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マイルズのチック&キース同時起用時代

(9 min read)

Miles Davis / Isle of Wight

このSpotifyリンクは、マイルズ・デイヴィス・バンドが、1970年8月29日、イングランドのワイト島フェスティヴァルに出演した際のフル・パフォーマンス音源。現在ではこうやってサブスクで単独アルバムとして手軽に聴けるようになって、ありがたいかぎりです。

この『アイル・オヴ・ワイト』はですねえ、LPレコード時代はテオ・マセロが編集した短縮版「コール・イット・エニイシング」としてしかリリースされていなかったもので、もちろん編集済みであることはみんな知っていたんで、ノー・カット版を聴きたいと思えども叶わず、という状態が長年続いていました。

この世ではじめて『アイル・オヴ・ワイト』のフル・パフォーマンスが日の目を見たのは、CD音源としてではなく映像作品としてで、2004年リリースのDVD『マイルス・エレクトリック』の一部として収録されてだったという。前からくりかえしていますように、音楽が聴きにくいから映像はいらないぼくなんですけど、これはさすがに買いました。

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その後、CDでもその音源が収録されたものが出るようになって、といってもトータル約35分間ですからね、単独の作品としては短すぎるっていうんで、なにかほかのライヴ音源との 2in1 的抱き合わせというパターンばかり。サブスクだとこれだけ単独で聴けますけど、このへんはフィジカル・メディアの弊害を感じないでもありません。

ぼくの知るかぎり、マイルズのこの『アイル・オヴ・ワイト』だけを収録したという単独CDは一種しかありません。2009年リリースの『コンプリート・コロンビア・アルバム・コレクション』という71枚組だかのバカでかいボックス・セットに一枚それが入っていました。それだけ。そのためだけに買ったわけじゃありませんが。

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ところで、ワイト島フェス1970年8月29日のマイルズ・バンドは、記録に残っているかぎり、このバンドにおけるチック・コリアのラスト出演となったもの。ご存知のとおり、このときチックとキース・ジャレットのツイン鍵盤体制ですけれど、この後はキース一人になっていき、71年いっぱいまでそれが続きます。

チック・コリアがマイルズのもとに初参加したのは、1968年9月24日のスタジオ録音で「マドモワゼル・メイブリー」と「フルロン・ブルン」を録音したとき。しかしこの年はその前後マイルズ・バンドのライヴ記録がなく、チックがツアー・バンドのレギュラー・メンバーになったのがいつごろだったのか不明なんですね。

といいますのも、1968年9月にチックを起用して二曲を録音し(アルバム『キリマンジャロの娘』に収録されリアルタイム・リリースされた)たものの、すぐそのままマイルズのスタジオ・セッションはマルチ鍵盤奏者時代に突入するからです。

二ヶ月後の68年11月にはハービー・ハンコックとチックとの二名同時起用で録音していますし、同月数日後にはさらにジョー・ザヴィヌルをくわえてのトリプル体制となり、ちょっとづつメンツを交代させながら、こんな状態が70年暮れまで続きます(71年はスタジオ録音なし、ライヴだけ)。

ライヴ・ツアーは1969年はじめごろに再開されるようになったのが記録に残っていて、全米や欧州をまわり、そこからかなりの数のブートレグも発売されています。そこではもちろんすでに鍵盤のレギュラーはチックで、これがいわゆるロスト・クインテットとして知られるマイルズ69年バンドだったわけです。

スタジオではほとんどのばあいニ、三人の鍵盤奏者の同時起用を軸として、打楽器奏者なども拡充しながら常に大編成でセッションし結果を出していた1968年暮れ〜70年のマイルズですが、そのあいだ同時並行でやっていたライヴ・ツアーは少人数のレギュラー・バンドでやっていて、そのキモをチックが握っているという状態が続いていました。

ここにキース・ジャレットが参加し、ライヴをやるレギュラー・ツアー・バンドでもツイン鍵盤体制になったのがいつごろだったのか、やはり判然としないわけですが、記録が残っているかぎりでは、例の『マイルズ・アット・フィルモア』になった1970年6月17〜20日のフィルモア・イースト公演が最初。

スタジオ録音では同年5月19日の「ホンキー・トンク」(『ゲット・アップ・ウィズ・イット』収録)でキースを初起用していて、その後コンスタントにスタジオ・セッションに呼んで(チックやハービーらとの複数人体制で)起用していますから、そのときの好感触がマイルズにあって、レギュラー・バンドにどうか?と誘ったのかもしれません。違うかもしれません。なにもわかりません。客観的証拠がないんですから。

ともあれライヴをやるレギュラー・バンドでチックとキースのツイン鍵盤体制だったのは、記録でたどるかぎりでは1970年6月17日から同年8月29日まで。たったのニヶ月間ほどのことなんですね。しかしマイルズはこのチック&キースのツイン鍵盤サウンドをずいぶん気に入っていたみたいです。

後年、つまり1981年の復帰後は、過去をふりかえる昔話を隠さずどんどんするようになったマイルズですが(音楽的には75年の一時隠遁前からよく自己の過去音源を参照していて、下敷きにしてあたらしい音楽を産み出していた)、そんな回顧のなかでも、1958〜59年のジョン・コルトレイン&ジュリアン・キャノンボール・アダリー時代と、70年のこのツイン鍵盤時代のことは自慢していました。

以前からくりかえし書いていますが、マイルズ・デイヴィスという音楽家はオーケストラルな分厚いサウンド志向の強い人物で、だからギル・エヴァンズをあんなに重用したわけですし、サックス二本とか、鍵盤ニ台とか、ギター二本なんていう体制をレギュラー・バンドでもよく採用しました。

復帰後も、1983年のマイク・スターンとジョン・スコフィールドのツイン・ギター時代を経て、86〜90年にはロバート・アーヴィングとアダム・ホルツマンとか、そのほかメンツは折々変更されましたが同時二名のキーボード・シンセサイザー奏者をバンドで起用していました。

ライヴ・ツアーをやるレギュラー・バンドでツイン鍵盤(or ギター)体制をはじめて採用したのが、1970年夏のチック&キース時代であったということで、やはりおそらくスタジオ・セッションでオーケストラみたいに響く(のですごかったと1975年来日時のインタヴューでも語っていた、『アガルタ』ライナーノーツ収録)のをとても気に入って、ライヴでも再現したかったということだったんでしょうね。

そんなサウンドを、きょうはじめにご紹介した70年8月のワイト島フェスでのライヴ・パフォーマンスでも聴けますし、また6月のフィルモア4デイズ(はいまや完全版四枚組で発売されていてサブスクでも聴ける)なんかでもよくわかるんじゃないかと思います。

(written 2021.6.17)

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