじやま てっぺい、1910年9月3日 ‐ 1986年6月18日)は、日本の美術家。始め木版画を主に制作するが後に油彩の抽象画に転向。輝いた栄誉には第12回毎日芸術賞をはじめ、第32回西日本文化賞などがある。

東京都庭園美術館の展覧会では、こんな表現方法があったかと感じる形象と色彩の曼荼羅世界に見入ってしまった。「究極の写実の世界なのだ」と自ら語ったという純粋抽象の

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6月17日。松下竜一 「だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬ」

松下竜一(まつした りゅういち、1937年(昭和12年)2月15日 - 2004年(平成16年)6月17日 )は、日本の小説家、歌人。

作家・松下竜一は、1937年に生まれ、2004年に亡くなった。私の出身高校の先輩にあたるが、成績は一番だった。しかし大学進学を母の急死であきらめ家業の豆腐屋を継いだ。その日々を文章と短歌で綴った「豆腐屋の四季」という本が話題になり、連続テレビドラマになった。この

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